玉虫の羽
『堤の館にて』に続き、某出版社新人賞落選作品。
文中に言及がありませんが、主人公の好きな作家は澁澤龍彦です。
一
何の匂いだろう、と寒河江恭介は溜息を吐いた。湿った土の匂い。或は肥料の匂いか。
恭介の勤務するN――市立第二中学校は周囲が田圃や畑だ。風が吹くと、そういった湿気を帯びた土の匂いが流れてくる。
自分自身が泥の中で身動きできないような気分だ。
校内全面禁煙で、喫煙者は敷地内から閉め出しを喰らってしまっている。職員室でも煙草は吸えないので、学校の門から出た所で、休み時間などに紫煙をくゆらす。PTAの集まりで学校行事の話し合いをしているお父様、お母様もたまにご一緒することもある。やあご苦労様です、とか、お忙しいんでしょう、とか、当たり障りのないような会話を交わしながら一服する。
教師の中で喫煙者の女性は少ない。恭介の勤務先では、理科を担当している高島那美子だけが喫煙者だ。ほかの女性教師たちは煙草を全く吸わないのか、家に帰るまで我慢しているのか、恭介は知らない。男性教師に交じって、白衣姿で女性が一人プカプカやっているのを見るのは、どこか可笑しい。
これも理科の実験なの、と言わんばかりに煙の流れゆく方向を見詰め、または煙で輪っかを作ろうと真剣に口をパクパクしていたりする。
茶色い真丸い目と、どちらかというと丸顔の顔貌から、童顔、生徒と同じように見えると、教師仲間から評される。確かに教師の中では若い方だが、どうしてどうして、恭介より三、四歳ほど上、三十前だ。担任を持たされていない、副担任という身分は恭介と同じだが、れきとした違いがある。
高島那美子は正式採用された教諭だが、恭介は臨時任用教員だ。
大学を出て二年目の春だ。教諭として採用される為に、教師の仕事の合間に試験勉強に明け暮れている。
来年度採用試験の為の願書は出した。しかし疲れて、無感動になっている自分がいる。隣で煙草を吸っている高島が呑気そうで、羨ましい。いや、教職に就いている以上、暇を持て余している筈がないのだが、恭介には余裕が無いのだ。
「寒河江先生、一本無駄になるよ」
高島に声を掛けられ、慌ててくわえたままだった煙草の灰を落として吸い直す。
「ぼんやりしてました」
「考え事が多いようね」
「ええ、まあ」
「でも今年は去年みたいに、暖かい季節になって新型インフルエンザの流行に気を付けましょうがないからいいわ」
「今年は――、平成二十二年度は平和だといいですね」
「そうね」
高島は会話を続ける気がないらしく、ふうっと口をすぼめて煙を出す。
この女性にあれこれと言ってみたところで詮ないことか、恭介はチラと横目で高島を見、正面を向いた。
童顔と言われていても、高島は背が高い。中学生ともなると図体ばかりは教師より大きな生徒も出てくるが、高島より背の高い女子生徒はバレー部やバスケット部にも少ない。恭介より幾らか低いくらいで、高島がハイヒールの靴を履いたら見下ろされるじゃなかろうか、と思う。
恭介が初めて高島を見たときは、品のいいシャム猫みたいなお嬢さんと印象を持った。色白で、ほっそりと長身、丸い茶色の目に小さな顎。
好奇心が強いあたりは猫なのだろうが、品がいいというのは完璧に間違いだ、と今は考え直している。
田圃や畑に囲まれたこの中学校は、昆虫や蛙、小鮒の採集・観察が出来るから、高島にとって素晴らしい環境なのだそうだ。初夏から秋にかけて、ユスリカが群れをなして飛んでくるのを紫煙と手とで追い払いつつの喫煙休憩も楽しいものらしい。虫がいれば殺虫剤を振りかざす母や姉、授業中に窓から虫が入ってきたと悲鳴を上げて騒ぐ女子生徒ばかりが女性ではないのだなぁと、恭介は認識を改めされられる。
「もうじき中総体ね」
と、高島が話し掛けてきた。そうだ。もうすぐ市の中学校総合体育大会が始まる。その後は教員採用の一次試験が控えている。
「今年は野球とサッカー、どちらの応援になるでしょうね」
恭介は応援よりもしておきたいことがあるのに、と胸中で呟きながら答えた。
「どちらも暑そうね」
「室内競技だとほとんどは、ここや他所の中学校の体育館を会場にしますからね。その場合だと、出入り自由と行きませんから」
「まあね。でも今の時期運動部顧問は大変よ。わたしたちは文化部の顧問だから、こうして呑気にしていられるわ」
「ペーペーには有難いですよ」
「わたしも学年主任の小山内先生に比べればペーペーよ」
高島は笑ったが、恭介は素直に相槌を打っていいものか迷った。自分だけ若いつもりなの、との嫌味なのか、わたしだって若いのよ、とのアピールなのか、それとも深読みし過ぎのなのか。
「小山内先生は、わたしが中学生の頃から貫録十分の先生だったものねぇ」
良かった。考え過ぎだった。
「さて、わたしはお先に戻るわ」
喋るだけ喋って、高島は煙草の吸殻を携帯灰皿に入れた。それじゃぁ、と手を振って校舎へ入っていった。高島は科学部の顧問だ。そのまま理科室に直行だろう。
恭介は郷土史研究部という、有名無実の、運動嫌いか、集団行動の苦手な受験勉強しかする気のないような生徒たちの受け皿の部の顧問をしている。毎日活動する要もないので、週に一回集まるだけだ。顧問の俺も有名無実なものだよな。恭介は自嘲する。こんな気分では良くない、どうやったら心が晴れて前向きになれるだろう。
「おや、いたのかい」
高島とは入れ違いに、国語の川口がやってきた。恭介は国語担当なので、川口には何かと指導を受けている。その川口は白髪交じりの髪型に、ネクタイの代わりにループタイを下げていて、こちらの方が郷土史家のようないでたちなのだが、筆を持つので得意で、書道部の顧問だ。
「いえ、時間をつぶしすぎたようで」
そろそろ入りますよ、との恭介の言葉に、川口はもう一本のんでいったらどうだいと勧めた。先の一本は無駄にしたようなものだ。断り難く、恭介はもう一服することにした。
「高島先生とすれ違ったよ。
女の子がいるのもいいが、煙草のときは男ばかりの方が気兼ねしなくていい」
川口に恭介は曖昧な表情を作ってみせた。
「小山内先生ばかりでなく、僕にとっても高島先生は教え子だったからね。女の子だからってだけでなく、子ども時代を憶えているとやりずらいところもあるんだよ」
「問題児だったんですか?」
川口は大仰に手を振りながら笑った。
「逆だね、優秀だった。高島家はきょうだい揃って優秀だった。ただ高島君はもやしっ子っていうのかな、年に一、二回は熱を出して休んでいたなぁ」
「高島先生のごきょうだいも教え子だったんですか?」
恭介の問に川口は一瞬うっかりした、と困ったような顔をしたが、すぐににこやかに答えた。
「直接教えていなかったが、彼の女の弟が在学のときも同じ中学にいてね、弟君も優秀で健康優良児だったよ。彼の女、大人になったらもやしというより長ネギみたいになっちゃったなぁ」
長ネギ、の表現に恭介も共感して、可笑しかった。カボチャや芋に例えられるよりはいいじゃないか。
成程、男ばかりでないと出来ない話だ。
