探偵クラブの夏休み【7月29日】
「犯人は、あなたです!!」
狭苦しい書庫に、出町昇之介の鋭い声が響いた。その声は、普段のだらけきったナマケモノモードのものではなく、完全にスイッチの入った探偵モードの厳しい声だ。
「あなたはうまく証拠を隠滅したおつもりでしょうが……。一つだけ、決定的な証拠が残っていたんですよ」
追及の矛先は、茶色い合成皮革のソファーにきちんと姿勢を正して座る初老の男性に向いていた。男性は、屋内であるにも関わらず黒いパナマ帽を目深にかぶり、乱雑な書庫には場違いな、しわ一つないスーツに身を包んでいた。腕を組み、出町の言葉の一つひとつに小さくうなずいている。
そんな男性の冷静さを意に介さず、出町は書庫をぐるぐると回りながら追及を続けた。
「もっとも、俺としてはあなたを警察に突き出したくはありません。自首していただけませんか」
出町は、いつになく沈痛な面持ちで言葉を紡いでいく。男性は「自首」という言葉に初めて明確な反応を示し、コホンと一つ咳をした。
「あなたは当初の予定通りに犯行を終えた後、それらを全て空き巣の犯行に見せかけるために室内を荒らし、ショーケースに収められていた宝石類も一つ残らず持ち去った。ですがその時、あなたは重大なミスを犯したんですよ」
「――いったい、どういうことですかな?」
なかなか核心に入ろうとしない出町に、冷静だった男性もさすがに業を煮やしたのか、ついに口を開いた。口調はあくまでも丁寧だがどこか芝居がかっていて、腹の底から絞り出したような妙に低い声が特徴的だ。
「ですから、宝石を持ち出す際、ある見落としをしていたんです」
「それは分かった。それで、その見落としというのは何なんだね? 具体的に言ってくれないか」
わずかにいら立ちがこめられた言葉だった。男性にやんわりと詰め寄られ、不思議なことに出町は目を泳がせていた。次なる言葉が出てこないようで、口を開きかけては閉じ、という分かりやすい動揺の仕草を繰り返している。
「ええと、それはですね……」
出町の言葉が、そこで完全に途切れた。端正な顔に大量の汗を浮かべているのは、冷房の効きが悪いせいだけではないだろう。その情けない顔を見て、犯人と思われていた男性はやれやれといった様子で再びソファーに腰かける。
「ストップ、ストップ!!」
石像のように固まってしまった出町を見かねたのか、横からポニーテールの女の子が出てきて二人の間に割りこんだ。ただ、それを見ても出町は微動だにしない。あきれた顔で首を振った少女は、放心状態の出町を強引にソファーに座らせ、持っていたミネラルウォーターを手渡した。そしてよくよく見ると、書庫の隅にももう一人小柄な女の子がいて、三脚に取りつけたビデオカメラで一部始終を撮影していた。
「もー、また昇ちゃん!? 真面目にやってよね!」
頬を膨らませながら割りこんできたのは森村まどかで、撮影係を務めていたのは新聞クラブの1年生、佐伯青葉だった。実は、撮り直しはこれで7度目であり、その度に出町のミスに付き合わされてきた二人の顔には疲れがあらわれている。一応、室内の冷房は機能しているとはいえ、蔵書の保護という名目で設定温度はやや高めにセットされており、古くなった紙の何とも言えない匂いとも相まって書庫の中は決して快適とは言えなかった。
探偵役を「演じて」いた出町は苦笑を浮かべながら、まどかを必死になだめていた。向かいに座っていた犯人役の男は、大きく息を吐きながらおもむろにパナマ帽をとる。初老の犯人を熱演していたのは、古野直翔だった。
◇◇◇
「ふう。……やっぱり出町には役者は無理ってことか。でも探偵役だぜ? いつもやってるみたいに順序立てて犯人を追いつめてくれりゃそれでいいんだよ」
暑苦しいスーツを脱ぎながらそう言うと、古野はテーブルに置いておいたミネラルウォーターを手に取り、半分ほど残っていた中身を一気に飲み干した。暑い室内での帽子とスーツはやはり相当きつく、全身にじっとりと汗をかいていた。
一方、古野の言葉に二度三度力なくうなずいた出町はそのままごろりとソファーに横たわり、目元のあたりまで伸び始めた髪をだるそうにかき上げてぶつぶつと言い訳を始めた。
「いやあ、どうしてもセリフが頭に入らないんだ。だってこれ、自分で組み立てた推理じゃなくて、まどかの考えたシナリオだしなぁ……」
