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81 恐ろしい

 立石さんの通信機が鳴った。森さんが連絡してきたのだった。

 通信を終えた立石さんは棒をしまって機嫌良さそうに言った。


「よし、降りようか!」

「はい」

「あ、そうだ。樋本さん、魔術使ってここから飛び降りてみない?」


 は?……は? え? 飛び降りる? 十五階のさらに上であるここから?


「えっ、そんなの怖いですっ」

「おっ、無理とは言わないんだね?」

「それは、立石さんならうまく降ろしてくれるんだろうなって思ってるので……」

「それは嬉しいな! じゃあ飛ぼっか!」


 立石さんはにこにこして手を差し出してきた。この手をすぐ取れる人は相当度胸のある人だと思う。バンジージャンプとかやりたがるに違いない。


「何でそんなことするんですか?」

「今日みたいなことがまたあった場合、飛び降りて逃げなきゃいけないこともあると思うんだよね。ぶっつけ本番より、練習しておいた方がいいでしょ?」


 むう、そうか……そうかもしれない……けど……。

 ちゃんとした理由があるからといって、そう簡単に頷けるものじゃない。

 ……はっ、もしや立石さんのお母さんはこんな状況を想定して……?


「い、嫌です」

「重力任せが怖いなら、早いうちから魔術使うよ?」


 拒否したのにまだ誘ってくる立石さん。そんな彼の肩をアズさんが掴んだ。


「待て。いきなりここから地上はきつい。まずは隣に移るところからだ」


 ……飛んでおくことには賛成ですか。


「じゃあ、隣から降りてみよう。ね?」

「主。避難訓練は大事だぞ」


 ううぅ……避難訓練なんて言われたらやらなきゃいけない気がしてきた……。


「……はい……」

「その決意が消えないうちにやっちゃおうね。アイレイリーズ君、抱えちゃって」

「おう」


 アズさんが私をひょいと抱き上げた。


「今回は一気に飛ぶんじゃなくて、足場を作るよ。向こうの世界の救助隊もよくすることだよ」


 立石さんは柵に手をかけると体を持ち上げて楽々と向こう側へ行った。そして再び棒を出した。


「さ、おいでおいでー」


 なんとも気楽な様子で手招きする立石さん。


「行くぞ」


 わっ! ひょえっ。

 私を抱えているというのに、アズさんが手すりに飛び乗った。そして降りた。やっぱりすごい。そしてやばい。屋上の柵の外にいて、しかも抱えられているという今の状況は危ないという気持ちしかない。香野姉妹だって勇樹くんだって佐々木さんだってこうなれば恐怖を感じると思う。

 私が怖がっているのがわかったのか、アズさんが腕に力を込めた。


「そいっ」


 立石さんが棒を振ると、空中に、紫色で板のような魔力の塊が三つ現れた。ホテルから離れるにつれて位置が下がっている。隙間と段差が大きい階段のようだ。

 ……これは救助隊のやることじゃないと思う。足場を作るのは本当かもしれないけれど、これは違うはずだ。これアクションゲームの足場!


「僕が先に行くよ」


 大きく跳んだ立石さんが一枚目の板に着地した。板はどうともならなかった。

 立石さんが二枚目に移動した。


「ほら、大丈夫だよー!」


 一度振り返って、それだけ言ってさらに跳んだ。


「主」

「……はい」


 ひゃあああ!

 私が返事をするなりアズさんの足はホテルから離れた。落ち……あ、止まった、あああああ! 落ちて足場に着地したかと思えばほとんど止まることなく次へと移った。その後も同じように飛び移って、横にも縦にも大きく移動して、


「ほら、着いたぞ」


 ホテルの隣のビルの屋上に着地した。同じ高さにあるのはホテルの十三階。上を見ると、足場の板が空気に溶けるようにして消えていくところだった。


「す、すんごいドキドキしました……」

「そうか」


 アズさんが私を降ろして、頭を軽く撫でた。

 休む間もなく立石さんが私の手を取った。


「ここからは僕とだよ」

「はい……」


 そのまま私は屋上の端まで連れていかれた。アズさんは鞘に戻った。

 下を見る。地面が遠い。ホテルよりは低い建物だけれど、十分高い。


「ちょっと失礼」


 立石さんも私をあっさりと抱き上げた。

 ……覚悟しなきゃ。できるものじゃないけど。


(大丈夫だ)

「行くよっ」


 あっ……! ひいいいいいぃぃぃぃぃ落ちてるうううぅ!

