銀の月かぼちゃプリンほろにが
「――以上の規定により、料理研究部を廃部とします」
生徒会室に響いたその声に、僕は会計簿から顔をあげて振り返った。
十月も中旬。
開け放した窓から流れこむ秋風が、乾いた草木の匂いを運んでくる。
わずかな沈黙をはさみ、副会長が書類をテーブルのうえに乗せた。
「では月乃さん。ここの部長欄に、サインを」
月乃と呼ばれたのは、副会長の正面に座っている少女。
黒い髪を伸ばし、前髪は切りそろえてある。化粧っ気はまったくないが、表情はそれなりに整っていた。ただし、そこに表情という表情は浮かんでいない。
月乃凛花。彼女は料理研究部のただひとりの部員で、部長だった。
「……月乃さん、サインを」
もういちど副会長が言うと、月乃はようやくペンを取り、書類に淡々とサインをした。
自分の部活がなくなるというのに、やっぱり表情は動かない。副会長はすこしだけ怪訝な視線を月乃に送る。
同じクラスの僕には、おおかた予想はついていた。
月乃凛花という少女はいつだって最低限のことしか受け答えせず、笑うことも怒ることもなかった。
少なくとも、教室では。
「では、部室の荷物は今週中に撤去しててください。残したものはこちらで処分しますので」
「……はい」
サインを終えた月乃はそのまま生徒会室から出ていった。
部員不足による廃部。
先輩がいなくなったことで、月乃以外は退部して、ひとりになったらしい。
まあ会計の僕としては、すこしほっとしたところだ。今期の予算がわずかに浮いてくれたから。
「……それにしても月乃さん、近くで見ると綺麗な子だったわね」
「そうだな」
副会長は書類に押印すると、月乃が出て行った扉を眺め、じゅるりと舌舐めずり。
「あたしという料理を研究してくれないかしら。ふふふ」
「……どうぞご勝手に」
これさえなければ、美人で有能な副会長なんだけど。
僕は呆れる。
さあ続きをしよう――と会計簿に目を落とそうとして、ふと気付いた。
「……あれ」
テーブルの下に、なにかが落ちていた。
月の形のキーホルダー。今日はこの部屋には僕と副会長しかいない。そのどちらのものでもないということは、落としたのは月乃だろう。
「ちょっと届けてくるから」
「それ月乃さんの? そのまえにちょっと匂い嗅がせてよ。美少女の匂いわくわく」
「黙れ変態」
「ぶーぶー。桐夜くんのいけず。あ、かわりに桐夜くんの匂いでも可」
「アホか。じゃあ行ってくるから」
ぴしゃりと副会長に言ってから、僕は料理研究部の部室……元部室へと向かった。
家庭科室の横にある小さな教室が、料理研究部の部室だ。
そういえば僕が生徒会に入ってから数カ月は経つけど、どこかの部室に入ったことはない。なかはどうなっているのか、少し緊張した。
いまごろ、このなかで月乃が黙々とかたづけをしてるんだろうな――と想像しながらドアに手をかけた。
「――なんでいまなのよ!」
聞いたことのない甲高い声。高いというか、幼い声だった。
「なんでなの! 生徒会のバカ! 学校のバカ! みんなみんなバカバカバカバカっ! 人数不足? 部費がもったいない? そんなの知るかバカぁっ! ここはぼくの部活だぼくだけの部活なんだなんで追い出されなくちゃいけないんだよぉっ! 死ねよバカぁあああああっ!」
ガチャンッ!