心底疲れきった表情でそうつぶやいた出町を見て目をぎろりとさせたまどかをなだめようと、古野はもう一度最初から撮り直すことを提案する。だが、反応は思った以上に芳しいものではなかった。ここまで出町がありえないようなセリフのとちりをしても一切不満を言わず、黙々と撮影に徹してきた青葉からも「先輩、ちょっと休みましょうよ」と声が上がった。
「……うん。それもそうか」
一気に緊張の糸がほぐれて脱力した古野は、深いため息とともに体をソファーに預けた。
そもそもなぜ、演技に関しては全くの素人である古野と出町がこんな芝居をしているのかというと、事の発端は8月中旬に予定されている東都高校のオープンハイスクールにあった。つい先日、見学に訪れた中学生を対象とした各部活動のPR動画を制作すると生徒会が決定したのである。5日前、終業式が終わった後に、探偵クラブ顧問の沖津博美から素っ気なくそう伝えられた出町は、PRといっても具体的に何をすべきなのかが全く分からず、困り果ててまどかに相談したところ、「それなら推理劇をしよう」ということになったのだ。
これについて、出町だけはあまり乗り気ではなかったのだが、言い出しっぺであるまどかが自作の脚本を提供し、古野が演劇部の友人から必要な衣装を調達してきたことで、劇をするという方向へ自然と傾いたのだった。もっとも古野の本音としては、出町が眠そうな顔をしながら探偵クラブの魅力を語ったところで中学生の心に響くはずはないから、どうせなら少しでもインパクトを与えられる劇に挑戦したかったのだ。
その後も話はとんとん拍子で進み、撮影が青葉、犯人役は古野、探偵役はもちろん出町。それぞれの担当も決まって後は撮り終えるだけだというところまで来て、肝心の出町が思わぬストッパーになってしまっていた。
「……まあ、昇ちゃんは小学校の頃の劇でも端役だったもんねー。しょうがないか」
まどかは自らを納得させるようにそう言った後、幾分目を細めてぽつりと続けた。
「でも……せっかく、昇ちゃんの魅力が引き立つようなシナリオ、書いたんだけどなあ……」
よほど頑張って脚本を書き上げたのか。恐らく脚本を書くのは初めてだっただろうまどかが、これほどの短期間でそれを書き上げたということの大変さを思うと、古野としては頭が下がるばかりだった。これにはさすがの出町も起き上がって姿勢を正し、「ごめん」と一言謝る。
それからしばらく沈黙が続き、出町は再び寝転がり、まどかと青葉は二人でこそこそ話をし、古野はただ何をするでもなく、腕を組んでソファーに座ったままでいた。ミンミンゼミが中庭で元気いっぱいに鳴く声だけが聞こえていた。
「え、やばっ。もうこんな時間!?」
最初に沈黙を破ったのは、腕時計を確認したまどかの素っ頓狂な声だった。言い終わらぬうちに今度は青葉がそれにつられて同じような声を上げる。古野が呆気にとられているとそのまま2人は荷物をまとめ出し、訳も分からぬまま1分ほどで身支度を完全に整えてしまった。
「お、おい。まどか、青葉ちゃん。どこに行くんだよ」
やや遅れて出町が2人を引き止めようとしたが、まどかは腕時計をチラリと見ただけで出町の問いにはなかなか答えようとしない。隣では、カバンをかついだ青葉が最後に三脚をたたみ、まどかの後ろにぴったりとくっつく。
「お、おい、まどか……」
再度、出町がまどかを呼び止めると、まどかはやや早口ぎみで「実は、これから青葉ちゃんとショッピングの予定なの。本当はもうとっくに撮り終わってるはずだったのに、昇ちゃんがとちってばっかだから……」
時計を見ると、既に13時を回っていた。撮影を開始したのは9時過ぎだったから、途中の休憩などを差し引いてももう4時間近く撮り続けている計算になる。確かに本来ならばとうに終了しているはずの時間だが、出町のミスのおかげで未だまともに撮れたためしがなく、13時を過ぎてなお撮影が続いていたのだった。
「それに、ご飯も食べなきゃいけないし」
まどかの言葉に、古野は久しく忘れていた空腹感を否が応でも自覚しなければならなくなった。蝉の鳴き声に紛れ、隣で出町の腹が微かに鳴った気がした。
「で、でも劇はどうするんだよ?」
出町が腹を押さえつつ思い出したようにそう尋ねると、まどかは目を細めて答えた。