 怖くて怖くて私は目を閉じた。するととても強い風が下から吹いてきて、落下の速度が緩んだ。ちょっとだけ目を開けてみると、視界が紫色で、風や空気に色がついているようだった。立石さんが何かしているのがわかった。


「着地するよ!」


 風がやんだ。普通に落ちる感覚に、私はまた目を閉じた。

 衝撃が伝わってきて、止まった。


「もう大丈夫だよ」


 目を開く。周りを見る。立石さんの足が地面に着いている。


「……おお……」

「はい、お疲れ様」


 私は地面に降ろしてもらった。

 ……あああああ、怖かったあああああ……。

 私が立っていたのは少しのこと。すぐにその場に座って顔を伏せた。

 疲れた。今の飛び降りでとどめを刺された。


「気分悪くなった?」


 立石さんが膝をついて聞いてきた。


「ただただ疲れました……」


 途中で補給させてもらったけれど、もうくたくただ。こんなの、帰りの電車で立っているなんて無理。混んでいて座る所がなかったらどうしよう。きっと今みたいに床に座り込んでしまう。電車に乗る前にどこかで休むしかない。


「そっか」


 複数の足音が聞こえる。何人か近付いてきた。

 立石さんが立った。


「僕らに何か用かな?」

「その人は……」


 この声!

 私はフードを引っ張った。


(さすが主。反応が早いな)

「もしかして、戦力ですか」

「そうだけど」


 私のことが気になってわざわざ聞きに来たの?


「あまり戦いに向いていないように見えますが」

「何、心配になった? 今はすごく疲れてるからそっとしてあげてね」

「心配でもありますが、それより不思議に思えたので」


 こんな怪しい私のこと心配してくれるなんて家上くん優しい……ああ素敵……。


「魔力が無いのにどうして、ってところ? 秘密」

「そうですか。……ここにいるのに、いないみたいですね」


 家上くんまでそれを言うの?


(ほう?)

「不思議なこと言うね?」

「自分でもそう思います」

「そう」


 会話が途切れた。でも家上くんたちはどこにも行かない。立石さんは困惑しているみたいだし、私はじっくりと見られているような気がしてとても落ち着かない。


(今顔上げたら目が合う気がするんですけど)

(この状況じゃあ、見つめられたって嬉しくないか)

(ドキドキはしてますけどね)


 残念なことに嬉しくない。それどころか恐ろしい。もしも家上くんに避けられるようになったら、悲しいでは済まない。


(何ですか、この状況……!)

(何だろうなあ。よくわからない空気が流れてるな。いや停滞してるのか。オレがあいつらの後ろに出て脅かしてみるか?)


 ……それもいいかもしれない。

 アズさんにお願いしようとしたその時、家上くんが喋った。


「用は済みました。失礼します」


 足音が今度は遠ざかっていく。

 ほっとした。でも、いなくなったらいなくなったで寂しい。複雑。

 家上くんの声を聞けたことで私はいくらか元気になったので立ち上がった。

 銀髪家上くんたちは駅の方に去っていく。姿が見えるのは二年生の四人だけ。他の人はとっくにどこかに行ったんだろう。


「んー……」


 立石さんが銀髪家上くんたちをじいいいいっと見つめている。


「何か気になることでもあるんですか?」

「いやさあ、あの銀髪君、背が伸びてるよなあって。去年の秋は青い人より小さかったと思うんだよね。やっぱ未成年なんだろうなあ」


 確かに去年のうちは家上くんより涼木さんの方が明らかに大きかった。

 ……そんなことはもちろん言わず、別の同級生のことを言う。


「そういえば最近、クラスの男子が大きくなっててびっくりしました。私より小さかったはずなんですけど」


 小柄な文学少年だったはずの矢崎くんが図書館で高い所の本を楽々取っていた時の衝撃ときたら!