恭介はゆっくりと一服して、川口と職員室に戻った。
二
「野球部があっさり負けるとは思っていなかったわ」
「弱いんだから仕方ないじゃありませんか」
中総体で野球部は一回戦から負け、吹奏楽部が熱い中、重い楽器を難儀して運んで行ったのに、すぐに出番がなくなり、応援のほかの生徒ともども、市の野球場から第二中学校へカラ戻り。ヘバリ気味で生徒みなで給水をしたり、日陰を探して涼んでいる。
第二中学校ではサッカーの試合の割り当てになっているので、サッカー部の応援に切り替えだ。
「この次はウチの学校のゲームだから応援を頑張ろう! 今ゲームやってるチームの邪魔にならないように待機!」
生徒たちに大声で指示を出して、高島は水飲み場へ来た。
先に水飲み場で顔を洗っていた恭介は、水がはねないよう、端に寄った。
有難う、と高島は水栓をひねると手を洗い、両手ですくって水を飲んだ。大人の女性は仕草が違うな、と恭介はつい観察しながら、顔を拭いた。蛇口を上に向けてガブガブと水を飲む生徒たちはやはり子どもだ。
校舎下の日陰に何とはなしに生徒たちの引率をしていた教師たちが並んだ。美術部顧問の澤田は両手の親指と人差し指で矩形を作ってフィールドを眺めた。構図を考えているのだろう。
「保護者の方々も来ているし、ここ数年サッカー部の成績がいいから、応援に熱が入りそうだ」
「そうですね、自分の頃とは大違いで、サッカーが人気ですね」
水を飲み終えた高島が横に座った。
「弟がサッカーをやっていた頃は、ただ走り回っていただけにしか見えなかったのに、体力も技術も大分向上したみたいですね」
「指導する側も大変らしいよ」
「ボールに群がりたくなるのを抑えて、攻撃や守備の形を取るのも、ポジションの役割を教えるのも難しそう」
「端から見ていると、バスケットや野球よりルールが細かくなそうですけど、それ専門でやるとしたら、色々あるんでしょうね」
好き勝手にサッカーの論評をしていると、生徒たちとグラウンド側にいるサッカー部顧問が手を振るので、皆して会釈する。顧問はこちら側が何を話しているか知らず、また生徒たちやグラウンドの試合に目を向けた。
「今日は、お邪魔します」
女性の声が掛けられた。
今日は、と受けて高島が立ち上がった。
「お久し振りね、元気だった?」
「ええ、那美姉さんこそお元気そうで何より」
那美姉さん? 高島には弟だけでなく、妹もいるのか、と恭介は声の主の顔を見た。
長ネギやシャム猫とは形容しがたい印象の、小柄な女性だった。お雛様のように頬が豊かで、笑う目元が涼しげだ。アップにして髪型で、小首を傾げている仕草が色っぽく見える。
生徒たちの保護者――、お母さまたちとは違う妙齢の女性だ。
「今更後輩たちに差し入れでもないのに……」
「今年は見込みありと聞くと楽しみなんでしょう。ご本人は今日来られなくて口惜しがっていますよ」
高島は苦笑して、どれご案内しましょうと、その女性をグラウンド前に陣取っているサッカー部の生徒たちの所へ連れて行った。二リットル入りの大きなペットボトルが二本入った袋を下げていたのを顧問に差し出す。おお、と控えめな歓声か聞こえた。
「誰ですかね?」
恭介の問に澤田も解らないと答えた。
「高島先生の友達か後輩じゃないのか」
容貌も背格好も違うから、姉妹ではなかろう。
高島はサッカー部の面々やその近くに控えている保護者たちに挨拶してこちらに戻ってきた。小柄な女性はそのまま保護者たちの隅に残った。
「お友達かい?」
澤田が訊いた。
「ええ、近所の子です。元サッカー部のわたしの弟に頼まれて、差し入れと応援ですって。卒業して十年は経っているから、知っている後輩がいる訳でもないのに、弟も弟だし、美夜子ちゃんも休みをつぶして素直なものです」
「高島先生が差し入れする訳にいかないからでしょ」
「まあ、今日は元々野球部の応援だったんですし、顧問でもないのに肩入れ出来ませんから」
高島が喋りながら小首を傾げてみせたが、美夜子という女性とは違って色気は出ず、外国人のやるような、肩をすくめる動作に似ていた。
「そのミヤコさんというご近所さんはサッカー好きなんですか?」
おや、と、高島は恭介を見た。
「いくら頼まれたとはいえ、わざわざ熱い中ホコリだらけの中学校に来るんですから、好きなのかと思って……」
「多分……、好きなのだと思うわ」
「Jリーグをよく観るとか」
「そこまでは知らないわ」
澤田が笑いながら恭介に言った。
「気になるなら、寒河江先生が直接あの女性に尋ねてみたらどうだい。高島先生、紹介してあげたら?」
高島まで笑い出した。
恭介は顔が赤くなるのを感じた。
「ちょっと誤解しないでくださいよ。世間話の枠の中のことですよ。紹介とか結構です」
「ごめん、ごめん」
澤田はすぐにからかって悪いねと、詫びた。
本当に世間話だけのつもりなのか、と言いたげな様子をしていたが、高島は追及しなかった。心を探られているようで、居心地が悪い。
そこで丁度ホイッスルが鳴って、試合が終了した。次は第二中学校の出番だ。応援の為に生徒たちを集めなければならない。
サッカー部顧問はこちらのサイドにまとまって、センターラインから相手側にはみ出さないでと教えられ、恭介と高島は大声で生徒たちを呼び集め、澤田がうまく整列させた。
応援団の生徒が来ているので、その生徒が音頭をとって、応援が始まる。出場している生徒の名前を確認しつつ、順番にコールをしていった。
試合は二中の有利に進んでいった。順当に勝ち上がれそうだ。
応援の甲斐あって、二中は勝ち上がった。
全体の試合結果を見て、明日もここでサッカーの応援か、市の体育館でバレーの応援かのどちらかになる。どちらにしても熱中症に気を付けて引率しなければならない。
試合が終わったので、と美夜子という女性が高島の側にやって来た。
「中学生は体力があって、面白い試合でした。とにかくボールに追いつくんだって、一生懸命走るんですもの」
「砂ぼこりが凄かったでしょう」
「顔を洗うとき、きっとザラザラしますよ」
二人は顔を見合わせてクスクス笑っていた。
「車で来たので、ほかの保護者の方の邪魔にならないようにお先に失礼します」
恭介や澤田たちにも会釈した。思い切ってさり気ないよう恭介は問い掛けてみた。
「高島先生のお友達ですか?」
目をパチクリさせて、戸惑ったように女性は恭介に顔を向けた。
「あらやだ、失礼しました。
高島先生の幼馴染で、齋藤といいます。
不審者じゃありません」
咎めだてしているように聞こえたとしたらショックだ。
「いえ、こちらこそ失礼しました。高島先生にはお世話になっています。寒河江といいます」
「理科の先生?」
「いいえ、国語でして……」
「同じ一年生の副担任なのよ」
横から高島が付け加えた。ふうん、と齋藤と名乗った女性はうなずいて、それじゃお先にと、駐車場に向かっていった。
恭介はその後ろ姿をぼんやりと見ていた。