「昇ちゃんが今のままじゃあ、何回やっても上手くいかないと思うよ。少し時間を置いて、練習してからまたやりましょ。分かった?」
語気に珍しくややいら立ちが含まれているように古野には思えた。出町が「わ、分かったよ……」と力なく言うのを聞くと、まどかは一つ息を吐いてから早足で書庫を出ていった。それから青葉が「というわけで先輩、お先に失礼しますね」と申し訳なさそうに言い残して後に続く。書庫には、脱力しきった男2人と蝉の大合唱だけが残った。
「……なあ、古野」
まどかを怒らせてしまったことがよほど悔しいのか、いつになく沈んだ声を出町がかけてきた。
「……何だ?」
「探偵役はお前がやってくれよ。俺、死体の役でいいからさ」
古野は一転、冷めた視線を出町に向けた。
「出町さあ、それってただ寝てたいだけだろ……」
「うーん、バレたか」
これでは本当に反省しているのかどうかは分かりそうもない、と古野は思う。
それからまたしばらく沈黙が続いた。古野は、さすがに腹が減ったのでコンビニに何か買いに行きたかったのだが、出町を置いて単独で行くのもさすがに悪い気がした。ただ、出町が空腹に鳴る腹を押さえつつもなかなか立ち上がろうとしないので、古野も出町を誘えずにいた。
何分経っただろうか。軽快なメロディがメールの着信を告げる。鳴ったのは、どうやら出町のスマホのようだ。露骨に気怠げな表情の出町だったが、メールの文面に目を通していくうちにますますその顔は険しくなっていった。
「メール、誰から?」
思わず興味をひいたので古野がそう尋ねると、出町はくるりとスマホの画面をこちらに向ける。
<出町くん、推理劇のほうはどうなってるのかしら? 今、暇なら古野くん連れてちょっと抜けてきなさい。駅前の『nap』っていうカフェで待ってるわ>
メールの差出人の欄には「数学バカ」の文字。出町がそう呼ぶ相手とはすなわち、顧問の沖津博美だ。何かと出町を目の敵にしてくる奇妙な数学教師で、彼女を苦手とする出町は密かに「数学バカ」と呼んでいた。探偵クラブを立ち上げた際、相互に意思疎通を図る目的の下、出町、古野と沖津の間でメールアドレスの交換がなされていたことを古野は思い出す。私的な利用はしないという約束だったから、恐らく何か重要な話でもあるのだろう。それにしてもなぜ、駅前のカフェでなければならないのだろうか。
「あの数学バカから呼び出し……いったい何だろなあ?」
訝りつつ立ち上がった出町は、劇のために移動させた机や本の山などを面倒くさそうに片付け始めた。
「お、出町、珍しいな。おとなしく行くのかよ」
「……分かるだろ? ここでもし行かなかったら、後でどんな報復が待ってるか分かったもんじゃないぞ」
出町が「報復」という部分を強調してそう言うのを聞きながら、古野はあわてて沖津博美という人物の人となりを思い返していた。授業中に生徒をからかうことで有名な彼女だったが、出町に謎の対抗心を燃やしていて、そのせいで同じ部活に所属する古野にも火の粉が飛んでくるのがしばしばだった。確かに呼び出しを無視するようなことがあれば、夏休みが明けたころには退学になっているのではないかとさえ思う。
狡猾そうな表情のせいで台無しになった沖津の端正な顔を思い浮かべながら、古野は静かに「うん。そうだな」とだけ言い、炎天下を駅前まで歩くべく重い腰をあげた。
「よし、奴の顔を拝むのは癪だが……行くか」
出町の言葉を合図に古野が先に書庫を出ていき、渋々冷房を切った出町が後に続く。こうして2人は、つい先ほどまで書庫で繰り広げられていた一切のやりとりをうやむやにして、ごく自然に日常へと戻っていったのである。
沖津の指定してきたカフェ「nap」は、東都高校の最寄り駅である東都線若森駅の駅前に店を構えていた。木製のドアを開けて入店した瞬間から古野は店内の雰囲気に圧倒されていた。例えるならば古野が中学生の頃、校外学習で訪れた博物館の「古代ケルト人の足跡をたどる」という企画展で見た光景に似ていて、ケルトの妖精文化を髣髴とさせるアンティークが控えめな照明を受けて数多く置かれていたり、ハープの音色を基調とするアイルランド音楽が静かに店内を満たしていたりと、妖精の国に迷い込んだような錯覚に陥りそうな、妙な感覚だ。
「あら、おふたりさん。意外と早かったのね」