食器が割れるような音。
そのほかにも、フライパンが地面に落ちる音。ヤカンが跳ねまわる音、まな板が暴れまわる音。
どうやら僕が入り口に立っていることを、気付いていないようだ。
「みんなのバカぁあああっ! うわあああああああん!」
大声をあげて泣き出した月乃凛花に、僕はひきつった笑みを浮かべて、ひとこと。
「…………月乃?」
ぴたり。
と月乃の動きが止まった。いつも教室で見せている無表情に即座に戻る。
なんて変わり身だ。
「「…………。」」
静寂。見つめ合う。
「……えっと……これ、落し物だけど」
僕はすばやくキーホルダーを近くの机の上に置いて、部屋から退出した。
忘れよう。
いま見たことは、全部忘れよう。他人のヒステリーなんて憶えていて得はない。
「……忘れてさっさと塾にいこう……」
げんなりとそんなことをつぶやいて、僕は生徒会室に戻るのだった。
☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽
村雨桐夜が、僕の名前だ。
桐夜という名をつけてくれたのは祖母だ。桐は軽く、割れにくく、湿気も少ない。木材としてむかしから重宝されていて、僕もそんなふうに芯が強く誰かの役に立つ人間になるよう、そう命名された。夜という字を組み合わせたのは、目立たなくても、という意味らしい。縁の下の力持ちになれるように――そんな名をつけてくれた祖母を、僕はとても慕っている。
あいにく祖母は遠い地で生活しているため、滅多に会うことはできない。そのおかげか、僕はいっそうおばあちゃんっ子に育ってきたらしい。記憶にはないが、幼いころはべったりだったんだとか。
だから、僕の家の近所に住んでいた和菓子屋のお婆さんのことも、僕はすごく好きだった。
『銀の月』という小さな和菓子屋で、すぐ近くにあったからいつも通っていた。ときどき余ったお菓子をくれるのと、折り紙やいろんな知識を教えてくれるのが楽しくて、いつもいつも遊びに行っていた。
高校に入ってからも、ときどき顔を出していた。親に送る誕生日プレゼントは、決まって『銀の月』のお菓子だった。お婆さんは優しいだけでなく、料理人としても一級品の腕前だったのだ。
「桐夜くん、優しい子に育ったね」
それが『銀の月』のお婆さんとの最後の会話になったのは、一年ほど前だった。
お婆さんは交通事故で亡くなった。
ひとりで経営していた『銀の月』は建物の老朽化もあり、取り壊されることになったらしい。まだ解体工事は着工していないけど、そろそろだという噂があった。
だから塾の帰りの深夜、商店街の端にひっそりとたたずんでいる『銀の月』の店のなかから、かすかな灯りが漏れていることに気付いたとき、首をひねった。
「……泥棒?」
いや、そんなことはないはずだ。
金目のものはとっくにないだろう。電気もガスも通ってない。ただ壊されるのを待つだけの店に、いったいだれがいるのだろう。
だけどロウソクの灯りのようなぼんやりした光が、店の奥で揺らいでいる。
僕は店の裏手に回った。表はガラス張りの自動ドアだが、鍵がかかっている。
裏は勝手口。入るとすれば、ここからだ。
扉はすんなりと開いた。
定期的に誰かが掃除してたのだろうか。勝手口のそばの机にはホコリが積もってなかった。
そっと、忍び足でキッチンへ回る。
トン、トン、トン
と包丁の音が聞こえた。
キッチンの入り口にかかっている暖簾をすこしだけあげてなかを覗く。
そこにいたのは、
「……なにしてんだ、おまえ」
ビクッ、と体を震わせて振り返ったのは、月乃凛花だった。
料理研究部が廃部になって、部室でわめいていたばかりの月乃。
「おまえ……料理研究部の……」
すこし動揺したようだったが、すぐに切りそろえた前髪の下から睨んでくる。
「ぼくの……仇敵!」
「いやまてまてまて。落ち着け月乃。僕たちが狙って料理研究部を潰したんじゃなくて、校則に明記されてるから廃部になっただけであってだな、生徒会としては料理研究部にはなんの恨みもないし、決しておまえの敵になりたかったわけじゃなくて、つまりだから、冷静になってその手の包丁をゆっくりと下ろすんだ!!」
「じゃあ……せめて昼間の記憶を消す!」
「やっぱ見るんじゃなかったああああ!」
包丁を振り回す月乃。
こいつ、やばい。
暴れまわる月乃から逃げて逃げて逃げて、なんとかなだめることができたのは十数分後。
それでも僕を睨みつける月乃凛花は「フーッ!」と猫のように威嚇をしてくるが、僕は乱れた息をなんとか落ち着かせる。
「普段は猫をかぶってたな……おまえ」
「べつに。目立ちたくないだけ」
と意外にも素直に言葉を返される。
包丁はまだ握りしめていたけれど、それでも敵意はそれなりにおさまったようだ。