ちゃんと紹介してあげたらよかったのに、と澤田が言い、高島が美夜子ちゃんが何故ここへ来たのか理由を考えれば解るじゃないですか、と返していた。まあそうだね、との澤田の相槌は、恭介にはほとんど聞こえていなかった。
三
翌日の中総体の応援はバレー部となり、市の体育館に出向いたので、サッカー部が勝って、県大会に進む結果は後ほど聞いたが、あのお雛様のような女性が再び二中のグラウンドに来ていたかどうかは、恭介は知ることが出来なかった。
市の中総体が終わり、期末考査の準備や、県大会に進む生徒たちへの部活と勉強時間の調整やら、職員たちの打ち合わせや実務に入る。それと同時進行で、恭介は採用試験の勉強もしなくてはならない。
そういった中で、恭介は、齋藤と名乗った女性を忘れかねていた。初対面のときに感じた動揺、彼の女を知りたい、言葉を交わしたいと思う気持ち。スタンダールのいう恋の結晶作用のはじまりとは少し違うかも知れないが、多忙な日を過している自分にとって、一つの希望のような気がしていた。
これだけ気に留めている存在になっているのなら、高島にはっきり尋ねてみてもいいのではないのかと、自身思い始めている。
ただ、この前のように喫煙場所で高島と二人きりになる機会がない。いつも誰かが居合わせたり、高島がいなかったりだ。
喫煙場所で会えないのなら、理科準備室に行ってみようか、と職員室の自分の席で考えていると、女子生徒がやってきて、『玉虫色』の意味を教えてくださいと、質問してきた。
「ああ、玉虫ね。先生も見たことがないけれど、緑っぽい甲虫で、金属のような光沢があって、色々な色に光って見えるから『玉虫色』は政治ニュースでは、恰好だけ付けた曖昧な会談結果や、どのようにも解釈可能な法令の意味合いで使われるね。
古典の世界だと、昔は紅花から口紅を作っていて、それを重ね塗りすると玉虫色に光ると言うね。パール入りの口紅って感じかな」
「深雪が玉虫ってゴキブリみたいじゃないかって言うんですよう」
やれやれ。
「坂口さん、社会の歴史でも法隆寺の玉虫の厨子は習ったでしょう。羽が綺麗だから宝飾品のように扱われて、乱獲されたんだよ。ゴキブリとは違うよ」
生徒はニコニコと、有難うございますと頭を下げて、職員室を下がっていった。
十歳ばかりしか年齢が違わない恭介には貫録がないのか、生徒たちはタメ口を聞いたりするし、辞書や参考書を開けばすぐに解るようなことを訊いてくる。それでもやはり大人で教師だからとの線引きはあるらしく、調子に乗って親しくなろうと振る舞う者はない。
それにしても、『玉虫色』なんて言葉が教科書にあっただろうか、それとも何かの問題集の文章に載っていたのだろうか。
玉虫――。虫好きの高島なら玉虫を見たことがあるだろうか。
恭介は小さく息を吐いた。
なんだ、お雛様以外にも話題が作れるじゃないか。
仕事に一段落をつけると、恭介は席を立った。
喫煙所ではなく、理科準備室を覗いてみると、高島がいた。
ノックして、失礼します、と恭介は扉を開けた。
学年主任の小山内先生なら煙草を吸いに行ったわよと、言ってくる高島に、恭介はまずどの話から持ちかけたらいいか迷った。
どうしたの? と、高島は猫のように顔を向けた。特に愛嬌がある訳ではないこの女性が、女らしく見える。俺は猫好きじゃないんだが。
えっと、と迷いながら、やっと恭介は口を開いた。
「この前の、中総体に来ていた高島先生のお友達だか幼馴染の女性のことなんですが……」
高島が一段と目を真ん丸くする。
「ああ、美夜子ちゃんのこと。多分寒河江先生より年上よ」
「はあ……」
「わたしの二学年下。だとすると……」
「僕より二学年上ですね」
年上には見えなかった。
面白いなぁ、と高島が呟いた。
「何がですか?」
「ごめん、ふざけているのではなくて、美夜子ちゃん、齋藤美夜子がフルネームね――、年下の男性に受けるタイプなんだと思ったのよ」
「はい?」
「わたしにサッカーをやっていた弟がいるって言ってたでしょ」
恭介は慌てて中総体のときの会話の端々を思い出そうとした。細かい所が浮かばない、そうだ、そもそも頼まれて差し入れと応援に来たとか言っていたっけ……。
「三つ下の……、わたし早生まれだから学年では四つ下の弟がいるのよ」
俺と同じ学年か。
「その弟さんの彼女なんですか」
高島は腕組みをした。
「うーん、どうなんだろう。詳しい所は姉としても解らない。でも、弟が美夜子ちゃんに好意を持っていて、何かにつけ連絡している様子だから、うまくいかなかったって判明しない限り紹介はできないわ」
恭介の淡い想いは、行動に移しもせずにあっさりと打ち砕かれた。一層暗くなりそうだ。
「役に立てなくて悪いけど」
「いえ、こういうことは早く知っていた方が気が楽です」
あれこれ妄想したり、悩んだり、俺ってまるで道化者じゃないか。高島の前だが、落胆は隠せなかった。
「弟さんって何をしているんですか」
「学生」
「俺、いえ、僕と同じ学年じゃないんですか?」
「医学生だから」
二瞬、間を置いて、納得した。
「将来有望なんですね」
肩を落とす恭介に、高島は少し声を大きくした。
「勘違いしちゃ駄目よ」
「え?」
「美夜子ちゃんに関しちゃわたしは何もしてあげられないけど、寒河江先生が将来どうこうとか、弟と比較して落ち込むとか、関係ないでしょう」
「はい……」
「青年よ、大志を抱けよ」
どうやら励ましてくれているらしい。
「有難うございます」
素直に礼を言っておくべきだろう。
「どういたしまして」
恭介は、このまま玉虫の話をしようかと逡巡した。高島は動こうとしない恭介を不思議そうに見ている。
「ついでで悪いんですが」
我ながらいじけた声だ。
「何でしょう」
高島は真直ぐに恭介の顔を見た。
「高島先生は玉虫って見たことがありますか?」
「玉虫?」
高島は顎に指を当てた。くるりと瞳が上を向く。
「生きているのを実際に見たのは大学時代だわ。学校の標本には無いわね。
急にどうしたの?」
また高島の瞳が恭介に向けられた。
「たまたま生徒から『玉虫色』の意味の質問を受けたんです。説明していて、自分も玉虫を見たことがないなと思いまして。綺麗に光る緑色っぽい甲虫ってくらいの知識しかなくて、もし標本があれば見せてもらえるかなと、伺ったんですよ。
ええと、聖徳太子の法隆寺の玉虫の厨子とか、有名な作家のエッセイにも手で来るものですから」
恭介の揺れ動く声音に対して高島は冷静だった。
「でもここへ来た主目的は美夜子ちゃんの情報でしょう」
胸に突き刺さる言葉をさらりと口にしてくれる。
「玉虫は学校の図書館の原色昆虫大図鑑に載っていますよ。今はインターネットにも色々と写真が出ているらしいし……、そう! 法隆寺の玉虫の厨子を復元しようとの試みがあるとか聞いたことがあるわ」
高島のもっともな説明に段々悲しくなってきた。元気付けてくれたと思えば、情け容赦ない。もう少し柔らかい語りかけは出来ないものなのだろうか。
「いや、実物を見た方が『玉虫色』って解るのかと訊きたかったんです」