沖津は夏らしい純白のブラウスに黒のタイトスカートを履いて、奥の窓際の席に座っていた。古野と出町は、一応軽く会釈をして向かいの席につく。店の雰囲気はどうも落ち着かないが、店内は冷房が適度に効いていて心地が良かった。すかさずやってきたウェイターに、出町はアイスコーヒー、古野はカフェラテを注文する。
「それで沖津先生? 俺たちに何か用ですか」
あくまでも丁寧な口調で出町がそう尋ねると、沖津は一度小さく笑ってから、傍らに置いていたカバンに手を突っこむ。
カフェはかなり人気のようだ。古野たちが入店してからも若い女性客が何人か新たに入ってきていた。改めて気づいたことは、初めから店内にいた客も含め、自分たちの他に男性客が一人もいないということだ。そんな中で、制服を着て窓際に座る男子高校生2人組というのはやはり異質な存在なのではないかと、古野はふと思った。
「……用っていうのは、これのことなの」
沖津がカバンから出してきたのは、表紙に「第3回東京都高校生議会 参加者へのご案内」と書かれたA4サイズの冊子だった。きっちり2人分あり、冊子を受け取った古野は、隣に仏頂面のまま座る出町の前に片方を置いた。
「何なんですか、これ」
ひとまず冊子をパラパラとめくりながら沖津に説明を促す。
「聞いたことない? 高校生議会って」
「さあ……?」
素直にそう答えると、沖津はわずかに口元に笑みを浮かべ、話を続ける。
「高校生の視点で現代の社会が抱える様々な問題を見つめ直してみよう……っていう目的で3年前に始まった取り組みなのよ。議題は第1回が『オリンピックを成功させるには』、第2回が『超高齢社会の日本を生きるには』と続いて、第3回となる今年は『次世代の都市設計と都市環境はどうあるべきか』ね」
途中で、注文したアイスコーヒーとカフェラテが運ばれてきたが、古野も出町も話を聞くのに真剣で手をつけなかった。
「すごく意欲的な取り組みで、私はけっこう注目してるんだけどね、高校生議会には」
「……はあ、そうなんですか」
「それで、参加校は毎年抽選で10校が選ばれるんだけど、今年はウチが選ばれてね。参加生徒を2名選ぶことになったの」
2名、と聞いてとてつもなく嫌な予感がした。
「まさか先生? 俺らがそれに参加する……なんてことはないですよね?」
「あら、さっき『参加者へのご案内』って冊子、渡したでしょ? もちろん職員会議の結果、東都高校からの参加は出町昇之介と古野直翔の2人ってことで決定済みよ」
嬉々としてそう告げた沖津の顔を、古野は思わず凝視してしまった。隣で出町が不機嫌な獣のような低いうなり声をあげる。
「……正気ですか、先生」
「ええ、もちろんよ」
「こういうイベントって、普通は生徒会長とかが参加するものなんじゃないですか?」
職員会議で決定した、というのが事実であればもはや抵抗の余地はないだろうということは古野にも分かる。しかし、高校生議会という大事な行事に探偵クラブの変わり者2人を代表として送り出すなど、正気でないと言わざるをえない。恐らくは沖津が2人を推したのだろうが、まさかそれを教員らが可とするとはいったいどういうことなのだろう。
「残念だけど、これはもう決定したことなの。あなたたちには悪いけど、参加してもらうしかないわ」
理不尽なことだ、と古野は思う。その上、よくよく冊子を読んでみると、開催日時の欄は8月4日から10日までの1週間となっていた。今日は7月29日だから、開催まで既に1週間を切っているということになる。誰がどう考えても準備不足だろう。どうしてもっと早く知らせてくれなかったのかと抗議することも当然できたはずだ。だが、古野はあえてそうしなかった。自分でも不思議なことだと思うのだが、沖津に文句を言いたい自分より、この理不尽な状況を精一杯楽しもうとする自分のほうが強かったのだ。どうやら、ナマケモノの出町と長くコンビを組んできたことでそれなりの忍耐力がついたらしかった。
「……分かりました」
古野がそう答えた瞬間、出町が「おい、本気かよ」とでも言いたげに肘で小突いてきた。とはいえ出町も、ここで抵抗したところでどうにもならないということぐらい理解しているはずだ。たぶん、得体の知れない会議に参加して貴重な夏休み(というより、睡眠時間)を削られたくないというだけのことだろう。出町の考えていることなど、古野には手に取るように分かる。ここは話を前に進めるため、出町をいったん無視することにした。
