103 手紙
水曜日の夜、新しい文章を書きながら悟った。金曜日の私はまた不安でいっぱいになる、と。
アズさんの言ったとおりということか、前よりも良いと思える文章を考えることはできた。そして火曜日のうちに一通り書いた。だけど「これでいいのか」がずっと頭にある。修正してみても、「この文章は変じゃないか」とか「これは余計かも」とか「これでは伝わらないのでは」とか読み返す度に思う。金曜日には手紙を出すわけだから木曜日には清書をしないといけない。清書をしたら今の不安に「字が汚くはないか」が追加されるのは間違いない。金曜日の朝までに解決できる気がしない。
困って思い切ってアズさんに相談してみた。
(そうか……んじゃあ、添削しようか?)
あう。文章のこと相談したわけだからそういう返事をされることくらい予想できてたけどやっぱりやーだー!
(私のことよく知られてるのは重々承知の上ですけど読まれるの無理ですー! はるちゃんでもお母さんでも無理ですー!)
それにセラルードさんはとてもモテた人だ。アズさんはほとんど覚えていないと思うけれど、たくさんラブレターをもらったであろう人の一部に私の文章を見せるとか恥ずかしすぎる。無理無理無理無理。
(無理、やだ、ってのはよーくわかった。それなら、これでもかってほど妥協しよう。オレが提案した文を書くってのはどうだ)
(それはラブレターとしてものすごく間違っているのでは?)
(オレが考えたことを書くわけじゃない。主が考えてそうなことをオレがいくつか言うから、一つか二つ選んで書くんだ。チョコは買ってきた型に流し込んだんだろ? それと同じだ)
なるほど。チョコの型を選んだように、定型文から贈りたいものを選べと。
(それならいけるかもしれません)
(よし。それじゃ今から考えるから、万年筆で書く練習でもしながら待っててくれ。あいつの名前とか、書くことになりそうな単語とか)
(はい)
とりあえず「家」の字から練習する。こんなに早く万年筆で彼の名前を書くことになるなんてなあ。
しばらくいろいろ書いていたらアズさんから声がかかった。
私はアズさんが出してくれた文の中からごく一般的なものと情けない私っぽさのあるものを組み合わせてみた。
それから寝るまでまた字の練習をした。
そして木曜日の夜、時間をかけて清書した。
家上晶くんへ。
好きです。
突然ごめんなさい。勇気を出せるようになったらきちんと告白させてください。
「突然ごめんなさい。」は自分で考えてアズさんと相談して付け加えた。
短いから封筒に入れると大袈裟だ。だから、小学生の時に身につけた「手紙」の形にすることにした。一枚の紙を折って友達に渡すあの形。念のためにシールで固定を……手紙の女子児童感がアップするものしかない。去年買ったマスキングテープにしよう。こっちならなんとか女子生徒だ。うん。これで、これでよし……?
(これでいいんだ)
私が不安になってきたところでアズさんが言い切ってくれた。
(文章も字も紙も問題ない。だからもう寝よう。もし寝られないで何かを考えるなら、明日いかにこっそりこの手紙を届けるか、だ)
(はい)
私はアズさんの言葉に従った。電気を消して目を閉じて、登校したらどうするかを考えているうちに寝た。
☆★☆
翌朝、電車を降りた私はいつもより速く歩き、ときどき走った。学校に着く時刻を早めれば下駄箱周辺の様子を窺う余裕ができるからだ。とはいえ授業が始まる前にやってしまうのは難しいと思っている。
反対方面の電車に乗ってきた生徒の集団に追いついて、その中にはるちゃんの姿を見つけた。
どうしよう。手紙を書いたきっかけが向こうの世界に関係することだから秘密にしようと思っているのだけれど。ずっと励ましてくれている友達に何も言わないのはなんだか薄情だ。それに彼女の力を借りた方がきっとうまくいく。
決めた。
(はるちゃんに協力を頼みます)
(お、そうか)
私はさらに走って、はるちゃんの名前を呼びながら彼女の肩に手をかけた。
「はるちゃんっ。おはよう!」
「ほえ、ゆかりん。おはよ。早いね」
少し驚いているはるちゃんに私はもっとくっついて、歩きながら小声で用事を伝える。
「あのねあのね、家上くんにお手紙書いた」
「なんとお!?」
「すっごく短いしやっぱり匿名なんだけど、でもちゃんと好きって書いたの」
「おおー!」
