スツーカ・ドクトル ――Luftwaffe――
ランニングをしていたザシャは、ふと視線を感じて足をとめた。
汗をかいた素肌の上を風が心地よく滑っていく。
「……誰かしら」
基地の片隅に立つ男は、彼女の友人である男と同年齢ほどだろうか。
ストレートのズボンに、シャツというシンプルな姿は運動のために無駄な装飾品は一切ない。
ハニーブロンドの頭髪を指先でかき上げながら、彼女は首を傾げて彼を見つめた。
黒髪が印象的などこか強面の男にザシャは荒い呼吸を整えながら口を開きかけた。どうやら、自分の事をずっと見ていたらしい。
「……体がクールダウンしてしまいますよ」
若い男の声に、ザシャは目をぱちぱちと瞬かせながら、両膝に手をついて頭を下げる。ぽたぽたと汗がしたたり落ちた。
時計を見ればすでに一時間ほどランニングしていた計算になる。
「どなたかにご用件ですか?」
荒い呼吸のまま問いかけると、男は苦笑する。
「いえ、用事が終わったから出てきたらあなたがランニングしていたから見ていただけです」
「……はぁ」
一時間も見ていたのだろうか。
いや、そんなわけはない。
頭の中でぐるぐると自問自答する彼女は、男のジャケットについた専門職章にちらと視線を放った。
「お医者様、ですか?」
基地内でランニングしているわけだから、当然基地の関係者になるのだが足を止めた女性の柔らかな物腰に、男はわずかに眉をつり上げた。
胸元には専門職章がある。
アスクレピオスの杖を模したそれに彼女はにこりと笑うと頭を下げた。
「いつもお世話になります」
「君は、婦人補助員ではないな……?」
そもそも通信などを担当する婦人補助員が基地内でシャツとパンツだけでランニングしているわけもない。
休憩中らしい婦人補助員らが、くつろぎながら会話をしているのが見えた。
時折、ザシャと男を見やってなにか話し込んでいる。
「はい、一応、パイロットです」
「あぁ、なるほど。噂の……」
童顔にハニーブロンド。
緑の瞳の印象的なヒヨコ爆撃機の搭乗員。
「噂、ですか……?」
「いや、なんで基地に子供がいるのかと思っただけで」
子供っぽい。
そう言われて、ザシャは顔を真っ赤にした。
怒ったと言うよりも、恥ずかしかったのだろう。
「あんまり、色気がないってよく仲間内で言われるんです……」
溜め息をついた彼女は、黒髪で彫りの深い男を見つめてから苦笑する。
何度も戦果を粉飾したのだが、結局、彼女の戦果はある程度認められてしまって第二級鉄十字章を取得させられる羽目に陥った。
ちなみに、それでも昇進は断固拒否をしたため少尉のままだ。
上から下までじろじろと彼女を見つめた軍医の男は不意に彼女の上腕を掴んだ。
「……いっ」
痛い。
悲鳴を上げる彼女に構わず、筋肉を確かめてひとりで「なるほど」と頷く。
「格闘技は苦手だろう」
「……はぁ」
どうしてこの人はそんなことまでわかるのか、と内心で感じながら彼女は相づちを打つしかない。
「もう少し訓練をしたほうがいい。万が一墜落したときに命に関わりますよ」
「気をつけます」
とは言っても、ザシャだってそれなりに訓練を重ねているのだ。
重い爆弾を機に装備するときだってそれなりに男たちと一緒になってやっている。もっとも、当の中隊の仲間たちからは邪険にされて役立たず呼ばわりされているが。
体格と筋肉量の根本的な違いから、体力は圧倒的に劣っている。
身長だって男たちより頭一つ分以上小さいのだ。そんな彼女と男たちを比較すればたかが知れている。
彼女の腕から手を離した男はそうして、ひとしきりザシャと言葉を交わしてから立ち去っていった。
その場しのぎでも、医師のひとりとして彼女の健康状態を気にかけてくれたようだ。
ぽかんとしたまま軍医を見送った彼女は、それからしばらくして男が後方機銃手として素晴らしい腕を持っていたことを知る事になるのだがそれはまた後の話だった。
後に彼はこう呼ばれる。
――スツーカ・ドクトル。