「……で、月乃。なんでここにいる? これ、不法侵入だぞ」
「なんでって、ぼくの居場所をおまえら生徒会が奪い取ったからだ!」
「だからそれは違うって」
「それに、この『銀の月』はぼくの祖母の店だ! ぼくが勝手に入っても不法侵入にはならない!」
といってスカートのポケットから鍵を出す月乃。
ああ、どおりで裏口が開いていたわけだ――って。
「祖母?」
「うん。月乃銀子が祖母の名前」
そうだったのか。だから『銀の月』ってわけか、それは知らなかった。
ただそれにしても、なんだってこんな夜中にわざわざここまできて料理してるのだろう。電気もガスも止まってるはずだから、ちゃんとしたものが作れるはずもないのに。
「なあ、おまえ――」
「敵の気配っ! 伏せて!」
「っちょあぶねえ!」
包丁を握ったままの月乃に飛びつかれて、僕は月乃と地面に倒れる。
「……ふう、敵じゃなかったみたいだ」
「包丁しまえ! あぶねえだろ!」
それになんだ敵って。
おまえ敵多いな。
月乃は起きあがると、包丁をくるりと回して水道で洗った。どうやら水道だけは止められていないらしい。
「掃除しに、たまに来てるからね」
「ああ、なるほど」
どうでもいいけど。
キッチンには、小さなロウソクが一本だけ立っていた。ほとんどロウが溶けていて、そろそろ消えるだろう。それがどうやら月乃にとってのタイムリミットらしく、まな板の上に広げられていた材料を片付け始めた。
「……桐夜、だっけ? 副会長がそう呼んでた」
「そうだけど。てかクラスメイトなんだけど」
「そうだっけ? まあとにかく桐夜、このこと、ぜったい言わないで」
食材をタッパーに詰め込んだ月乃はそれをバックにしまうと、僕をまた睨みつけた。
「言わねえよ。命が怖いからな。……だけどそのまえに月乃」
「なに? ぼくの顔になにかついてる?」
「いや……ただな、包丁をそのまま握って帰るなよ」
こいつ、ほんとうに大丈夫なんだろうか。
僕たちはそのあとすぐに、帰宅した。
けっきょく、月乃が『銀の月』で料理をしていた理由は、聞きそびれた。
☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽
約束どおり、『銀の月』でのことは誰にも言わなかった。
月乃は教室ではいつものようにずっと黙っていたし、僕もそれほど友人が多いわけでもなく、いたとしても月乃のことが話題になることはなかった。生徒会の仕事も料理研究部の廃部手続きが終わったいま、月乃には関係のないものでしかない。
塾の帰り、また何度か『銀の月』のなかにぼんやりとロウソクが灯っているのが見えた。
電気とガスを使わずに作れる料理なんて、たかが知れてるだろうに、なにを毎晩つくっているのだろうか。
気にはなったけど、聞こうとまでは思わなかった。
それになにより、接点が教室でしかない僕と月乃にとっては、会話する機会なんてなかったのだ。
「ん? あそこ、相当ヤバいぞ?」
ふと、兄が建設工事の仕事をしてることを思い出して聞いたのは、それから十日ほど経ったころだった。
仕事を帰ってきて酒を飲み始めた兄に、僕はなんとなく『銀の月』のことを聞いた。年が離れていてるから一緒に『銀の月』に行ったことはなかったけれど、兄もどうやらあの和菓子屋は行きつけだったらしい。
和菓子の話から、次第に『銀の月』の解体工事の話になったのは兄の仕事柄、自然なことだった。というか僕もそれが知りたくて話を持ち出したんだし、当然の流れでもある。
「ヤバいって、なにが?」
「強度だよ。先月、ちょうど俺が測定しに行ったんだけどな、ありゃいつ崩壊してもおかしくねえぞ。解体工事も四日後に決まったしな」
「そんなにヤバいのか?」
「たぶん中央の大黒柱、思い切りなぐったら折れるぞ。あれ中がかなり腐ってたからな。……まあそのぶん工事は楽でいいな、ははは」
声をあげて笑う兄。どうやら酒が本格的にまわってきたようだ。
「……いますぐ崩れる可能性も、あるってことか?」
「ん? だから、そう言ってるだろ」
そうだったのか。
僕は笑い上戸になった兄をそのまま放置して、玄関に向かう。
さすがにいまのいまで崩れることはないにしろ、そんなに危険だったのなら月乃を放っているわけにはいかない。べつに、あの猫かぶり女を心配しているわけじゃないけど、万が一があったら後悔するのは目に見えていた。
スニーカーに履き替えて、家を出た。
薄暗いなか、小走りで『銀の月』にむかう。
夜の空は曇っていた。
予想したとおり、月乃は『銀の月』のキッチンでなにかを作っていた。
裏口はやはり開いていた。
不用心。せっかく鍵があるんだから閉めればいいのに。
