Episode6:願うのは《日常》
2388年5月25日(水)3:05 P.M. 第13居住区・南星宮高校
空飛ぶ少女の動画を投稿した後も、光の学校生活はいつも通りの様相を見せていた。5時限目の数学の授業では、いつも通りエルクが居眠りをしていたし、6時限目の英語では、衣栖佳が流暢な発音で教師の指摘した箇所をすらすらと読み上げていた。唯一変わったことと言えば、5限と6限の間の休み時間で、光の動画を目にしたらしい生徒の噂話が度々聞こえてきたことである。
「ねぇ、この動画見てよ!人が空飛んでるの。ヤバくない?」
「どうせ合成動画だろ、これ?」
「ワイヤーとかも見えないし、どうやって飛んでるのかしら?」
「もしかしてこの女の子、宇宙人なのかも!?」
「いやいや……それはないだろ常考……」
(もしかして皆、僕の動画を観たのかな……。もう話題になってるなんて、さすがは情報化社会って感じだな。)
クラスメイトたちの会話に耳をそばだてていた光は、自分の動画が既にクラスの話題になっていることに、ネットワーク社会の情報伝播のスピードに驚愕すると同時に、一種の高揚感を感じていた。もうすぐ6限目が始まる頃、光は周囲に隠れてIDEA-Watchの『WeTube』を起動し、先程投稿した動画をチェックする。
光の眼に飛び込んできたのは、「視聴回数1277391065回」という数字だった。短時間のあいだで信じられない位に急増した再生数に、光はバグや不具合ではないかと一瞬疑ったほどである。尚も再生数の増加は止まることを知らないようで、光は十万の位が8になるのを見届けてからWatchの画面を消し、英語の教科書とノートを準備した。
英語の授業が始まってからも、光の脳内は動画の事でいっぱいだった。今、教師が英文を読み上げられている間にも、自分の動画が全宇宙の人々の目に留まり、そして話題が広がっていく事を思うと、なんだか胸がぞくぞくとしてくる。先程の12億という数字を見て、自分のちょっとした行動が、世界全体の流れを大きく変化させているんだと、光はその身をもって実感したのである。今開いている英語のテキストは、「butterfly effect」に関するとある科学者のエッセイである。その著者の主張はいまいち分からないが、「ブラジルの1匹の蝶が羽ばたいた時、遠くのテキサスで竜巻が起きる」という「butterfly effect」の説明の一部を何気なく眺めていた光は、自分の現在の状況をそのブラジルの蝶に重ね合わせていた。
「“ブラジル”って、どんな場所だろう――」
光は英語の授業が終わるまでの間、恐らく《地球》の地名であろうそのブラジルに想像を巡らせ続けていた。どんな生き物が生息しているのか。どんな建築物が建っているのか。人々の生活はどんな風なのか。どんな食べ物があるのか。自分の父親はそこにいるのか――
「光ッ!!」
光の耳に鋭く入ってきたのは、クラスメイトの衣栖佳が彼を呼ぶ声だった。その声に反応して、光は素早く身体を起こし声のした方に向き直る。
「もう授業終わったよ。アンタ、ずーっと外見てボーッとしてたけど、何か悩みでもあるの?」
光はいつもより教室が広いと感じた。それもそのはずで、6限の英語の授業は移動教室で、クラスの半分は2-C教室に留まり、もう半分は別の教室で授業を受けることになっている。そのため教室の半分は空席となっており、エルクと福希が別教室にいるためとても静かだったのである。
衣栖佳はさっきの授業中、何か物思いにふける光の様子を見つめて、光が悩み事を抱えていると思ったらしい。光は手のひらを横に3回振り、
「いいや。悩み事なんてないよ。ただこのテキストの解説文にある“ブラジル”ってどんな場所かなって思ってね。これって《地球》の地名だよね?」
「そうよ。」光の質問に即答した衣栖佳は、光のために“ブラジル”に関する知識を提供する。「ブラジルってのは、かつて《地球》に存在した国家の名前で、今は同惑星の第27居住区の名称になっているの。アマゾン川っていう多くの支流を持つ大河があって、その流域には広大な熱帯雨林が広がっているの。そこには毒を持つカエルとか、真っ赤な顔をしたサルとかが住んでてね――」
衣栖佳の長々とした説明にも、光は真剣に耳を傾け続ける。衣栖佳にとっては常識以外の何物でもないことを話しているに過ぎないが、光にとって彼女の《地球》の話は、どれも新鮮な驚きを持ったものに感じられ、毎日聴いていても飽きることはないのである。
「へぇ~。そのブラジルってところも、《エデン》みたいに自然が豊かなんだね。」
「ブラジルだけじゃないわ。他の《地球》の居住区にも、それぞれ個性豊かな自然が根付いているの。ちょっと待ってね。今、写真見せるから。」
そう言って衣栖佳は、自分のWatchをいじり始めた。何やら自分で撮影した写真を見せるつもりのようだ。衣栖佳は、お目当ての写真を見つけると、Watchの画面を光に向ける。
「あったわ。これよ。」
写真には、曇天の空に高く聳える2本の緑の柱が写っている。緑の部分はよく見ると植物の葉っぱのようだが、2本の柱は空に向かって、太く、真っ直ぐ、枝分かれせずに伸びており、しかも2本の柱は根元の方で一体化していて、全体としてはまるで音叉のような形をしている。このような姿をした樹木を、光は今まで見たこと無かった。
