29 長く
最後に魔獣を見てから一週間が過ぎて、土曜日になった。
朝、自分の部屋で読書をしていたら、美世子さんからメールが来た。
主な内容は「次の土日に武器を一斉に点検、整備するので、なるべく来るように」というものだった。私や香野姉妹のような、あの空間に入ってしまう人と会える良い機会でもあるらしい。
昼前にアズさんが起きたのでメールのことを伝えたら、
(一体何年ぶりだ……)
と、アズさんが独り言のように言った。
(三人目の主の手に渡る前にしてもらったのが最後か……?)
それだと三百年近いのでは……!
(だいぶ昔ですね)
(あっちの世界と関わることが本当に少なくなったし、自力で直しきれないような事態にはならなかったんだ)
(長い年月でどこか劣化してないんですか?)
(あちこちしてはいるけど、どこも気にならない程度だな。問題あったらとっくに主に言ってる)
(あ、そうですよね)
ところで、アズさんは資料はあってもいろいろ不明で伝説扱いにまでなっていたけれど、どこかが悪くなっていた時に直したり交換したりができる人はちゃんといるんだろうか。少し心配。
☆★☆
火曜日。
学校から駅へ向かう途中で膜の内側に入った。というか入れられた。
今回も転びそうになって、またなんとか耐えた。……のはいいのだけれど、だいぶ人通りの多い所で消えてしまった気がする。見た人がいたら、気のせいだと思っているといいな……。
強制的に入れられたのは組織を知った日以来だ。電車を降りたら、ということもあったけれど、あれはどちらかといえば自分の意思で入ったから数えないでおく。
私とアズさんはとりあえず、普通に駅まで行くことにした。
何もなければ立ち止まることもない。
最近、信号無視に慣れてきてしまった気がする。ここから出られた時にやってしまわないか不安になってくる。……ということをアズさんに言ったら、
「じゃあ今日は赤で止まるか」
と返ってきた。
そんなわけで駅近くの交差点で信号待ちをしていたら、車道を暗い緑色のものがのそのそ歩いているのを見つけた。あれは何だろう。何の形だろう。お腹と地面がだいぶ近いように見える。
「アズさん、あれ何でしょう? 顔の大きい豚じゃないですよね」
「カバだと思うぞ」
「あー、言われてみればカバに見えます」
「だろ? 前に似たようなのがいて、近付いたらそうだったんだ。……さてどうするか……」
アズさんは少し考えるような様子を見せた後、私に、この場で待っているよう言った。
スタスタとアズさんが近付いていくと、魔獣もアズさんに気が付いたようだった。急にかなりのスピードで走り出して、アズさん目がけて突進した。
突っ込んできた魔獣をアズさんはひらりとよけると、魔獣はすぐに止まった。前に見た水色の牛のように物にぶつかることはなかったけれど、横からアズさんに顔を刺された。あれは目の位置かな。
アズさんが短刀を抜くのとほぼ同時に、魔獣が大きな口をグワッと開けて、
「ボワアアアアアアアアアア!」
と叫んだ。間近で聞いたアズさんはとてもうるさく思ったんじゃないだろうか。
口を開けたり閉じたりしながら頭を上下左右にブンブン振る魔獣からアズさんが一旦距離を取る。
疲れたのか冷静になったのか、魔獣の動作が鈍くなった。するとアズさんは魔獣を飛び越えて、素早く魔獣のもう片方の目を刺した。
刀が抜かれると、魔獣はさっきよりも大きく叫びながらアズさんの方へ体の向きを変え、即座に飛びかかった。魔獣が着地した所にもちろんアズさんの姿はない。アズさんは横に跳んで魔獣をかわして、それからすぐにまた跳んで、魔獣の頭を踏んづけてから地面に着地した。
頭にダメージを受けたせいか魔獣が座り込んだ。そこにアズさんが近付いて、今度は頭をグサリと刺した。魔獣は叫ばないし動かない。とどめになったかと思ったけれど、違うらしい。まだ形が崩れない。
アズさんに何度も攻撃されてようやく魔獣が泥のようになった。
魔獣だったものが小さくなっていくのを私はアズさんと一緒に眺める。
「丈夫でしたね」
「丈夫っていうか、しぶといっていうか、まあとにかく面倒だったな。……主に会うのが半年早かったらな」
「そうだったら刀が長くて楽でした?」
アズさんは頷いた。
「あと、もうちょっと切れ味良かったと思う」
「そういうところも変わるんですか?」
「いくらかな」
面倒だった魔獣の核を回収してまた歩いていくと、なぜかうさぎを抱き抱えた人が駅前にいた。
見覚えある人だなと思ったら、アズさんと勝負した人たちの一人だった。髪が黒から緑になる二刀流の人だ。名前は細田さん。彼は困ったような顔をして私たちにうさぎの説明をした。
「このうさぎ、向こうの世界の絶滅危惧種だと思うんだ」
「そっ、それはすごいものが来ちゃいましたね」