でも、そのおかげで簡単に立ち入ることができる。廊下の柱はたしかに傾いていた。外見は腐っているかはわからないけど、測量した兄がいうのならそうなのだろう。触れないように注意しながらキッチンに入った。
「ぼくになにか用?」
月乃はちらりと僕を一瞥して、冷たく言い放った。
「ああ。ここ、危ないんだってよ。いますぐ崩れてもおかしくないんだって」
「知ってる」
あっさりとうなずいた月乃だった。
「知ってたのか? 知ってて料理してたのか?」
「うん。それがどうかしたの?」
どうかした、とこともなげに言われては、返答に困る。
天井が崩落すれば、ぺしゃんこに潰されるのだ。生き埋めになれば、怪我は免れない。最悪は死ぬかもしれないってことだ。
「それが、どうかしたの?」
もう一度聞かれる。
ボウルでなにかをかき混ぜている手は、止める気配はなかった。
そこまで迷いのない言葉に、僕は……
「……いや、なんでもない。じゃあな」
引き返した。
……ちゃんと、注意はした。
だけど危険を覚悟で料理をするやつを、僕は止める気なんてない。
止める義務もない。
否定はしたけれど、たしかに月乃凛花の部活を終わらせたのは、僕たち生徒会なんだから。
彼女の居場所を奪ったのは、僕たちなんだ。
そのことですこしでも喜んだ僕には、彼女の場所をまた奪うなんて、できようもなかった。
☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽
翌日は、雨が降っていた。
十月ももうすぐ終わる。
あと数日で十一月になる空は、どんよりと曇って重たかった。雨も心なしか冷たく、冬の到来が迫っているのが肌で感じられる。
「うふふ、やっぱり三次元より二次元よね……」
「副会長、趣味でPCを使うのはやめたまえ」
生徒会室の窓は閉め切られており、空気はなまぬるかった。
会長席には生徒会長の竜ヶ峰が座っており、細い眼鏡をくいっと持ち上げて副会長を見据えていた。
その副会長はというと、ノートパソコンをテーブルに広げてネットサーフィンしていた。仕事がないときの副会長のオンオフの切り替えはすさまじい。
「竜ヶ峰くんもいっしょに美少女眺めようよ。目の保養になるわよ」
「いらぬ世話だ。だから画面をこっちに向けるんじゃない。身の毛がよだつ」
「まあまあ、ほらほら」
副会長はノートパソコンを竜ヶ峰の前まで持っていき、わざわざそこで観賞を始めた。
竜ヶ峰は『ドン!』と机を叩いて、
「やめたまえ! そんな破廉恥な画像をこんなところで閲覧するとはなんたることか!」
「ほんと竜ヶ峰くんはお固いんだから。どうせやることないんだし、いいでしょ? ほら見てよこの子なの太もも、すごくむっちりしてて美味しそうじゃない……じゅるるるる」
「涎を私のデスクに垂らすな!」
なにを遊んでるんだか。
僕は書類に記入漏れがないかの点検を終えて、大きく伸びをした。これで今日の仕事は終わりだ。
「まったくうるさいわね……ほら、これならどう?」
「だから美少女のイラストなどに興味……は……」
「ふふ、食いついたわね。これはどう? ふふ、やっぱりこっち系だったのね」
「…………副会長。ひとつ聞くがいいか?」
「あらなあに?」
「……どうして私の趣味がわかった」
「そりゃあ、桐夜くんを勧誘したときの目つきを――むぐっ」
「ん? なんか呼んだか副会長?」
なにやら僕の名前が呼ばれた気がして振り返った。
竜ヶ峰がいつもどおりの険しい表情で眼鏡を光らせて、副会長の口元をおさえている。
「んん~~~~!」
「黙りたまえ副会長。桐夜、きみも仕事が終わったならさっさと帰りたまえ」
「はいはい。言われなくても」
僕はかばんを手にとって生徒会室を出る。
そのまえに、入り口で止まって、竜ヶ峰に聞く。
「……そういや、調理室って誰でも使えたりする?」
「申請すればな。ただし放課後、教師立ち会いのもとでという条件付きだ。使いたいのならすぐに便宜をはかってやってもいいぞ。もっとも、いま申請しても早くて一週間後というところだろう。施設使用の許可も我々が手配しなければならないからな。使う予定があるのか?」
「そうか。いや、いまはいい……さんきゅな竜ヶ峰」
「うむ」
竜ヶ峰は面倒見がよくていいやつだ。副会長もあれがなければ完璧なのに。
まあなんにせよ、聞きたいことは聞けた。
あとは月乃次第だろう。
そのまま帰路につく。薄暗い夕方だった。
傘に当たる雨粒のリズムが激しくなってきたころに、僕はちょうど『銀の月』のまえを通りかった。ここを通るとついガラス越しに店の奥を眺めようとしてしまうくせがついてしまった。
まだ夜じゃないにもかかわらず、ロウソクの灯りがともっていた。
裏口にまわりドアノブを捻る。やはり鍵はかかってなかった。
