名馬の謙虚さ
ところが、嘘ではなかった。朝になると僕が起きるのを見計らったように『おはよう。』と再び若い女性の声が聞こえた。
僕は急いでドアに視線を向ける。だが、やっぱり誰もいない。
『落ちついて聞いて。』若い女性は慌てて言った。『わたしも考えたのよ。』
これは内なる自分ではないのか、と僕は考えを巡らせた。だが、『違うわよ。』とすぐに若い女性の声が聞こえた。
「えっ?」
『わたしはあなたの考えていることがわかるの。』
「えっ?」
『わたしは唯子。あなたに住んでいるの。』
唯子と名乗る声の持ち主らしき女性が言った。初めは意味がわからなかった。
「住んでいる? なにが?」
『わたしはあなたに住んでいるの。』
僕は言葉を失った。住んでいるという意味を自分なりに解釈してみる。住んでいるというのは暮らしているということだ。でも、許可もなく住むというのは、住みついていると言った方が正しい気がした。まるで、ゴキブリだな、と思う。
『ちょっと、ゴキブリって失礼じゃない。』唯子が怒った。
いや、ゴキブリの方がいくぶんマシではないのか、と思う。
『ちょっと、ちょっと、あんたなに考えているの。』唯子が慌てて怒った。
「なにが目的でおれに住みついたんだ。」僕が訊ねる。
『別にわたしもあんたに好きで住んでいるわけじゃないわよ。』唯子がへそを曲げた。『わたしとゴキブリを一緒にして、さらにはゴキブリの方がマシって、信じられないわ。』
「おれだって信じられない。」
本当に信じられなかった。いや、信じていなかった。何かの間違いだと思っていた。
すると、ドアが開いた。
「何が信じられないの?」
愛梨が心配そうな顔で僕を見た。寝起きなのか、パジャマ姿のままだった。細くて軟らかそうな長い髪の毛は乱れていた。父に似て端整な顔立ちをしているせいか、どこか様になっている。
「えっ?」
「信じられないって独り言が聞こえたけど?」
「ああ、いや。」と僕は頭を掻く。「夏休みなのに学校に行かなくちゃいけないなんて、信じられないな。」と僕はお茶を濁した。これは咄嗟に考えた言い訳でもあったが、本心でもあった。僕達の学校では明日から始まる夏休みに解放されるプールの説明について、今日学校に行く必要があった。
「うん、まぁ、そうだよね。こうゆう説明は夏休み前に済ませておいて欲しいよね。」
「ああ、確かに。」
「でも心配しちゃった。」
愛梨が安堵の表情を浮かべて言った。
「なにが?」
「昨日、あんなことあったから、後遺症で頭がおかしくなったのかなって。」
『後遺症』という言葉に僕は動揺した。そうか、僕はあの影響で少しおかしくなっているのかもしれないな、と思う。
「だ、大丈夫だ。後遺症なんかあるもんか。あったとしたって後遺症なんか退治してやる。」
少したじろぎながらも僕は自分に言い聞かせるように言った。
「退治?」
「ああ、ゴキブリを退治するように退治してやるんだ。」
ゴキブリを駆除するスプレーを想像する。意外に洗剤でもゴキブリは倒せる。だが、姿が見えない奴をどうやって倒せばいいのだろうか。途方に暮れる思いを巡らせる。
「ゴキブリを退治? やっぱり、お兄ちゃん変だよ。」
愛梨は再び心配そうな顔を浮かべて顔を覗き込んできた。顔が小ぶりで目が大きく、まつ毛の長い顔が近づく。兄の贔屓目抜きに愛梨の外見は人並み以上だ。一つ学年が上の僕のクラスでも愛梨のファンだと言う人間はいる。それは、男子に限らず、女子もいる。そして、兄の体調を心配することのできる、よくできた妹だ。
「たぶん、大丈夫だよ。」僕がそう答えたと同時に父が部屋に入って来た。
「おはよう。」