「何これ!?これが《地球》に生えてる樹なの!?」
「う、うーんと……まぁ、そんなところかしら。」
衣栖佳は少し間を置いて答えた。その間に衣栖佳が何を感じたのか、この時の光にはまだ分かるはずもなかった。
「《地球》には今、こういった風景が広がっているの。で、この写真はアタシが暮らしていた《日本》って居住区で撮ったものでね――って、ちょっと、聴いてる?」
衣栖佳の説明よりも、光の興味は写真の樹木に釘付けだった。《地球》にはまだ見たことのない景色があるのだと、光の青い瞳はより一層その輝きを増して、遥かなその星に憧れの眼差しを送っていた。
「ねぇ、衣栖佳。」
光の目映い瞳が、衣栖佳に向けられる。
「な、何?」
「いつか僕が《地球》に行く事になったら、衣栖佳、君に案内をしてほしいな。この写真みたいな景色、もっと観てみたいから――!!」
衣栖佳の眼の前に、光の小さくも希望に満ちた顔が迫ってくる。驚いた衣栖佳は、光の視線からつい眼をそらしてしまう。光は何とも思っていないが、あとちょっとで鼻同士がくっつきそうな距離に、衣栖佳は戸惑いを隠せないでいる。
「ちょっ――顔近いよ。離れて――」
衣栖佳のその湿っぽい声は、光を拒絶しているというよりは、親しい異性の顔が近くにあることに恥じらいを覚えているように聞こえる。そんな衣栖佳の感情を汲み取ったか否か、光は近づけた顔を元に戻す。
「ご、ごめん。つい……。」
「べ、別にいいわよ……。」
顔を赤らめた二人の間には、しばらく微妙な空気と沈黙が訪れていた。
「――あのさ、光。」
先に沈黙を破ったのは衣栖佳だった。
「な、何?」
「その左手ってさ、本当にどんな願いも叶えてくれるの?」
光の左手にある《希望の痣》。それは触れた者の願いを実現化させる不思議な力を秘めている。衣栖佳はそのことを、福希やエルク、その他のクラスメイトの話から聞かされてはいたが、まだ実際にその効力を体験したことはおろか、光のその痣を見たことすらも無かったのである。
「どんな願いも、とまではいかないかもだけど、結構効果は高いと思うよ。何か叶えたい願いでもあるの?」
光は右手を、手袋をした左手の上に添える。衣栖佳は少し沈黙してから、
「うん、ある。」と、首を縦に振る。
「じゃあ言ってごらん。僕の左手を握りながら。」
そう言って光は、左手の手袋をすっと外す。白い地肌とは対照的な黒い幾何学模様の痣が、そこに現れている。光の痣を初めて見た衣栖佳は、何百年もの間秘蔵されていた美術品を観るかのような、驚きと興奮に満ちた表情を浮かべていた。
「――触ってもいいの?」
「うん。触られても別に痛みとか感じないよ。それに直接触れた方が、実現する確率がアップするんだ。」
「なるほど。それじゃあ……」
衣栖佳は、自らの小さな両手で光の左手を包み込む。両手いっぱいに光の温かい体温を感じ取りながら、衣栖佳は眼を閉じ、心を澄ませ、自身の願いを口にする。
「『ずっと光と、一緒にいられますように』――」
衣栖佳が願いを言い終えた瞬間、普段は青く輝くはずの《希望の痣》が、一瞬だけ赤く煌いた。初めて見せる《痣》の表情に、光は戸惑いを隠せなかった。
「何?どうしたの?」
願いを言い終えた衣栖佳が光の異変に気付く。
「い、いや。なんでもないよ。大丈夫さ。」
心配する衣栖佳に対して、光は気丈に振舞う。《希望の痣》がこれまで見せたことのない色を見せたものの、左手に痛みはなく、他も特に異常はないので大丈夫だろうと、光は気を落ち着かせる。
「っていうか、そんな願いで良いの?『ケーキをいっぱい食べたい!』とか、もっと大胆で欲張りな願いでもいいのに――。」
「いいの。私にとっては、それが一番“欲張りな願い”なの。」
少し俯いた表情で、衣栖佳はそう囁く。光はその言葉の意味を詮索しようとしたが、衣栖佳のその哀愁で満ちた虚ろな微笑を観て、何かのっぴきならない事情があるのだと察して何も聞かないことにした。
「おーい、望月~!!」
教室の後ろのドアから、光を呼ぶ声がする。見てみると、既に下校準備を整えたエルクと福希の姿があった。
「今日は部活ねぇから一緒に帰ろうぜー!!」
「駅前の美味しいクロワッサンたい焼き、一緒に食べましょう!!」
エルクと福希の呼びかけに促され、光と衣栖佳はすぐさま教科書と筆記具を鞄にしまい、二人の元へと駆け寄る。
「お待たせ!」
「じゃあ、行きましょうか!」
「あそこのクロワッサンたい焼き、最近“納豆プリン味”ってのが出たらしいよ?」
「なんだよそれ、間違いなくマズい奴じゃねーか!」
いつものメンバーと、いつもの他愛もない会話をしながら、いつも通り学校を出る。それが自分の日常であり、この学校を卒業するまではそんな毎日がずっと続くものだと、この時の光はそう信じて止まなかった。
突如、黒い軍服を着た集団が、光たちの眼の前に現れる。彼ら軍服の左胸には、3人の女神に抱かれる《地球》のエンブレムと、「UGE」の文字が刺繍されていた。
「UGE軍・対原生生物特殊部隊《エデン》第13居住区支部副隊長、ドロシー・ブラッドアイだ。ここに望月光という生徒はいるか?」