恭介の力のない言い方に、高島は再び顎に指を当てて考え込んだ。
「そうねえ、父のコレクションにあったかな」
「高島先生のお父様って理科の先生か、生物の学者さんなんですか」
「いいえ、人間のお医者さん」
弟が医学生なのもその所為か。
「高島先生もよく知らないお父様のコレクションでは見せてもらえそうにありませんね。原色昆虫大図鑑でいいです」
「そんなにがっかりしないでよ。可哀想になってきちゃうわ」
いや、先刻からずっと可哀想だったはず。
「父に玉虫の標本があるかどうか、見せてくれるかどうか、訊いてみるわ」
「いいえ、手数をお掛けするのは悪いです。いいですよ」
「美夜子ちゃんのことでは何も出来ないから、玉虫の方は確認させて」
高島なりに気を遣っているらしい。もういいや、という気分になりかけていたが、断りづらくなってきた。
躊躇う恭介をよそに高島は言った。
「玉虫のことが解ったら連絡するね」
「はい」
高島は優しい女性なのだろうか。不可思議な感覚が胸に残った。
四
翌日、高島が職員室に来て、恭介に言った。
「父に訊いたら玉虫の標本を持っているって言っていたわ。少し色が悪くなっているかも知れないけれど、見てみたいならいらっしゃいって。流石に持ち出すわけにはいかないから」
忘れずに確認してきてくれたのだ。女性の好意を、どんな些細なことでも無碍にすると、後々まで恨まれる。恭介は姉を通して学習している。理系のサバサバした思考の持ち主であろうと、高島は女性だ。
「お宅にお邪魔して構わないんですか?」
「父がお相手することになるけど、それで寒河江先生が構わなければね」
その方が気が楽だろう。いくらなんでも女性の家に入るのは気が咎める。
「お伺いするのは何時頃がいいんですか? やはりお医者様だと忙しい時間帯が多いのでしょうから」
「個人の医院だから、土曜の午後とか、日曜日は休みよ。急な呼び出しが掛かることもないでしょうし」
「自宅兼診療所なんですか」
「いいえ。駅前のビルにフロア借りて開業しているから、診療時間が終われば真直ぐ帰宅よ」
土日は予定がなく、試験の勉強に宛てるつもりだったし、理系の一家がどんな雰囲気なのか、好奇心があった。一人暮らしのアパートで煮詰まっているより、気分転換をしてみよう。恭介は心の重しが少しは軽くなったような気がした。
五
土曜日の午後、恭介は高島と待ちあわせて高島邸を訪れた。
建物は瀟洒な一軒家だったが、庭が凄かった。ばらの茨や芍薬がごったになって生えている。恰好のよくない大木が一本、門の側に立っていた。
「樅の木よ」
樅の木ってこんな木だっけと、ついつい眺めてしまった。
「家の中はなんとかやっているけど、庭はどうしても後回しになってしまうのよ。
手入れの行き届いていない古い家だけど勘弁してね」
高島は恭介を家へ招き入れた。
居間に通されると、眼鏡を掛けたやや痩せ気味の男性がソファから立ち上がった。
「お父さん、この方が話していた寒河江恭介先生よ。
寒河江先生、父です」
洋間だから立ったままで紹介でいいのか、恭介はこれでは失礼ではないかと迷い、急いで正座をし、手を着いた。
「初めまして、寒河江恭介と申します。高島先生にはいつもお世話になっています。今日は、こちらの勝手な希望を受けてくださって有難うございます」
「いやいや、そんなかしこまらなくていいんだよ」
高島の父が膝を着いて苦笑していた。さっと手を着く。
「丁寧な挨拶有難う。
今日は、寒河江君、もういいからソファに掛けて掛けて」
「はい」
恭介は指示されたソファに腰掛けた。向かい側に座る高島の父は、六十歳前後だろうか。白髪交じりの頭髪だが、若く見える。いかにも好奇心一杯で、この年代の人物にしては珍しく、人懐こそうな印象を与える。医者だから対手に話し易いように振る舞うのが習い性なのか、理系にありがちな常に新発見を求める探求心の持ち主か。
「初めまして、高島那美子の父の高島融です。
若い人が自分の標本を見たいと言ってくれるのは嬉しいものなんだよ」
改めて恭介は頭を下げた。
「堅苦しいのはもうなしだよ。
教師をやっていると礼儀作法やら厳しいのかな。ウチの娘なんてぼうっとしているから、心配だな」
「ちゃんとやってますよ。お茶を淹れてくるわ」
高島はそう言って下がった。
「高島先生は女子生徒から人気があるんです」
「そりゃ初耳だ」
「顧問をなさっている科学部は女の子の方が多いんです」
「ああ、そりゃあれだ。色気に欠ける、女っぽさのない那美子を男役に見立てた思春期に入ったばかりの中学生の疑似恋愛じゃないか」
恭介は目をしばたたいた。面白い話を展開する人だ。父親として結婚を心配する年頃の娘を男役に見立てるとは変わっている。
小学校高学年から第二次性徴が現れる昨今、中学生の女子は身体だけでなく、精神的な面でも成長が早い。疑似的な恋情の対象として高島を見るものだろうか。
「僕にはちょっと……、解りかねます」
ユニークだが素直に同意するのも高島に悪い気がした。確かに高島はお姉様、と慕われるタイプではなさそうだが、まるきり女らしくない訳ではない。
入ります、と声が掛かって、高島がお茶とお菓子を持ってきた。
「お菓子は寒河江先生のお土産です」
高島はローテーブルにおしぼりと一緒にお茶と手土産を並べていった。
「駄菓子なので、お口に合うかどうか」
「気取ったものより、素朴な和菓子が旨いものだよ」
高島融は喜んでいるようだ。
一服しながら、高島融は尋ねてきた。
「玉虫の実物を見てみたいなんて珍しいね」
「そうなんですか?」
「滅多に見掛けないし、絶滅していると思っている奴もいるからね」
「生徒からの『玉虫色』の質問がきっかけでしたが、自分の好きな作家のエッセイにも玉虫の話が出ていたのを思い出したんです。確か羽の色を『光線の加減によっては藍色にも見えるし臙脂色にも見える』と記していて、ぜひ見てみたくなりました」
好きな作家の文章というのは本当だ。高島の父の前で説明するかも知れないと、アパートから出てくる前にその本を読み返してきた。
「那美子の話だと国語の先生なんだって?」
「はい」
「文学青年は違うねぇ」
いえ、そんなことないです、と恭介は返した。
「お父さんたら、寒河江先生を困らせちゃ駄目よ」
「いやいや、おまえも昭も本の話はしないから、ついつい口から出ちゃうんだよ」
「そんなことはないでしょう」
恭介の問に高島融は手を振った。
「そりゃあ自分の専門分野、仕事の本は読むよ。だが息抜きで小説を読むとか、文学とか、そういった方向の話がないんだよ」
「はあ、そんなものですか」
「年代が違うんだから、趣味で読む本のジャンルや作家にズレがあるだけよ」
娘は父に言葉の上ではきつい物言いをするが、仲が悪いわけではないようだ。表情は会話を楽しんでいるようだし、嫌いだったらそもそも口を挟まない。
「その好きな作家は大分前に亡くなった人ですが、若い頃は西洋の文献の紹介などしていましたが、後年日本の歴史や民俗学を題材にしています。人間、年齢によって変化するものですよね」