「それでね、下駄箱にこっそり投函しようと思うの。だからお願い、協力してください」
「もちろん!」
はるちゃんは笑顔で頷いて、それからちょっと真面目モードになった。彼女も声を小さくして話す。
「やっぱり、私があの人の上なのを利用するしかないよね。こう開くから……」
右手で下駄箱の扉を開ける仕草をした。
「私がちょこっと開けてゆかりんが隙間からさっと入れればいいかな?」
「うん。それで、問題はいつやるかなんだけど、学校着いてすぐはやっぱり厳しいよね。昼休みが一番いいかな」
「時間の余裕的にはそうだよね。でも昼休みは外に出ようとする人そこそこいるから、授業と授業の間の方がいいかも」
こうして、授業が一つ終わったら手紙を持っていくことになった。一度行ってだめだったら次の休み時間に再挑戦する。お昼休みには何が何でも持っていく。
計画を話し合った後、はるちゃんは私に当然の質問をした。
「で、どうして急に手紙書こうって気になったの? あの謎の大人っぽさのせい?」
「あれは関係ないかなあ。何もしなくて後悔するのが嫌で、とにかく今出せる最大の勇気を出してみようと思ったの。十七になったって意識してたからかな」
「十七になったんだしって勇気が出るようになった? もう十七って焦りが出た?」
「焦ってる」
「そっか」
本当はね、誰かに追い詰められちゃったからなんだ。でも誕生日を迎えて時間の経過を感じたのも本当のこと。
「で、お手紙は短いってことだけど、どういう形式で?」
「これです……」
手紙を鞄から出して見せてみた。
「うーん、中学生」
うっ。
「やっぱり変?」
(こら、不安になるからそういうこと聞いちゃいけないぞ)
「匿名なんでしょ? だから、いたずらだって思われちゃうかもなあってちょっと心配になった」
はう。封筒の中の便箋に長文ならともかくこの程度の手紙はとても簡単に気軽に用意できるものだということを失念していた。
「でもきっとゆかりんのことだからうんと丁寧に書いたよね。大丈夫か」
「はい。うん。万年筆使って慎重に書きました」
「それならやっぱり大丈夫だ!」
(そうそう。大丈夫大丈夫)
そうだよね、そうだよね。そんなに心配することじゃないよね、うん。
☆★☆
今朝の家上くんは美少女三人と戸田くんと机を囲んでいた。私は彼らに「みんなおはよう」と言ってみた。顔を上げて私を見た家上くんは驚いていた。
「おはよう、樋本さん。今日は早いんだな」
「うん。今日はね、走ってみたの」
今の私は手紙のことで緊張している。家上くんにはどう見えているだろう。以前のようになぜか不自然に挨拶してくる同級生になっていないだろうか。
「そうしたら途中ではるちゃんに会えて、一緒に来たよ。ところで何してるの?」
「陣取りゲーム」
家上くんは机の上の紙を指差した。たくさんの黒い点と三色の三角形がある。順番に点から点へ線を引いて三角形を作っているようだ。
「前に百瀬が教えてくれたんだ」
その百瀬くんは今いない。バス通学の彼は通常ははるちゃんの後、私の前に登校してくる。
「おはよー」
教室の入り口からのんびりした声が聞こえた。長田くんだ。
「あっ、長田ー! あんた私のチームね!」
涼木さんがペンを持った手を上げて言った。
「ええー、それはずるくねー?」
戸田くんが抗議して、
「何? いいけど」
長田くんはあっさり了承した。
「ここまで孤軍奮闘だったんだから認めてもーらーいーまーすー!」
涼木さんは長田くんの参戦を強く主張した。
私はここで引き揚げておいた。
☆★☆
数学の授業の後、次の古典の準備をしてから私とはるちゃんは早歩きで教室を出た。階段を下りる時、はるちゃんから手すりを掴んで下りるよう言われた。私が緊張と焦りで階段を踏み外さないか心配になったそうだ。
下駄箱前の廊下を歩く生徒たちの中に私たちと同じ組の人や家上くんと親しい人はいなかった。
「行ってもいいかな?」
「うん。大丈夫。周りは気にしない。用があるのは私の靴。いいね?」
「はいっ」
「さ、突撃だーっ」
(おー!)
はるちゃんに軽く袖を引っ張られ、アズさんの元気な声に押されるようにして私は下駄箱の前に立った。
私がポケットから手紙を出すと、はるちゃんが家上くんの下駄箱の扉を少し開けた。私はそこに素早く手紙を放り込む。扉が閉まる。
(成し遂げました!)
(よくやった!)