「また来たの? もしかしてぼくのことが好きなの?」
「ふざけろ」
軽口をたたく月乃の隣で、僕は彼女の手元を覗きこんだ。
小さなプラスチック容器に、なにやら液体のようなものを流し込んでいた。
どこかで嗅いだことのある匂い。
「……なに作ってるんだ?」
「桐夜には関係ない」
ふと、机の下にクーラーボックスのようなものが置いてあるのを見つける。
前からあったっけ? と首をひねりながら、それを触ってみた。
「ちょっ!」
月乃が慌てたときには遅かった。
もわっとドライアイスの白い煙を吐き出して、クーラーボックスが開く。
中には、プリンがあった。
小さなプラスチックケースに入ったプリンがずらりと並んでいた。ドライアイスが底に転がっていて、どうやら冷蔵庫代わりにしているらしい。
そういえば月乃は、最初に見たときから同じ材料を切っていた。さっきのプラスチックケースに流し込んだのも同じものに違いない。
ということは、つまり。
「おまえ、ずっとかぼちゃプリン、作ってたのか?」
「――でていけ!」
「痛ってええええ!?」
首筋に噛みつかれた。
もの凄い力で噛みつかれていた。八重歯がつきささっているのがわかる。
僕はとっさに月乃を振り払って、尻もちをついた。
「いってええな!」
「うるさい! 死ねバカバカバカバカ!」
なおも八重歯を光らせて睨んでくる。犬みたいだ。
「帰れ村雨桐夜! バーカバーカ! 覗き魔!」
「ったく。せっかく調理室使えること教えてやろうと思ったのに……」
「バーカ!」
うるせえ。
僕は立ち上がってキッチンを出た。べつに言われたから帰るわけじゃない。ただすこし、僕のほうの癪にもさわっただけだ。かぼちゃプリンを見ただけでここまで言われて黙っているほど、僕だって善人じゃない。
裏口から店を出た。月乃が「二度とくるな!」と勢いよく扉を閉めた。
頼まれたって、こんなとこ二度とくることはないだろう――
僕がそう心に誓ったときだった。
ミシッ
雨の音に混じって、軋むような音が聞こえた。
ミシミシ……と今度は明らかに、嫌な音。
ギシッ――
さらにひときわ大きな音が聞こえたと思って、振り返った。
それと同時に、
ずずんっ!
重いものが――とてつもなく重いものが落ちる衝撃で、地面が震えた。
ガラスがひび割れるような音もした。ハッとした僕の視界は、『銀の月』のキッチンの窓がひしゃげてそこから土煙が漏れていたのを、捉えた。
「――月乃っ!」
僕はすぐにきびすを返し、裏口から飛び込む。
土煙に咳き込みながら、キッチンに駆け込んだ。
天井が落ちていた。
二階部分だろう。そこの床を支える梁が折れたのか、キッチンの半分が木と畳の残骸で埋まっていた。
背筋が凍った。
僕はいそいでキッチンのなかに踏み入った。瓦礫をかきわけ、調理台のところまで進む。
「月乃!」
月乃凛花は、頭から血を流して倒れていた。
太い梁の下敷きになっている。手が折れて、変な方向に曲がっていた。気を失っているのか、それとも命を失っているのかまではわからない。ただ、足も潰されているようだった。
僕は慌てて、梁を持ち上げようと力を込めた。
重い。
まったく持ちあがる気配がない。だからといってあきらめるわけにはいかず、歯をくいしばって全身に力を込めた。
「痛っ!」
割れた梁の端で手のひらを切った。
血が滲む。
でも、悠長に痛みを味わっている場合じゃない。
はやくしないと、月乃が――――
「――――え?」
目を疑った。
月乃の額から流れていた血が、消えていた。
それだけじゃない。折れていた手も、まっすぐに治っている。
さっきのが幻覚だったかのように、月乃凛花の傷はきれいに治っていて……
「……そこ、どいて」
目を開けた月乃が小さくつぶやいた声に、僕は従うしかなかった。
少しさがった僕の目の前で、重くてピクリとも動かせなかった太い木の梁が、月乃が身を起こすだけでいとも簡単に持ちあがる。
僕は、目の前のことを信じられないでいた。
「……間に合わなかった、か……」
まるで人間業とは思えないそんな所業をした月乃は、どこか寂しそうにそうつぶやいた。
そして唖然とした僕の手を引いて、崩れた『銀の月』から出るのだった。
☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽
月乃が僕を連れてきたのは、学校の近くにある墓地だった。
雨が降るなか、ひとつの傘に狭苦しく肩を並べて僕らは立っていた。
『月乃家ノ墓』
彼女がいうまでもなく、それが誰の墓なのかはわかった。
僕も大好きだった『銀の月』のお婆さんが、この下に眠っていた。
「……祖母は、ぼくの本当のおばあちゃんじゃない」
墓石にふりそそぐ雨粒が跳ねて、僕たちに当たる。