細田さんの抱えるうさぎは目が黒くて、毛は背中側が茶色でお腹側は白い。子供向けの絵のうさぎみたいに先の丸い長い耳で、その根本にはまるで髪飾りのように長い茶色の毛が生えている。
「うん。だからさ、侵入者としてカウントされてるけど、死んでもらうのもなあって思って、とりあえず捕まえたんだ。で、総長に連絡したら、そのまま捕まえといてって言われて、こうやってずっと抱っこしてるんだけど、これじゃあ戦えないんだよね。代わってくれない?」
「いいですよ」
そんなわけで私がうさぎを抱えて、カゴか何かを持ってくる人を待つことになった。逃げられてしまわないか心配だけれど、今のところうさぎは私の腕の中でおとなしくしている。もしかしたら動物園か何かの子で、人に慣れているのかもしれない。それとも別の世界に来てしまってとても疲れているんだろうか。
それにしてもかわいい。私が今まで見たうさぎの中で一番かわいい顔をしている気がする。保育園のみっちーよりかわいい子がこの世にいたとは……あ、この世界の子じゃないんだった。
「ここ自分の世界じゃないって知ってる?」
とかうさぎに話しかけていると、私と細田さんの通信機が鳴った。確認しようにも私はうさぎから手を離せないのでアズさんに通信機を持ってもらって画面を見ると、総長の文字の横に二重丸が表示されていた。これは全部の通信機に一斉に連絡する時の印だ。
細田さんが自分の通信機のボタンを押したようで、横から立石さんの声が聞こえてきた。それにやや遅れてアズさんもボタンを押して、私の通信機からも同じものが聞こえるようになった。
立石さんはこの空間の広さと、街のどの範囲が入っているかをまず伝えて、
『それからめんどくさいお知らせです。あちらの世界の動物が紛れ込んでいます。見つけたらなるべく殺さずに、捕獲するようにしてください。以上』
通信機ごしでも面倒くさそうにしているのがわかる声だった。
動物というのは魔獣と違って襲いにくるとは限らないから面倒だとアズさんに聞いている。侵入者扱いされるのに、隠れたり逃げたりしてこの空間が長く存在する原因になるらしい。
「この子だけだといいですね」
私がそう言うと、アズさんと細田さんが揃って頷いた。
それから少しして、青い軽自動車が走ってきた。
車がこの空間を走っていることに私は驚いたけれど、ここにあるものは元の世界のものと同じように動くということを思い出して納得した。
運転席から降りてきたのは、四十代か五十代か……まあ簡単に言えばおばさんだった。髪は黒い。
おばさんは山田と名乗った。
山田さんは私の前に来ると、「あらー、かわいい」と言いながら白い石のペンダントをうさぎの体にかけた。石は丸っぽくて、大きさは小指の爪より少し大きいくらい。もしかして神社でアズさんが言っていたのはこれのこと?
「この白いのって、ここに入れるようにするのですか?」
気になったので山田さんに聞いてみた。
「ん? ああ、あなたは入っちゃう人ね。まだこれ見たことなかったんだね」
「はい」
「これはね、ここに入れるようになるだけじゃなくて、侵入者じゃない方に数えられるようにもなるの。――それじゃ、うさちゃん入れて」
私はうさぎを、車に積んであったケージに入れた。うさぎはおとなしく入ってくれた。
再び車に乗った山田さんは、この空間の端へうさぎを連れていった。
私とアズさんは細田さんと別れて侵入者探しを再開した。
知らない道を歩いていたら魔獣の鳴き声らしきものが聞こえた。その方向に行ってみたけれど何も見つけられなくて、うろうろしているうちに遠くの景色がきらきらし始めた。魔獣は誰かが倒して、その人はとっくに立ち去ったんだろう。
私はすぐそばにあった眼鏡屋の裏手に隠れて、アズさんは鞘に戻った。
香野姉妹に教わったことを実践してみる。
足下をじっと見ていて、不意に自分の立つ場所が不安定になったような気がした。今のは何だろうと思ったら、車が走る音が何台分も聞こえてきた。
……元に戻った?
(立ってられたな。良かったな、主)
(はいっ)
尻餅をつくこともなかったし、壁に手をつくこともなかった。
さて、早く帰ろっと。
来た道をたどって駅まで戻ると、そこには制服姿の家上くんたちがいた。駅ビルの一階にある、屋外にも出入り口のあるドーナツ屋に七人全員入っていった。
(もしかしてまた家上くんの奢りでしょうか……)
学校でそんな様子はなかったけれど。
(単に魔獣と戦って疲れたから寄ってくだけかもしれないぞ)
(それならいいんですけど)
……家上くんとおやつ……うーらーやーまーしーいー!
そう考えたのがわかったのか、
(……せめて何か買ってくのはどうだ?)
アズさんがそっと提案してきた。
それもいいかもしれないけれど、
(選んでたら電車行っちゃいそうだからやめときます……)
あっちの駅の売店にドーナツ売ってたかな……。