「そっか、そっかー。僕もねえ、高校入った時はちびだったんだけど、卒業する時は女子は大体見下ろすようになってたよ。ふふ、気付いた時は嬉しかったなあ……」

「入学した時、どれくらいだったんですか?」

「百五十七とちょっと」


 今の私より約一センチ低い高一の男子かあ……確かに小さい。


「大きくなったんですねえ。今いくつなんですか?」

「百七十八。いやあ、母さんより大きくなれて良かったよ」


 私と立石さんは話しながら路地に隠れた。この空間が消えるのを待つ。


(向こうの駅に着いたら起こしてくれよ)

(はい)


 コートを戻すとアズさんは寝た。それとほぼ同時に立石さんの髪の毛が黒に戻った。

 制服姿になった私を見て立石さんが首を少し傾けた。


「全身を覆うような服を着て顔を隠してるのは、明るい街中じゃ目立つよね。学校の制服の方が存在感がないくらい。銀髪君にはどう見えてたんだろうね?」

「何なんでしょうね……。実は、立石さんに会う前に会った銀髪の人からも『まるでいないかのようだ』って言われてるんです」

「へえ。兄弟の独特の感覚ってこともあるかもしれないね」

「そうで、わっ、あっ」


 立石さんの意見に頷いた時、落ちるような感覚がした。


「おっと」


 立石さんが支えてくれて、私は尻餅をつかずに済んだ。やっぱり香野姉妹に教わったように足下を見ていないとだめだ。


「ありがとうございます」

「どういたしまして。あー、疲れたー……」


 立石さんがぐっと伸びをした。

 彼は腕を下ろすと、ふっと真面目な顔になって言った。


「今回ので、迷惑な人たちは、樋本さんが何ができるかわかったかもしれないよ」


 二度、いや三度目撃されたものな……。新崎さんに協力した時は茶髪の青年がこっちを見ていたし、今日は金髪の青年が私たちの所まで来た。それにあずき色の子に麺棒を投げて当てたのは私。私が魔力をどうにかしていると彼らが考えるのは十分ありえる。


「私って、どのくらい邪魔でしょうか」

「そうだなあ……僕なら、わざわざ探すことはないけど、いるとわかったら攻撃するかも。『変な理由で襲われるかもしれない』から『見つかったら襲われる』になったと思ってて」

「はい、気を付けます」


 立石さんとはここで別れた。立ち去る彼の後ろ姿は完全にウォーキングする人だった。

 私は駅とは反対方面に少し行って、荷物を引き取るために香野姉妹と合流した。ディウニカさんはいなかった。一足先に帰ったらしい。


「先輩が無事で良かったですー!」

「今回はアズさんと離れませんでしたし、立石さんもずっと一緒でしたから」

「じゃ大丈夫ですねー」


 香野姉妹とも別れた私は、傘を袋から出した。傘をビニール以外の袋に入れている人はそうはいない。黒い袋に入った傘を持っているのを家上くんたちに見られたら、黒服で姿を隠しているのが私だと即バレる可能性大だ。


☆★☆


 駅に着いて時刻表を見たら、乗りたい電車が発車するまで二十分だった。そこで私はホームで電車を待つことにした。

 ベンチに座って、水筒に残っていた麦茶を飲む。一杯飲んでそれで満足して、水筒をしまった。

 ああ疲れたな。電車空いてるといいな……。


「大丈夫か」


 声をかけられて顔を上げたら新崎さんが目の前に立っていた。


「私が疲れてるように見えましたか」

「ああ。今日は何か特別に動くことでもしたのか」


 新崎さんが私の隣に座った。


「あのですね、終わった後に、今後は階段以外から逃げないといけない事態になるかもしれないからってことで、ファンタジーな避難訓練でビルから降りたんです。怖かったです」

「なるほど。危機感が薄い方でも怖いか」


 あの空間の外で同じことをやる羽目になったらもっと怖いのかな。


「そういえば新崎さんはお怪我はありませんか」

「ない。あいつらとは距離があったからな」

「それは良かったです。他の皆さんはどうなんでしょう。茶髪の人の暴れっぷりは私にもわかりました」

「怪我人は出たが深刻な人はいない。前のように頑張りすぎてどうにかなった人もいない」

「そうですか」


 ガラスが割れたり壁に穴が開いたり道路がえぐれたりしても、深刻にならずに済むなんてみんな頼もしくていい。

 ホームに入ってきた電車は混んでいた。帰宅の時間帯だから当然だ。でも多くの人が電車を降りたので私と新崎さんは席を確保できた。


☆★☆


 電車を降りて改札を通った私はアズさんを起こした。

 帰り道では、まず立石さんに言われたことを話して、それから銀髪の人の話をした。


(自分の前で喋ったことを秘密にするよって言われちゃったんです)

(……わざわざ伝えられたってことか。察しのいいやつだな)

(うかつでした……)

(そうはいっても、あいつの兄に失礼な態度は取れないって思っただろ)


 さすがアズさん。お見通しだった。

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