アズさんが褒めてくれるのと同時に、
「これでよし。急いで戻ろ」
まるで自分の用事で来ましたという雰囲気ではるちゃんが言って、
「うん」
私は何かしらの形で達成感や喜びを表現したいのを堪えて頷いた。
早歩きで廊下を進み、階段を上る。上りきると、
「無事済んだ!」
はるちゃんが機嫌良さそうに笑って言った。
「うん、ありがとう!」
「どういたしましてっ。さてさて、教室に入る前にまた何でもないふりしなきゃ」
「うん。平常心、平常心」
☆★☆
昼休み。私とはるちゃんは気分良く中庭に出た。
ベンチに座ったはるちゃんが、
「ハイタッチしよ、ハイタッチ」
そう言って両手の手のひらを見せてきた。
「うんっ」
私たちは手を合わせて、そのままなんとなく指を組んで万歳した。
「ふははっ」
「へへっ」
満足したので手を下ろして、お弁当を広げる。
「で、気になるあの人だけど、今日もなーんにも変なことないね」
水筒の温かい紅茶をコップに注ぎながらはるちゃんが言った。
「そうだね。この前のあれ、気にしすぎたかなあ」
「そうかもー」
(下校の時にめちゃくちゃ変になるかもしれないけどなー)
手紙に気付いたらその場で開けるのかな。女児感バリバリでもハートのシールを貼ってラブレター感を出してとっさに隠したくなるようにすればよかったかな。
(今更ですけど、駒岡さんたちに手紙のこと知られちゃうんでしょうね)
(うまいこと隠してくれるかもしれないぞ。小さいものだし。そういえばバレンタインはどうだったんだ?)
(わかりません)
あの日、私は家上くんが登校してきたところは見ていない。彼が普段教室に入る時間には私はいない。いたらいつもと違う行動をしたことがわかってしまう。だから私はチョコを家上くんの机の中に入れた後、はるちゃんが登校してくる時間まで図書館で過ごした。
はるちゃんが教室に入ってから私が下校するまでに家上くんは何度かチョコを貰ったかどうかの話を主に男子としていた。彼は私のチョコの存在は言わなかった。はるちゃんが会話を聞いた時には駒岡さんたち(美女先輩含む)から義理チョコを貰ったと白状していて、休み時間には計六人(葵さんと真紀さんが追加。真紀さんは市販品を全員に配布)にチョコを貰ったことを大変羨ましがられていて、昼休みには本命を貰えるわけがないと主張して、それに対して「まあそうだろう」と駒岡さんと涼木さんに同意されていた。
家上くんは家に帰って一人になるまで私のチョコが何なのか確かめられなかったのではないかとはるちゃんは推測している。
「そういえば帰る時どうする? 家上くんが下駄箱開けるとこ、見る?」
え。開けるところを、手紙に気付くところを、見る……?
「ど、どうしよう。自分でもどうしたいかわかんない」
「じゃあ見とこうよ。やらないことで後悔したくなくて手紙書いたんでしょ? 見ないのも後悔になっちゃうかも」
(どう扱われるかわからないのはバレンタインと同じでも、確かにあいつの手に渡ったって知ってると不安感が薄れるんじゃないか?)
二人が言ったことに対して私は「そうかも」と思った。だから頷いた。
「わかった。見てみる」
☆★☆
放課後。
右手でパカッと下駄箱の扉を開けた家上くんは、ちょっと固まった……と思う。下駄箱の中に上履きを持った左手が入って、その手が靴を掴んで出てくるまでの時間は、上履きを置いて別の履き物を取り出すだけのことにしては長かった。
(袖の中だな)
「袖の中と見た」
アズさんとはるちゃんが同じことを言った。
家上くんは右手で扉を閉めて、靴を右手に持ち替えて、左手をポケットに入れた。ポケットから出た手は何も持っていなかった。
(今の見たか、主!)
「ほらー!」
あわ、あわわわわわー! なんだか顔が熱くなってきた!
「手紙が小さいのと長袖の季節なのが良かったね」
「あ、あれ、ラブレターって、わかってもらえたのかな?」
「とりあえず他の人から隠すべきものとは思ったんじゃないかな。女子感あるものだから」
バレンタインの時もあんな感じでこっそり鞄にしまったのかな?
家上くんが友人たちと外へ出ていく。またね、家上くん。
「はるちゃん。私、今、落ち着いてられないよう……」
私は壁の方を向いて、手で顔を覆った。
「もう、そんな風にしてたら怪しまれちゃうよ。でもしょうがないか」
(そうだな。しょうがない、しょうがない)
はるちゃんにぽんぽんと優しく背中を叩かれて、頭を撫でられた。
……ああ。ああ良かった。受け取ってくれた。あとは読んでもらえることを願うだけ。
本当は、気持ちをいっぱいぶつけてみたかった。だから明日、結局は後悔してしまうかもしれない。それでも、小さくて短い手紙でも、何もしなかったよりはずっとずっとまし。きっとそう。