その雨と同じような冷たい声で、月乃はぽつぽつと話しだした。
「ぼくは、小さなころに祖母に拾われた。身よりのいなかった祖母は、大切に、とても大切にぼくを育ててくれたんだ。桐夜もさっき見たでしょ? ぼくは怪我をしても、病気をしてもすぐに治ってしまう。そんな捨てられた化け物を大切に……ほんとうに大切に、自分の孫のようにして育ててくれたの」
やっぱり、さっきのは幻覚じゃなかったのか。
月乃の怪我は、一瞬で治ってしまったのは。
「祖母が僕に遺してくれた言葉は、『上手に生きなさい』だったの。だからぼくは、この体がばれないように、目立たないよう、大人しくすごすことに決めたの。祖母が亡くなってからは施設ですごしてるけど、誰かの前で怪我なんかしないように、いつも注意して生きてるの」
上手に生きる。
それは、月乃にとってとても難しいことだったのだろう。
想像はあまりできないけど、理解はできた。
その声が、震えていたから。
「死ぬ直前にもなって、祖母はぼくのことを考えてくれてたの。なんて優しいひとだって、心から想った。心から感謝した。ぼくは祖母のことがほんとうに好きなの。誰よりも大好きで、誰よりも大切で…………だから、祖母の命日のあした、十月三十日に、ぼくは祖母に贈り物がしたかった。祖母がいちばん好きだって言ってたかぼちゃのプリンを作って、お供えしたかった」
「だから、おまえ……」
「でも、もう間に合わない」
ぐず、と顔を伏せた月乃は、鼻をすすった。
月乃がかぼちゃプリンを作れる場所は『銀の月』しか残っていなかったのか。だから、危険を承知で……。
「それに、もうバレちゃった」
「月乃?」
月乃は傘の下から出ると、雨のなか僕と向き合った。
暗くて、表情は見えない。
「ぼくのこと、気味悪いでしょ? 折れた腕が治るところ、見た? 血が蒸発するところ、見た? 気持ち悪かったでしょ?」
月乃の表情は、教室で見せる無感情でも、キッチンで見せる怒った顔でもないのだろう。
声も、体も、なにもかもが震えていた。
「……でも、おねがいします」
「月乃!?」
月乃は、両手を地面につけた。
雨にぬれることもいとわず、祖母の墓の前でもいとわず。
震えながら、僕に……土下座をした。
「お、おねがいします。桐夜。ぼくのことを黙っていてくれませんか? ぼくが気味の悪い体だってこと、誰にもいわないでくれませんか? なんでもします。なんでもするから、だから、だから……ぼくが上手に生きることを、許してくださいっ!!!」
月乃は泣いていた。
どんな想いで彼女がこうしているか、僕にはわかるはずもない。
どんな覚悟で彼女がこうしているか、僕には感じることはできない。
だけど……だけど。
「――月乃」
僕は思った。
月乃の居場所だったお婆さんが亡くなって、拠り所だった部活も無くなって、ついにお店も崩れてしまって。
もう、なにも残っていないのなら。
「あきらめんな。まだ、間に合う」
「え?」
僕も大好きだった『銀の月』のお婆さんのためにも、僕にもできることがあると、思ってしまった。
☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽ ☽
「……こんなことして、いいの?」
「しっ、静かにしろ」
翌日の十月三十日。
天気は曇り。
とっくに授業が始まっている時間、僕たちは調理室にいた。
鍵は職員室から勝手に持ち出した。
「ねえ、いいの?」
「よくねえよ」
本来なら、調理室の使用は、竜ヶ峰が言ったとおり許可がいる。
そんなこと百も承知だ。
材料を買い込んで調理室に忍びこんだ僕らは、まずは入り口にバリケードを作った。それから音が漏れないようにカーテンをすべて閉め、ガムテープで扉の隙間をすべてふさいだ。
「よし、さっさと始めろ。こんどこそ間に合わなくなるぞ」
どうやら『銀の月』の解体工事は今日らしい。いまごろ兄が会社のひとたちといっしょに、重機を使ってせっせと作業にいそしんでるのだろう。
かぼちゃをレンジに入れた月乃が、椅子に座って待つ僕に、恐る恐るといった表情で振り返った。
「ねえ……ほんとうに、ぼくのこと気持ち悪くないの?」
「わからん」
昨日も同じことを言ったのだが、やはり不安なのだろうか。もう一度言う。
「おまえの体質なんてわからん。たぶん気持ち悪いって思うのが正解なんだろうな。……けど、おまえのお婆さんのことは、僕は好きだった。そのお婆さんが大切にしてたおまえを嫌いになったりでもすりゃあ、婆さんに顔向けできねえだろ」
「…………そう」
少し不安そうなまま、月乃はまたレンジに向き合う。
べつに、僕は月乃の不安をとるためにここにいるわけじゃない。「気味悪いなんて思うか!」とは言えない。