高島融は深く肯いた。
「寒河江君は、日本の歴史や民俗学には興味があるのかい?」
「多少は。本格的に勉強していたなら、国語ではなく、社会の教師になっていました」
「もっともだ。私も休みの日に読むのが楽しみ程度だよ」
『古事記』の口語訳が新しく出たときは、実に楽しかったと続けた。
高島が咳払いをした。娘や息子、看護師たちはこの手の話を聞き飽きているのだろう。それとも恭介の目的の物を早く見せてあげてと、見兼ねて合図したのかも知れない。
「そうだな、そろそろ標本をお見せしよう」
と、高島融は立ち上がった。はい、と恭介も立ち、高島融に続いて居間を出た。高島が小さく手を振っていた。
高島融の書斎は医者らしく、医学の専門書や一般の書店では販売していないような医学雑誌があった。奥に幾つか木箱が重ねられている。
「虫や石の標本なんだ」
玉虫は……、と高島融は恭介の為に整理していてくれたのだろう、一番上の箱を持って恭介に示した。
「ほら、これが玉虫、学生の時に捕まえて標本にしたんだ。素人が拵えたものだから、色が少し変わっているかも知れないが、光沢があるのが解るだろう」
標本を少し動かして、光方の加減を見せ、そっと恭介に標本箱を手渡した。
恐る恐る受け取って、恭介はじっと玉虫を見た。
「綺麗ですね」
「少し傾けても大丈夫だから、心ゆくまでご覧なさい」
「はい……」
緑と金の光沢が鈍く輝いている。そっと傾けたり、立つ位置を変えたりしてみると、輝きが変わってくる。青が濃くなったり、金色が優って臙脂っぽく見えたり。作家の観察眼は確かで、匣の中の虫――、姫君という連想が浮かび、心音が高くなっていくのを感じた。
高島融は青年の感激を黙って見守っていた。
声明を持たぬのに輝く不思議なオブジェ。貴石とは違った趣の光。
恭介は凝っと玉虫を見詰め続けた。
「玉匣という言葉を思い出します」
「美しい言葉だね」
「優美な女神や姫君が化粧道具を収める箱や衣装箱に玉虫を入れた姿が想像できるようで、素敵です」
「うーん、やっぱり文学青年だね」
妙な関心をされているようだ。
「どうやって標本をおつくりになったんですか? 腸を抜いたり、防腐剤を入れたりしたんですか?」
「まあ、一応そういう道具は一式持っていたからねぇ」
「小学校のときの夏休みの宿題では、日干しにしておけばいいと親に言われてやってみましたが、すぐにボロボロになってしまいました」
高島融は破顔した。
「宿題を提出すれば終わりで、すぐ捨ててしまうと思ったんだろうし、手っ取り早い方法だからね。
乾燥剤を取り替えたり、虫やカビが付かないように密閉出来る入れ物でないといけないから、小学生がお菓子箱にボール紙を敷いてってのは長持ちしないよ」
「難しいんですね」
「日本は湿気があるからね」
そういえば恭介の好きな作家も、ヨーロッパで買った古本が日本でカビたと書いていたなと、思い当った。
名残惜しい気もしたが、心ゆくまで堪能した。恭介は標本箱を高島融に返した。
「有難うございます」
標本箱を元の場所に置いて、二人で居間に戻った。一人でのんびりとお茶を飲んでいた高島が、あらもういいの、と顔を上げた。
「お茶を淹れ直すわ。掛けていて」
お暇します、と言いそびれた。
「もう一服していきなさい」
高島融にまで言われて、恭介はソファに掛けた。
再びお茶が淹れられると、高島融は娘に言った。
「寒河江君はいいよ。玉虫を見て、玉匣って言葉が浮かぶんだ。なかなかの浪漫派だよ」
高島は首を傾げた。
「化粧箱だか宝箱のこと?」
「そうそう。確か玉虫を入れておくと、化粧品が長持ちするとか、着物が増えるとか迷信があるだろう」
「蛇の抜け殻だって、服やお金が増えるっていうじゃない」
蛇の抜け殻と玉虫じゃ、気分が違う。財布ならともかく、肌身にまとう服を仕舞う所に蛇の抜け殻を入れたい女性がいるのだろうか。いくら高島だって気味が悪いのではなかろうか。
「それだから那美子は女っぽくないと言われるんだよ。まあ、那美子の場合は理が勝っているのが長所だから」
娘を褒めるにしても、そんな点に目をつけるのかな。恭介は引っ掛かった。成績優秀が自慢の娘も二十代半ばに達すると、親は仕事や勉強に熱心なのを喜ばなくなると、何処かで聞いた話であるが、高島家では当てはまらないのだろうか。それとも高島には既に決まった相手がいるから、父は落ち着いているのか。ふと思い付いた事柄に、恭介は変な気分になった。部外者の自分が他人様の家の事情を忖度してどうする。俺の知ったことじゃないだろう。
「長所ねぇ」
呟く高島に父はからかうように続けた。
「大学同期の滝本君は理学部でも実にお洒落で気が利く青年じゃないか」
「どうせわたしはお父さんに似て野暮天で、滝本はお洒落さんよ。でも、滝本はファッションセンスが独特なだけ」
「デオニズム?」
「滝本はスカートをはかない」
滝本って誰だ? 高島の同期と言っているが、いい人なのかな。恭介は未知の内容の会話で軽く混乱した。
「寒河江先生が何事かと驚いているわ」
高島が苦笑した。
「院に進んだ同期よ。個性あふれる友達の一人なのよ」
高島も個性あふれる仲間の一人だ、と恭介は思った。
「学生のときなんて身なりに構わないものだけど、滝本だけは鏡の前で帽子やスカーフを何回も直すあたり、女性陣は見習わなくちゃと思ったわ」
「男性で?」
「そうよ」
「そりゃ凄い、僕なんて帽子を被るとき鏡なんて見ませんよ」
「そんなオシャレさんでも一緒にトンボやサンショウウオの採集や観察をしていたの」
「科学部の部活と変わりありませんね」
ほんとうだ、と高島は嬉しそうに言った。好きなことには子どもみたいに夢中になる研究ナントカなんだろうな。一瞬女らしいと感じたのは、勘違いだ。恭介は高島の笑顔にどきりとしたが、そう考えた。
「玉虫を見て綺麗、蛇を見て気味が悪いと感じるのは人間の勝手だが、その勝手な想像力が様々な意味付け、物語を作っていくのは面白いと思う性質なんだよ」
高島融は話を元に戻した。
「興味深いものですね」
恭介は同意した。
「虫偏の漢字の生き物は、昔は総じて虫の類に入れられていたみたいに」
「それも不思議ね」
高島と目が合って、恭介は戸惑った。
「や、虫の話をしたいんじゃないんですけど……、何だかそっちにいっちゃいますね」
「わたしは黙っているから、父とどうぞ」
「済みません」
親の前だからか、口を閉じて澄ましている姿がお茶目な感じだ。童顔の効用だろう。
「神話や伝説にも、様々な地域で共通しているような事柄や、その土地独特のものとかありますよね」
恭介が言うと、高島融はうんうんと肯いた。
「よく言われるのが日本の神話とギリシヤ神話だろう。死んだ妻を夫が死者の国まで探しに行く」
「見ないでくれと言われたのに見てしまう話ですね」
「ああ、どちらも現世に連れて帰れなかった」
「ギリシヤ神話のエウリケデは冥界に戻っていくだけなのに、イザナミノミコトは主張が強い。というか、怖い」
