40 ないよ
休み明けの月曜日は家上くんと何も話せなかった。話しかけるタイミングが掴めないでいたら、「暑い」と言いながら腕捲りをした家上くんにドキドキしてもうどうしようもなかった。なんでもない仕草だし腕捲りしているのなんて何度も見ているのにどうして……と、はるちゃんに意見を求めたら、間近で見たことで家上くんが成長して男らしさが増したのがよくわかったからではないかと言われた。
火曜日は、先週の金曜日のようにとはいかなかったけれど、話すことができた。家上くんと百瀬くんが小、中学校の先生の話をしていて、そこに混ざってみた。はるちゃんが部活でいなくて心細くて「今日も無理かな……」と思っていたけれど、家上くんの声を聞いていたら「やっぱり話したい!」という気持ちが強くなったものだから、アズさんを起こして背中を押してもらった。最終的に、美少女二人と、部活を終えたはるちゃんと両角くんも会話に入ってきて、それなりに盛り上がった。
☆★☆
水曜日。
文化祭まであと二日となると、部活が無かったり早く終わったりする人が多い。はるちゃんは無い人だったし、藤森くんと両角くんは早く終わる人だった。男子二人は五時頃に教室に戻ってきた。
今日の私たちの班は、教室全体の装飾のために画用紙や段ボールを切ったり、他の班の人と一緒に迷路の外側の壁に飾りを付けたりしている。
「うわっ!?」
家上くんの悲鳴のような声が聞こえて顔を上げてみれば、どういうわけか家上くんと駒岡さんが一緒に倒れるところだった。二人は重なって倒れて、家上くんは頭を床に打ち付けてしまった。
人が床に倒れれば当然すごい音がする。教室の中の生徒だけでなく廊下にいた生徒も倒れた二人を見た。
「ちょ、二人とも?」
涼木さんが慌てたように二人のそばでしゃがんだ。
私は家上くんが心配で思わず彼らに近寄った。
「いってぇ……」
家上くんがしかめっ面で呟いた。
頭なんてちょっと動いて固いものにぶつけるだけでもあんなに痛いんだから、立っていて倒れてぶったらどんなに痛いだろう。
「二人ともごめん!」
倒れた二人に吉田という男子が謝った。位置的に吉田くんが駒岡さんにぶつかって駒岡さんは家上くんを巻き込んで倒れたんだと思う。
「俺のことなら気にしなくていいけど……」
と家上くんが言うと、駒岡さんが家上くんからぱっと離れた。
ゆっくり立ちあがった家上くんが、「大丈夫か?」と駒岡さんに聞いた。自分の方が痛い思いをしただろうに、なんて優しいんだろう。
「……」
駒岡さんはどういうわけか返事をしない。駒岡さんもどこか変に打ってしまったんだろうか。
「……えっと、その、ごめん……」
なぜか家上くんが謝った。
「う~……っ」
小さく呻いた駒岡さんが、家上くんの頬をぶった。バチン、と痛そうな音がした。
信じられない。
家上くんが駒岡さんに何をしたかはわからないけれど、既に謝ったのだし、下敷きになった上に頭を床に打っている。そんな彼に、何で、何で……!
「何でそんなことするの!?」
気が付くと、私は駒岡さんに向かって大きな声でそう言っていた。
(主?)
アズさんが起きた。私が起こしてしまったんだろう。
「えっ?」
「……え……」
駒岡さんがきょとんとした顔で私を見ている。家上くんが目を丸くしている。家上くんと駒岡さんだけじゃない。教室にいる人の多くが、今度は何だと私に視線を向けてきた。
注目されたことに私はひるんだけれど、
「そんなことって、何?」
なんて駒岡さんが言うものだから、すぐにそれどころじゃなくなった。
「家上くんを下敷きにしといて、ビンタするってどういうこと!? 何考えてんの!?」
「え、でもこいつ、私の……」
言いづらいのか、駒岡さんは顔を少し赤くした。
「私の、ここに……」
そして胸に手を当てた。
「……そう! ここに! 触った!」
今度は恥ずかしさに怒りを加えてさらに顔を赤くして、私を睨んできた。
なるほど、家上くんはそれで謝ったのか。確かに家上くんの手は駒岡さんの体の下にあった。でも駒岡さんが手をあげていい理由にはならない。
「たまたま当たっただけ! 駒岡さんが家上くんの上に倒れ込んだの! あなたが先に立てたのは、あなたが上だったからでしょ!? 下敷きになった人に暴力って意味わかんない!」
「これくらい暴力のうちに入んないわよ!」
「はあ!? じゃあ何!? あんなすごい音させて、家上くんはほっぺに手ぇ当てて! 胸触られたって怒ってやったことが、暴力以外の何だっていうわけ!?」
「正当な仕返しよ! こいつだって謝ったじゃない!」
「そりゃ当たっちゃったって自覚したら謝るよ! わざとじゃないんだから普通はそれで許すのに!」
「それはあんたが今みたいな目に遭ったことがないから言えるのよ!」
「そんなことない!」
駒岡さんが両手を握った。拳が飛んでくるかもしれない。でもここで引くなんて嫌だ。
「あなたは過剰なんだよ! いつもそう! この前だって」
「待って樋本さん!」
家上くんに名前を呼ばれて、私は反射的に黙った。彼に「待って」と言われたからにはこのまま口を閉じているしかない。
「ふ、二人とも、落ち着いて」
……うん。駒岡さんがよっぽど変なこと言わなければ私はこのまま黙っていられるよ、家上くん。
駒岡さんはというと家上くんをきつく睨みつけた。
「触ったあんたにそんなこと言う権利ある!?」
「な、ないかもしれないけど、冷静になった方が……」