しばらく待っていると、月乃がひとつめのかぼちゃプリンを冷蔵庫に入れた。
そしてすぐに、新しいプリンを作ろうとする。
「そういや、おまえなんでそんな何個も同じものつくるんだ? お供え物なら、ひとつでいいじゃねえか」
「それは……」
言い淀んだ月乃。
その理由がわかったのは、ひとつめのプリンが完成してからだった。
冷蔵庫から冷えて固まったプリンを突きだされて、僕は月乃を二度見した。
「食べて」
「え」
いいのか、お供え物にするんじゃ――と言いかけた僕の口にむりやりプリンをつっこまれる。
「ってまずうううううううっ!?」
驚くほど不味かった。
「にっが……なんだこれ、めちゃくちゃ苦いじゃねえか!」
「うん。でも、これでもかなりマシになったほうなんだよ」
真顔で言う月乃。信じられん。
だがその言葉は本当らしい。最初のうちは、自分で作って食べては気絶していたらしい。
怪我もすぐなおるやつが、料理をたべて卒倒するとは……どんだけパンチ力があるかぼちゃプリンだ。
「そりゃあ、後輩もみんな逃げるよね。はは」
「乾いた声で笑うな。こっちまで悲しくなる」
とにかく月乃の料理の腕前は壊滅的だった。だからこそ少しでも美味しいプリンを祖母の墓前に――それが、月乃の願いらしい。
昼休みが来ても、月乃は休憩することなくプリンを作り続けた。
かぼちゃを温めて、ヘラで潰してペーストになるまで練り、牛乳と砂糖と卵と混ぜ、あとは焼いて冷やすだけ。
たったそれだけの作業でなぜあそこまで苦いものが作れるのか不思議で仕方がなかったけど、月乃は僕が手伝うことを一度も許さなかった。
ただ、味見だけは毎回させられる。
「……やべえ、不味すぎて吐きそうだ」
「うるさいバカ」
放課後にもなると、月乃もいつもの調子を取り戻してきたようだった。
ただ、少し焦っているのはわかる。
これまで何十回と同じことを繰り返して、ほんとうにわずかしか上達していないのだ。
原因はわからない。
このままじゃ、今日のうちに間に合わない――
ドン!
と、調理室の扉が叩かれたのはそんなときだった。
「誰だ!? ここを許可なく使用しているのは!」
竜ヶ峰の声だった。ガンガンと扉が叩かれる。
「特別室の無断使用、占拠はあきらかな校則違反だ! どこのどいつか知らんが、退学にさせられたくなければ大人しくでてこい!」
「いまのうちならまだ反省文くらいで済むかもしれないわよ」
副会長の声まで。
どうしてばれたのかはわからないが、どうやら気付かれたらしい。
僕と月乃は顔を見合わせる。
「……桐夜、どうしよう」
「どうもしねえ。そのまま作り続けてろ」
僕は扉の前までくると、
「……竜ヶ峰」
「その声! ……桐夜か。きみ、どうして――」
「すまん。ちょいと野暮用でな」
僕の小声に気付いた竜ヶ峰は、同じように声をひそめて返してくれた。
「……真面目なきみはこんなことをするところを考えるに、よほど大事なことなのか」
「ああ……そうかもな」
大事なこと。
まあ、そうだろう。
「ここは見逃してくれないか?」
「……きみに免じてそうしたいのは山々だが……あいにく生徒指導部の顧問にも話が通っていてな、このままおいおいと引き下がるわけにはいかん」
「なるほど。そりゃあ厄介だな」
「だが、」
竜ヶ峰の声は、すこしだけ優しかった。
「火急の用事とあれば、下校時刻まではなんとかしよう。ここのマスターキーは当直室にあるが、ちょうどいまは私が持っている。私が鍵を紛失したフリをすれば、なんとかそれまではこの扉を守れるだろう」
「ほんとか? そんなことしていいのか竜ヶ峰」
「よくはないが……そのまえにひとつだけ聞かせてくれ、桐夜。おまえがこんなことをしたのは、自分のためか?」
その問いに、僕は即答した。
「ああ……守りたいひとの、ためだからな」
「あっ」
すぐうしろで声。
月乃が、僕のそばに立っていた。
顔を赤くしている。
……どうやら聞かれたらしい。お婆さんが守りたかった月乃、という意味で言ったのだが、どうやら誤解したらしい。
そのまますぐに離れて調理台に戻り、かぼちゃを切る作業を再開していた。
「……そうか。なら、私はきみの味方になろう。副会長も同意してくれるし、なんとか誰にも邪魔はさせないようにしよう。ただ、下校時刻を過ぎたら脱出してくれよ。この扉は使わずにな」
「ああ」
そう言うとすぐに、竜ヶ峰が扉から離れていく気配がした。
「……月乃?」
「ひゃいっ!?」
声をかけると、月乃は背筋をピンと伸ばした。
それから何を話しかけても無視されるようにはなったけど、それから努力すること数回、ようやく月乃が納得できる味のかぼちゃプリンができあがった。
できたのは、とびきり甘いかぼちゃプリン。
「おい! まだ誰かいるのか!?」