高島融はかぶりを振った。
「いや、なかなか素晴らしい世界観を示していると思うよ。死者は戻らない。常に死す者と、誕生する生命がある。
それをはっきりと述べる件は実に面白いものだ」
もしかしたら高島の名前はイザナミノミコトから採ったのかと、恭介の頭をよぎった。だが問は呑みこんだ。高島がイザナミならイザナギは? 尋ねるのはためらわれるプライベートな内容だ。
恭介は別の神話の話を出した。
「メソポタミアのイシュタルは夫を探しに冥界に下るんでしたっけ」
「そうそう。あと北欧神話は、死んではいないが、消えた夫を女神が探すとなっているね」
「夫と会えたり会えなかったり、こちらは伝承が様々あるようですけど」
「イシュタルは会えたが、連れて帰れなかったのじゃないか」
「えーと、細かい所の記憶が曖昧で……。フレイアの涙が黄金に変わったのには何か意味付けがあるのでしたか?」
「そこは詳しくなあ」
恭介と父親が語り合うのを見ながら、高島は冷めたお茶を淹れ直した。
高島融は久々にいい聞き手を摑まえたとばかりに熱弁を振るっている。
恭介にとっとも興味深く話に引き込まれ、時間が経つのを忘れた。
玄関の方から、ただいま、と若い男の声が響いた。
「弟の昭よ」
高島は言って、居間を出た。気が付けばもう薄暗くなっている。恭介は初めて訪問した家に長居し過ぎたと、急に居心地が悪くなってきた。
今度こそ帰ると言い出そうとしていると、高島が中背で父親似で痩せ気味の若い男を連れて居間に入ってきた。
「弟よ」
「今日は。高島那美子の弟で昭といいます」
「国語の寒河江恭介先生よ」
対手が立っているので、恭介も立ち上がって、挨拶した。
「初めまして、今日は。寒河江恭介です。いつも高島先生にはお世話になっています」
「跳ねっ返りの姉の方がお世話を掛けているのではないですか?」
「いいえ、いつも指導してもらっています」
「そうよ、わたしはちゃんと仕事をしてますよ。ねぇ」
「ええ、そうです」
恭介は笑顔を作った。この男性が齋藤美夜子と交際しているのか。探りたい気もしたが、この場では無理だろう。
「先生のお父様のご厚意に甘えて、とんだ長居をしてしまいました。そろそろお暇します」
「父との話が弾んでいるようだと姉が言っていますよ。もう少し続きをどうぞ」
高島昭はにっこりとした。感じのいい奴だ。社交辞令の匂いをさせない。
「もう夕方ですから」
恭介は両手で断りの仕草をした。
「寒河江君の都合さえよければ、夕食を食べていったらいい」
高島融は、いい提案をした、と得意気だ。
「そんな……、いくらなんでも厚かましい真似は出来ませんよ」
恭介は高島を見た。夕食の準備を誰がするかは知らないか、人数が増えて嫌がるのは大抵女性だ。高島なら引き留めないだろう。
「寒河江先生は一人暮らしなんだから、食べてから帰れば」
「え⁉」
簡単に応じてくれた。
「丁度いいじゃないか。那美子もそう言っているから大丈夫だ。寒河江君、安心して掛けたまえ」
「そういうことだから。昭、お茶を飲みたかったら自分で淹れてね」
「解ったよ、那美姉さん」
あれ?
物わかりのいい弟だ。誰も嫌な顔をしていない。
「寒河江先生、いつも給食を食べているから、特に大嫌いとかアレルギーとかなかったわよね」
いつの間にか決定されてしまって、今更反対の仕様がない。
「待ってくださいよ」
「姉がいいって言っているんすし、僕がお客様を追い出すみたいじゃないですか。父も喜んでいるようですから、どうぞご遠慮なく」
愛想がいいと言うより、昭には他人を警戒させない親しみやすさがあるようだ。恭介の緊張がほぐれてきた。高島家の面々なら、夕食の後、恭介が辞してから図々しいだの礼儀を知らないだの陰口を叩いたりしないだろうと、信じさせるような気安さが感じられた。
「甘えっぱなしで気後れしますが……」
もう前置きでしかなかった。
「もうしばらくお邪魔します」
「そうでなくちゃあ」
高島融は大喜びしている。さ、掛けて仕切り直しと、恭介を座らせた。
勝手にやっててね、後で呼ぶから、と高島は居間を出ていった。夕食の準備は娘担当か。
自分でお茶を淹れはじめた高島昭に、恭介は視線を向けた。父親が話をはじめるより先に訊いてみよう。
「先日中総体のサッカーの応援で、齋藤さんという方でしたか、差し入れを頼まれたとジュースを持ってきた女性がいましたけど……、昭さん、――昭さんでいいですか?――、サッカーをしていたんですか?」
茶碗を持ちつつ、昭は答えた。
「ああ、さんは要らないですよ、昭で構いません。
ええ、中学・高校とサッカー部でした。今はしていませんがね。姉ははじめ野球の応援と言っていましたし、先生がひいきしているように見られたらよくないですから、幼馴染に頼んだんです」
初対面で呼びつけは出来ない。
「齋藤さんって、秀樹君ところの美夜子ちゃんだろう?」
高島融が口を挟んだ。
「そうですよ」
「なんだ、昭、いまだに幼馴染のままか」
「お父さん」
昭が苛立だしげに父を睨んだが、赤くなっている。
「美夜子さんは立派な社会人だけど、こっちは年下で、スネカジリの学生なんだから冷やかさないでくれよ」
寒河江先生が呆れているでしょ、と無理矢理話を締めくくろうとした。
「立ち入ったことをお尋ねして、こちらこそ済みません。
綺麗な女性でしたから、印象に残ったんですよ。昭さんに頼まれてって話でしたから、親しい方なのだとお訊きしたくなって、ごめんなさい」
恭介の言葉に昭は赤い顔のまま、慌てている。岡惚れは岡惚れので終わるものだ。残念であったが、恭介には、高島家の面々の方が興味深くなってきた。
「那美姉さん、美夜子さんのことで何か言ってました?」
同じ学年だったっけ、と思いだしながら、恭介は答えた。
「幼馴染だと言っていました。僕より二つ上じゃないか、とか」
恭介の答えに、昭は話題を変えられると思い付いたようで、嬉しそうに続けて問うた。
「もしかして寒河江先生は昭和六十一年生まれですか?」
「そうです。僕も恭介でいいですよ」
「那美姉さんの同僚に失礼かと」
「何言っているですか。こっちは正式採用目指して勉強中のペーペーですよ」
何だかわるいなぁと言いつつ、高島昭は楽しそうだ。
「僕も昭和六十一年生まれなんです」
「ええ、高島先生から医学部に在籍と伺っています」
那美姉も意外とお喋りだなぁ、と昭は苦笑した。
「僕も姉がいるから何となく感じるんですけど、姉って母親と違って結構弟には容赦ない所がありますよ」
うーんと、昭は戸惑った様子だ。
「那美姉は一緒に泥遊びをする方だったから」
姉弟仲は悪くないようだ。
「はあ、ウチの姉は気取り屋というか、汚すんじゃないとか、おとなしくしろとか、母以上にうるさく注文を付けるものだったけど、違うんですかね?」
「普通の女の子はそうじゃないですか」
「そこが親ときょうだいの違う所だ」
と高島融が引き取った。
「それになんだ。寒河江君と昭ばかり盛り上がって」