一方、古野があっさり参加に同意したことに拍子抜けしたのか、沖津は気の抜けた声で「あら、そう」と言った。
「それじゃあ、詳細はその冊子に書いてある通りだから、よく読んでおくように。引率は私が担当します。ええと、それから――」
沖津は再び両手をカバンに突っこみ、今度は文庫本を2冊出してきた。
「これを読んでおくといいわ、というか読んでおきなさい」
そう言って沖津がテーブルの上に置いた本は『2時間で分かるニュータウン開発の歴史』、『近代都市を作った人々』とそれぞれ題されていた。著者の欄には、いずれも住吉京一郎とある。
「……先生、これは?」
「さっきも言った通り、あなたたちには『次世代の都市設計と都市環境はどうあるべきか』について議論してもらうことになるわ。でも、その辺の知識は皆無でしょう? 一応、その本読んで勉強しておきなさい」
開催の6日前になって参加を命じられ、これを読んでおけというのも無理がある話だと思うが、そして出町が露骨に憤りのため息を漏らしたことにも気づいていたが、古野は何も言わずに本を受け取った。著者の欄をこっそり見てみると、住吉京一郎というのは城陽大学の教授で、日本における都市環境学の第一人者らしかった。
用件はこれで終わりのようで、沖津は慌ただしくレモンティーを飲み干して立ち上がった。
「じゃ、あとはさっきの冊子で確認しておいてね。ここのお金は払っておくから――」
よほど急いでいるのか、最後まで言い終わらないうちに沖津は席をあとにした。
「……出町、怒ってるか?」
この店に入ってから一言も言葉を発さなかった出町は、さぞかし怒っているだろうと思われたが、意外にも出町の顔には笑みが浮かんでいた。どちらかというと苦笑に近い笑みだったが、不機嫌そうな顔を想像していた古野はその反応に驚いた。出町は、恐らく沖津に対しては怒っているのだろうが、勝手に参加を承諾した古野のことは許そうとしてくれているようだった。
「古野さあ、お前あの数学バカとグルだってことはないよな?」
「はあ? どういうことだよ」
「この……高校生議会だっけ? 例えばお前が、ほんとはこの存在を知ってて俺を驚かせるために、直前になってそれを公表するとか――。だとすれば壮大なドッキリだけどな」
さすが、出町はとんでもない冗談を言い出した。
「そんなわけないだろ。俺がそんなことすると思うか?」
「ま、それもそうか。それより、とっとと出ようぜ。この店にいるとどうも落ち着かなくて」
そう言って出町はアイスコーヒーに口をつけた。古野は、足元に置かれていた「妖精にご注意ください」という看板を見、それからもう一度北欧文化が再現されたファンタジックな店内を見回し、確かにここは自分たちのいるべき場所ではないと思い当たって、注文したカフェラテだけ飲み干してすぐさま出町とともに店を後にした。
まだまだ陽は遥かに高く、昼のうちにたっぷりと日光を蓄えたアスファルトがそれを吐き出しているため、外に出た瞬間に魔物のような暑さに襲われる。
「暑っ。マジかよ、これ」
出町が悲痛な叫びを漏らすが、残念ながらマジである。とはいえ古野も暑さには耐性がない。早く書庫に戻り、お構いなしに冷房をフル稼働させて落ち着きたいとの思いから、必死に足を動かし、駅からの人の流れに紛れこむ。
「実は」
暑い暑いと連呼していた出町が突然真面目な声を出した。喧騒に負けないように古野も大きな声で答える。
「どうした?」
「実は、高校生議会に参加するにあたってさ、ほんとはすごく面倒なんだけどさ、一つだけ良かったと思うことがあるんだよ」
「何だよ、いったい」
「……ほら、推理劇の練習をサボる合理的な理由ができたってこと」
歩きながら、暑いのも一瞬忘れて古野は思わず噴き出した。
「……森村に言いつけとくぞ」
それを聞いて出町は目の色を変える。その反応が一々おもしろかった。
「そ、それは困るっ! やっぱり今のはナシだ!」
「はいはい、分かった分かった」
ほんとにまどかには言うなよ、という出町の声は聞こえなかったふりをして、古野は構わず歩き続ける。
7月の高く澄み切った空の下、古野と出町はその後もつまらない言い合いをしながら東都高校へと続く道を歩いていった。