先生の声が扉の向こうから聞こえた。
「やべえ! さっさと逃げるぞ月乃!」
「うん!」
僕らはすぐさま、荷物を片付けて脱出した。
時計を見ると、すでに夜の十一時をまわっていた。
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調理室は二階にもかかわらず、月乃は僕とクーラーボックスを軽々と背負って、窓から飛び降りた。
怪我が治ったり力が強いだけじゃないらしい。脚力も人並み以上だった。
飛び降りてすぐに「……気味悪いって、思ったりした?」と確認してきたのには、さすがに笑った。
急いで学校を脱出して、墓地に向かう。
星も月も出ていない曇り空。
墓地についたのは、日が変わる直前だった。
「……なんとか、間に合った……」
月乃が小さく息をついて、墓前に小さな容器をひとつ置いた。
その瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
無機質な墓石のまえに、ちょこんと置かれたプリン。
手を合わせて目を閉じた月乃。僕も同じように合掌する。
お婆さんの作る和菓子はいつでも美味しかった。いろんなものを食べさせてくれたし、いつも笑いながら話してくれた。月乃凛花なんて子がいるとはひとことも言わなかったのは、血のつながらない孫を守るためだったのだろう。優しくて、温かいひとだった。
亡くなってから一年。それは月乃にとって、寂しい時間だったのだろうか。
もし、月乃が寂しいと思っているのなら、ときどき僕が話し相手をさせてもらう。お婆さんが心配している月乃の体のことも、決して口外しないと誓う。
だから、まだしばらく見守っていてあげてくれ。お婆さん。
僕になにができるかはわからないけど、月乃凛花は、もう僕の友達だから――
「あ、月が……」
月乃のつぶやきに、僕は目をひらいた。
空が晴れて、銀色の光がやわらかに、降り注いでいた。
「……月乃……」
僕は目の前に立っている月乃に……見惚れてしまった。
彼女の黒かった瞳は、深紅に輝いていた。
八重歯がすこしだけ伸びて、まるで本物の牙のようで。
肌は透きとおるような銀色に煌めき、空を見上げた彼女の四肢はまるでガラス細工のように儚かった。
神秘的で荘厳な彼女に、僕はつい目を奪われてしまった。
「ありがとね、桐夜。ほんとうにありがとう」
素直にそんな言葉を口にした月乃は、うっすらと微笑んだ。
僕は返事もできずに、ただ彼女を見つめているだけだった。
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『二年七組、村雨桐夜。生徒指導室まで来なさい』
朝、下駄箱でうわばきに履き替えていると、そんな放送が聞こえた。
昨日の件はさすがにやりすぎたと思っている。退学はなんとか免れてほしいものだが、せっかく協力してくれた竜ヶ峰の顔に泥を塗らないためにも、厳罰も覚悟の上で向かわなければなるまい。
まあそのまえに、かばんだけ置かせてもらおう。
廊下を歩いていると、女子たちがお菓子を配っている姿をちらほらと目にする。
そういえば、今日は十月最後の日か。
むかし『銀の月』でかぼちゃのケーキを買ったことを、いまさら思い出した。
「「あ」」
教室の入り口で、ちょうど月乃と鉢合わせした。
お互い、無言で見つめ合う。
クラスにいるときは無表情なはずの月乃が、どこか恥ずかしげで、
「あ、あのさ、桐夜」
「……ん、なんだ」
気付けば、クラスメイトたちが興味深げに僕らを眺めていた。
こいつのこんな態度、初めて見たやつもいるのだろう。
とはいえ、目立つのは避けたいところだ。月乃のためにも、僕のためにも。
さっさと用件を言え――と言いそうになった僕の言葉を遮って、月乃は。
「……ぼくも、桐夜のこと、守れるかな?」
それだけ言い残して、教室から走り去っていった。
「…………。」
クラスメイトたちが驚いたような表情をしているのを無視して、僕はそのまま自分の席へと向かう。
机のうえには、オレンジと紫の包みに飾られた小さな容器が置かれてあった。
その下に、スプーンと小さな手紙。
『言っとくけど、二番目にうまくいったやつだから! 桐夜なんてこれくらいでじゅーぶんだから!』
一番は、お婆さんの墓前に。
二番は、僕の胃袋に。
照れ隠し、なんだろうか。
まだ月乃のことはよくわからない。
……だけど。
「アホめ……こういうときは、これだけ言っとけばいいんだよ」
スプーンでかぼちゃプリンをすくって口に運んだ。
ぱくり、と一口食べる。
ゆっくりと味わいながら、僕は小さくつぶやいた。
「ハッピーハロウィン、月乃」
かぼちゃプリンはほろにがくて、少しだけ、甘かった。