「済みません」
「そうか、二人は同じ年齢か」
年齢が近い方が話も弾むものだ、とすこし拗ねたようだった。
「年寄り臭くなるから、止めた方がいいよ」
昭があっさりと言った。
「それより、二人で何の話をしていたのさ?」
息子の言葉にすぐに機嫌を直して、高島融は滔々とこれまでの話を語った。
「凄いね、恭介さん。ずっとこれ聞いていたんだ」
「いえ……」
「寒河江君は国語の先生だけあって、なかなかの浪漫派だよ」
「成程ねぇ。那美姉も少しは芸術分野に耳を傾ける気になったんだ」
「真逆。きっかけは虫の標本なんだから、那美子の興味の範囲は変わっていないね」
「お父様も弟さんもお医者さんで、高島先生も理科の先生と、理系のご一家かと思うんですが、そうでもないんですか?」
融と昭は顔を見合わせた。
「那美姉は文学は退廃的だと言っていた時期があるから。父は芸術というより博物学の興味で、神話や伝説が好きだし、俺は雑学程度に歴史エピソードが好きってくらいかな。理科一筋は那美姉だけですよ。ああ、落語は聞きますね」
退廃的、は否定しないが、文学に疎い女性がそこまで断言するのは極端な気がした。
「もしかして、『古事記』の国生みのエピソードを読んで、ショックを受けたとか?」
恭介の思い付きは笑顔で否定された。
「理系はそういう話好きだから大丈夫。身体の構造がどうとか、生殖はこうなっているとか、興味津々」
全然ロマンがない。
「でもイザナミノミコト……」
自分の名前と似ているから、と恭介は言いそうになり、言葉を呑みこんだ。どう続けたらいいのか、迷ってしまった。二人は恭介の次の言葉を待っているようだ。困ったな。
「子沢山で、いくら神様でも大変だったでしょうね」
そうだ、と二人は笑った。
三人で話しているうちに、高島から声が掛かった。夕食の準備が出来たらしい。
「昭、盛り付けと並べるのを手伝って」
「はいはい」
昭は呼ばれて席を立った。
扉が閉まってから、高島融が口を開いた。
「娘は理詰めで物を考える性質だから、情とか雰囲気に流されるといった話が好きでないらしい」
「それでも仕事に差し支えていないですし、高島先生は生徒たちから慕われていますよ」
「女の子たちから?」
「はい」
「やっぱり疑似恋愛の一種だな。寒河江先生は理屈ばかりの娘で可愛げないと思うだろうね」
どう返答したらいいものだろう。可愛げがどうといった視点で高島を見たことがない。父親の機嫌を損じない返事はどんなものだろう。
「教師として公平な姿というか、その、そういった点を見習いたいと思っています……」
高島融は納得したものかどうか、微苦笑を浮かべた。
女性らしさよりも、職務に対する姿勢を評価していると、娘の連れてきた男から聞かされて、父は喜んでいるのかも知れない。恭介は娘の後輩の教師であって、今日の訪問も玉虫の標本を見る為である。職場での様子を聞かされる方がいいだろう、と、恭介は自身に言い聞かせた。
「食卓が整ったから、こちらに来て!」
高島の呼び声に返事をして、恭介は融の後についてダイニングキッチンに入った。
テーブルには四人分の膳が揃えられていた。この家で女手は高島那美子一人だけなのだ、と感じた。わざわざ問うて確認するのは失礼だろう。恭介は何も言わず、示された席に着いた。
豚肉と玉ねぎの生姜焼き、お浸し、味噌汁、小鉢にシラスおろし、漬物が並び、ああ家庭料理だ、と恭介は妙に嬉しくなった。
「高島先生、美味しそうですねぇ」
「美味しいですよ」
高島は澄まし顔だ。いただきます、と唱和して、皆箸を取った。
実際高島の料理は旨かった。素直に恭介は感想を伝え、褒められた側も、いつも家族は何も言ってくれないからと喜んだ。
久方振りの暖かな食事を味わって、恭介はすっかり満足し、何回も礼を述べて、高島家を辞した。
六
アパートに帰り、一人冷蔵庫から缶ビールを出して飲みながら、恭介は今日一日の出来事を思い返した。
玉虫の標本は美事だったし、高島融との語らいも楽しかった。
齋藤美夜子の面影はどこかへ消えてしまった。それで全く心が痛んでいないのだから、自分にとっては高島家の男性陣との出会いの方が大切だったのだ。昭という青年は医学生といっても少しも高慢そうな素振りがない。父と似て人懐こそうな印象で、友人に慣れそうな気がした。
まともな夕食にもありつけて、いい一日だった。
あれ?
高揚感が冷めてくると、それまで気にしていなかったことが急に疑問として浮かんできた。
高島家で女手は高島那美子一人、と決め付けていた。何故だ。炊事を一人でこなしていたからか。あまりにその姿が自然で、高島融の妻がたまたま今日不在だったと感じさせなかった。夕食の献立にしても、きっちりと四人前で、ほかの家族の作り置きがなかったようだし、お母さんがいれば、という会話がなかった。
生別か死別かはともかくとして、現在高島融に妻はいない。
――—死んだ妻を夫が死者の国まで探しに行く。
言い出したのは融だったが、イザナギやオルフェウスの心情をどう感じているのか、語らなかった。
それと、昭の言葉遣いにも気になる所があった。それくらいは高島に尋ねてみてもいいだろう、と恭介は軽く考えた。
七
翌週、恭介は理科準備室に高島を訪ねた。ほかの理科の教師が職員室に来ているのを確認してから出てきたので、高島一人でいるはずだ。
失礼します、と恭介は理科準備室に入った。
「寒河江先生、いらっしゃい」
高島はにこやかに恭介を迎えた。
「先日は夕ご飯までご馳走になり、本当に有難うございます」
「いいのよ、気にしないで」
恭介は一呼吸置いて、あの日の疑問を尋ねた。
「ところで、失礼でなければ高島先生にお訊きしたいことがあるのですが」
「何かしら」
「本当に失礼かと思うんですけど、美夜子さんだけでなく、昭さんも高島先生のことを『那美姉さん』と呼んでいました。高島先生にはほかにも姉妹がおいでなんですか?」
高島から表情が消えた。
「どうしてそう思ったの?」
「僕には姉が一人います。僕は単に『お姉さん』と呼ぶだけで、名前と一緒には呼ばない。美夜子さんは幼馴染だから、自身のきょうだいやほかの年長の友達との区別の為に『那美姉さん』と呼ぶのはあるかも知れないでしょう。
でも昭さんが一人しかいない姉を呼ぶなら、『お姉さん』と呼べばいいはず。名前を付けて呼ぶのは、誰か同じ立場の人と区別する為だろうかって。
僕の質問が不愉快でしたら、答えていただかなくて結構です」
しばらくの間、沈黙があった。高島は感に堪えたようだった。
「国語の先生は言葉遣いに敏感ね」
「……」
「わたしの名前を日本神話から採ったのは、父から聞かされたかしら」
「いいえ」
あえて高島融に質問しなかった事柄だ。
「国生み神話のイザナミノミコトから採ったのよ」
「はい」
「イザナミノミコトには対になるきょうだい神がいた」
「はい」
「わたしは双子だったのよ。姉は諾子と名付けられた」
高島は煙草を吸いたそうにして、校舎内であることを思い出したように手を下ろした。