まだ、眠り足りないのか、目を細め、ダルそうに声だった。
「眠いならまだ寝てればいいのに。こんな朝早くから何の用?」
愛梨は嫌悪感を隠さず父に言う。愛梨の短所を挙げるとすれば、それは父親に対して手厳しいことだ。
「おれは寒太郎に用があって、寒太郎の部屋に入ったんだ。」
父は目頭に付いた目やにを擦りながら言った。
「あっ、そう。でも、お兄ちゃんはわたしと話しているの。用があるなら順番を守るか、わたしに断りを入れてからにしてくれないかな。」
父は愛梨の意地悪に困ったように眉毛を下げた。そして、一つ咳払いをした。「それじゃあ、愛梨さん。ちょっとお兄さんとお話がしたいのですが、よろしいですか?」
「嫌よ。」愛梨がそっぽを向いた。
「嫌かぁ。残念。それじゃあ、並ぶとしよう。」
父は潔く身を引いた。そして、愛梨の後ろに並ぶと「この列は何分待ちなんだい?」と愛梨に訊ねた。その顔は不愉快そうでもなく、面倒くさそうでもなく、純粋に娘とのやり取りを楽しんでいるようだった。
「お父さんの寿命と同じよ。」愛梨が冷たく言い放つ。
「それじゃあ、おれは息子と人生を掛けても話すことはできないのか?」
「そうね。残念な人。」
「でも、息子とは話せなくても娘と話せる。」
父が微笑んだ。だが、「そうなのかな?」と愛梨が言った。
「お父さんがそう思っているだけで、実はそうじゃないのかもしれない。」
「えっ?」父が目を丸くする。「どうゆう意味だ?」
「実はお父さんの子どもじゃないのかも知れない。」
愛梨が意味あり気に微笑んで見せた。
だが、父が突然、噴き出した。爆笑をしてベッドに手を叩いた。
「な、なによ?」
愛梨は父の不意の爆笑に少しのけ反いた。
「それはないよ。愛梨の優れた容姿は間違いなくおれから引き継いだ遺伝子だ。」父が自信満々に言った。
愛梨の顔が歪んだ。一面に咲く花が急に萎れたような、そんな感覚を僕は覚えた。「それが嫌なの。その嫌みたっぷりの余裕と自信。わたしはお父さんのそのずうずうしさが嫌い。」
父の表情が苦々しくなった。さすがに面と向かって娘に『嫌い』と言われるのは精神的に堪えたのかもしれない。
「おれは別にずうずうしくはない。おれの自信は周りの評価が与えた物だし、周りのことも考えている。『礼も過ぎれば無礼になる』だ。謙虚になって相手に迷惑を掛けるなら、堂々としておいた方がいい。」
苦しい言い訳だと、僕は思った。だが、父はまだ口を開いた。
「いずれ愛梨だってそう思う日は来る。これから愛梨は経験するんだ。自分のずば抜けた容姿が相手にどんな反応を示させるかという知識を得て、どう振る舞うべきかという知恵を身に付ける。そうすれば、おれの言うことわかる。」
父はそう言うと部屋を出て行った。結局のところ、用事とは何だったのだろうと気になったが僕もそれどころではなかった。『面白いお父さんね。』唯子の愉快そうな声が頭に響いた。
「自称詩人のくせに『実るほど頭の下がる稲穂かな』ってことわざも知らないのかしら。」愛梨は父の消えた廊下に向かってぼやいた。
「なにそれ?」僕は愛梨の言ったことわざを知らなかった。
「中身のある人ほど謙虚だっていうことわざ。」
愛梨が呆れたように言った。
「そうなんだ。でも・・・」僕はなにかないかと頭の中の引き出しから捜した。そして、見つけた。「『名馬に癖あり』とも言うじゃないか。」僕なりの精一杯のフォローだった。
だが、愛梨は「癖がありすぎよ。」と吐き捨てた。そして、「それにお父さんは名馬でもない。」とも首を横に振る。
それを言ったら元も子もない、と思ったが面倒くさくなったので「そうだな。」と僕は首を縦に振った。