強く言えない家上くんに涼木さんが味方する。
「楓。家上の言うとおりだよ。ちょっと落ち着きなって。熱くなるとあんたが不利になるだけ」
「……」
友達の言うことに従うことにしたのか、駒岡さんは何も言わずに俯いた。教室がすっかり静かになった。
涼木さんが家上くんに視線を送って、家上くんは小さく頷いた。……二人はこんな風に意思疎通できちゃうんだ……。
「ええと、樋本さん、あれとか塗りにいこう」
家上くんがいろんな形に切られた段ボールを指差した。私とはるちゃんがやったものだ。
「……え。あ、えっと、うん」
何で私が誘われてるんだろう。
「小野さんも来てくれるかな」
はるちゃんにも声がかけられた。
「うん、わかった。これは私たちで持ってくよ」
私と違ってはるちゃんはしっかりと返事をした。
私ははるちゃんに段ボールを持たされて、彼女に引っ張られるようにして教室を出た。少し遅れて家上くんも出てきた。
☆★☆
無言のまま私たちは二階のとある廊下に移動した。ここは文化祭の準備期間は色塗りをするためのスペースだ。床と、壁の下の方が透明なシートに覆われている。これなら塗るものから絵筆や刷毛がはみ出ようが絵の具やペンキをこぼそうが校舎が汚れることはない。でも服は汚れるかもしれないから、学校のジャージ、Tシャツ姿で作業する人もいる。
ここに来るまでに私の駒岡さんに対する怒りの熱はだいぶ引いた。……と思う。怒っていることに変わりはないけれど、大声で言い合って疲れて、もう怒鳴る気力がない。
家上くんが色塗りの道具と場所を確保して座って、彼の向かいにはるちゃんが私を座らせた。はるちゃんは私の隣。
刷毛を握った家上くんが、
「えっと、その、びっくりした」
と言うと、はるちゃんが頷いた。
「私もー。っていうかみんなびっくりしたと思う」
二人はほぼ同時に私を見た。二人とも私の様子を窺っているような感じだ。
「……ごめんなさい……」
驚かせてしまって、教室の空気を悪くしてしまって。
「あの、家上くん。頭とか大丈夫? 休んだ方がいいんじゃない?」
「大したことないよ。俺頑丈だし、教室の床そんな固くないし」
家上くんは小さな笑みを浮かべて答えた。私を安心させてくれようとしているんだろうか。私に笑ってくれたのはいいけれど、駒岡さんへのイライラと、家上くんへの申し訳なさと彼が心配な気持ちが強いのとでちっともテンションは上がらない。
(後で悪くなることもあるから、注意しててやりな)
(はい)
アズさんの声がとても優しくて、私は心が少し穏やかになった。
「……どうして、家上くんは私たちと一緒にここに来たの?」
「とにかく二人を離さないとって思って。あいつ、手を出しそうだったから」
私が聞きたいのはそういうことじゃない。
「それなら、私にこれ塗ってこいって言えば良かったんじゃないの。家上くんまで」
教室を出ることはなかった。
そう言うつもりだったけれど、家上くんに遮られた。
「そんなことできない」
彼はきっぱり言った。
「かばってくれる人を追い出すようなことなんか、できないししたくない。出るなら俺も一緒だ」
真剣な表情で自分の考えを話す家上くんはとてもかっこよく見えた。
家上くんがきりっとしていたのは少しの間のことで、
「……それに、そもそも怒りの原因は俺だし」
と、暗めの顔をして付け足した。声のトーンが低かった。「やっちまった」とか思っていそう。
「でも、家上くんは私の味方したみたいになって、駒岡さんはいい気はしないよね」
「あー、まあ、うん、怒ってると思う。樋本さんの味方したし逃げたって思ってるんじゃないかな……」
ああどうしよう。家上くんと駒岡さんの友情に私がひびを入れてしまったかもしれない。余計なことをしてしまったような気がしてきた。いいや、駒岡さんに対して怒ったことはきっと間違ってない。言い方が悪かった……。
「……あんな風に、きつく言って、ごめんなさい……。普通に言ってればきっと、家上くんが私とここに来ることなかったのに……」
俯いていたら、
「そうかもしれないけど、謝らないで」
と、家上くんに暗くないしっかりした声で言われた。
「俺さ、デリカシーないこととか、言わなきゃいいようなこと言って、よくあいつを怒らせてるだろ? だから今日みたいに運悪いことが起きた時にあいつにすっごく怒られてもしょうがないんだ。バカガミとか言われてますますみんなに呆れられるのもしょうがない。それなのに樋本さんはあいつにあんなに怒って、俺のことかばってくれて、嬉しかった」
嬉しかった? 本当に?
視線を上げると、家上くんが微笑んでいた。本当に、本当に私の言動を良いものだと思ってくれたの?
「ありがとう」
どういたしまして、なんて言えない。ああ、嫌だな、せっかく家上くんがお礼の言葉を言ってくれてるのに、喜ぶ気持ちがちょっとだけしか湧かないなんて。
「他人の、それも俺なんかのために怒るなんて、やっぱり優しい人だな」
「違うよ。そんなことないよ」
家上くんのことだから怒ったんだよ。
例えば百瀬くんが同じ目に遭っても私はああならない。不愉快に思って物申したくなるだろうけれど、今回みたいにかっとなって叫ぶようなことはないはずだし、そもそも声を出すことすら怪しい。
「……ところで、これ何色に塗ればいい?」
家上くんが段ボールを指してそう言って、
「特に決まってないから好きな色で」
はるちゃんが答えて、教室であったことの話は一旦おしまいになった。