「一卵性双生児が同じような運命を辿るなんて大嘘よ。姉は二十歳前になくなったの。
呼び方自体は癖になっているから、女きょうだいが一人になっても、昭は名前を付けて呼んでしまうのよ」
「失礼しました。悪いことを訊いてしまいました」
「厳然たる事実なんだから、いいも悪いもないわ。気にすることないの。校内の先生方も知っている人は知っているのだから」
川口先生が、高島家はきょうだい揃って優秀だと口にしたとき、昭ではなく、双子の姉の方を思い出していたのだ、と恭介は得心した。
高島那美子の気持ちは顔色からは解らない。しかし、複雑そうな心情なのは確かだと思う。自分から話題を振っていながら、恭介は何も言えない状態が続いた。高島を気の毒と感じているのだが、単なる同僚にどの程度の同情や慰めの言葉を掛けていいのか判断が付かない。
「なんて言うのかな、諾子はわたしと違って健康で元気のいい子だった。でもおしとやかで、書道部にいて、大学では文学部だったわ。わたしは子どもの頃よく熱を出すような子だったのよ。生物の研究をするようになって、色んな環境の所に行って採集や観察をしたり、日々記録を付けたりの生活だから、余計健康管理が大切だって考えているのよ。
夜更かしして、次の日に昼間眠っているなんてバカのすることじゃないかと思っているし、文学がどう、その何に描かれている恋愛がどうっていうのは、わたしの理解の埒外。人生の真実を見出すのは人それぞれの視点じゃないの。
でも周りは諾子の方の受けがよくて、結局わたしはもやしだの、元気になる為に野外に出てたら女らしくなくなっただの言われたわ。
亡くなった母には諾子が自慢だったわ。
わたしが生物に興味があると知ると、母は勝手にわたしが看護師か養護教諭になるものだと決め付けて、理学部希望と聞くとひどく失望した。
ずっと女らしくないと言われ続けてきた。
大学に入って諾子の生活が不規則になってやっと親子喧嘩。親許で暮らしているのに、夜遅くに、お酒を飲んで帰って来るなんて、本当に諾子はおバカさんよ。
本を読んであれこれ評論したり、レポートを書いたりしているのが可愛らしくて、マウスの記録を取るのが気味悪いなんて、誰が決めたか、教えてもらいたいものだったわ」
恭介は高島の方に手を置きたかったが、こらえた。
「もう何も言わなくていいです」
高島の長所はちゃんと父の融が見ているし、自分だって気付いている。亡き姉との比較を恐れ、女らしくないと評価され、意固地になっている彼の女の不器用さと傷付きやすさを垣間見た。
胸の中のものを吐き出したい、高島はそう思っているのかも知れない。だが、次第に痛々しくなり、止めずにはいられなかった。
「高島先生、僕も文学部でしたが、デカダンじゃないですよ。規則正しい生活をして健康でいたいと思いますし、高島先生のお茶だって料理だって、とても美味しかったです。素敵ですよ」
予想していなかったであろう恭介の言葉に、高島は瞠目した。
「有難う」
唇から飛び出した言葉に驚いたのは恭介も同様だった。
「あ、あの他意がある訳じゃないんです」
「他意?」
わざとらしく高島は言ってみたが、笑って手を振った。
「解っているから。寒河江先生は家事の手際を言っているのだものね。
それに寒河江先生は、美夜子ちゃんみたいな女の子が好みなんでしょ」
わたしは対極だから、と高島は続けた。心外な、と言いたかったが、墓穴を掘りそうなので、恭介は黙っていた。
「とにかく有難う」
高島は微笑を見せた。
「お騒がせしてしまって済みません」
「いいえ。
それに父や昭が楽しかったと言っていたわ。よかったら、また遊びに来て欲しいって」
「いいですね。ぜひお伺いします」
融も昭もいい人物だ。偽らざる気持ちでまた会いたい。
「外で一服しませんか」
「いいわね。でも一緒に行くのはおかしいから、先に出ていてね」
「はい」
高島はすぐに喫煙に来ないだろう。互いに顔を向け合っているのが何となく気恥ずかしい。恭介は落ち着きたかった。一礼して理科準備室を出た。
門の外に出ると、川口がいた。近くの田畑から飛来する虫を追い払いながら、煙草を吸っていた。
「やあ、寒河江先生」
「お疲れさまです」
川口がのんびりとした口調で話し掛けてきた。
「さっき澤田先生が、中総体の応援に美人が来ていたと言っていたよ。高島先生の幼馴染だそうだから、僕の教え子の一人じゃないかと言うんだが、澤田先生は肝心の名前を覚えてなくて、さっぱり解らない」
「ああ、高島先生の弟さんの彼女だそうです。齋藤美夜子さんっていってました」
川口は記憶を辿るような遠い目をした。
「ああ、齋藤美夜子。何となく覚えがある。剣道部で色々な大会に出場していたよ」
「昔の教え子をしっかり覚えているんですね。長年勤めていても、忘れないものですか?」
恭介は感嘆した。
「印象深い生徒とか、そういった時期があるし、綺麗さっぱり消えてなくなるものではないからね。名前を出されれば、ああ、あの生徒か、と頭に浮かんでくるよ」
恭介は好奇心から質問してみた。
「高島先生や、そのごきょうだいとか?」
だが、川口は恭介の興味を満たす答えは述べなかった。
「弟君は運動部だったような記憶があるが、成績が良くて、確か一高に入ったはずだ」
恭介は諦めた。重ねて尋ねて変に思われるのは嫌だった。川口が亡くなった高島の姉の話をしないのも当然の礼儀だろう。自分の軽はずみな問を反省した。
結局高島は姿を現さなかった。煙草と世間話が終わり、川口は職員室に戻った。
恭介は一人残り、周りの景色を改めて眺めつつ、もう一本の煙草に火を点けた。
高島那美子。
シャム猫のようで、虫や小動物の観察に夢中な少年のようで、仕事熱心な教師で、炊事の腕がよく、見掛けでは解りにくい繊細さを持ち合わせている。
玉虫の羽のように様々な顔を見せてくれる。
不思議なものだ。今まで何の意識も持たなかった女性にも魅力があると気付くと、人間観察は面白いと思えてくる。
これからどうなるかは皆目解らない。
恭介が高島家の面々と交際していくのが楽しみなことだけは確かだ。
高島の話だと、姉だけでなく、母も亡くなっている。やはり高島融は寡夫なのだ。
己だけが辛く、苦労しているように思い込み、閉じこもっていた。
俺は今まで何を見、感じ取ってきたのだろう。
本の中から人生を読み解くばかりでなく、自然の事象から何ものかを感じ取っていく。当たり前だが、長らく忘れていた活きた感覚。幼児の頃、裸足で外を歩いたときのような興奮が呼び覚まされるような気がした。
今の環境を悪くとらえ過ぎていた。やっと前を向いて、進もうとする気が起きてきた。
翳ってきた光の中を飛ぶ虫は、蝶か、蜻蛉か。心の中の帆が一杯に風を孕んで出航。そんな心地がする。
これから中学校では期末考査、夏休み、そして自分の採用試験と忙しくなる。だが、文字どおり心を亡くさぬよう、感性を瑞々しく保てるよう、多くのものに視線を向けて過していこう。恭介はそう考えた。
了