壮大な詩
目を覚ますと僕は自分のベッドの上にいた。上半身だけ起こし、自分が何故ベッドの上にいるのか違和感を覚え、そのことについて考える。そのとき、声が聞こえた。
『こんにちは。』
若い女性の声だ。元気のある声だった。
ドアに目を向ける。だが、誰もいない。後ろを振り返る。が、誰もいない。
『大丈夫?』
もう一度聞こえた。今度は心配そうに訊ねる感じだった。
急いでベッドから飛び出し部屋のドアを開ける。だが、誰もいない。
『あの~、お願いがあるんだけど?』
同じ声だが、今度は遠慮がちな声が聞こえた。僕は怖くなり、急いで部屋を飛び出して階段を降りた。リビングのドアを勢いよく開く。すると、父がソファでくつろぎながらテレビを見ていた。
「おお、起きたか。たいへんだったな。」
父は言葉とは裏腹に嬉しそうな顔で言った。「不幸は大切だ。不幸があるから人は幸せを感じられる。」
「なに呑気なこと言ってんのよ。」
食卓テーブルに座っていた愛梨が立ち上って冷ややかな目で父に見る。「大丈夫。どこか痛いところない?」
「ああ、うん。大丈夫、大丈夫。それより・・・」
僕はそれよりもおかしな声が聞こえたことを報告しようとしたが愛梨が僕の声を遮った。
「本当に? 鼻から血が出ていたんだよ。気も失っていたし。」
愛梨は僕の顔を覗き込むように観察する。
「気を失っていた?」
言葉に出して聞き返す。気絶したという実感はなかった。
「そうだよ。たいへんだったんだよ。」
愛梨が眉をひそめて言う。
僕は自分の身に何があったのか、記憶をゆっくり呼び起こす。そして、ショーケースに頭をぶつけて鼻血を出したことを思い出す。そうか、僕はあれで気絶したのか。それは大変であり、貴重な体験だ。
「ああ、たいへんだった。」父が頷いた。
「嘘よ。お父さんとお母さん、お兄ちゃんが倒れて、たいへんだったのに、呑気に男の人楽しそうに笑っていたじゃない。」
愛梨が目を鋭くして声を荒げた。
「寒太郎」父が僕を呼ぶ。「あの、山谷さん、面白いな。」父が顔をほころばせて言った。
「はぁ」僕は首を傾げる。「だれ? 山谷さんって?」
「あの魔法エリアを担当していた男の職員さんだよ。」
「男の職員?」口に出して思い出した。思い出されるのはあの一言だ。『大丈夫だ。石は割れていない。』別に恨みを持っているわけではないが、愉快とは言い難かった。
「人生山あり谷ありの山谷です。」父は笑いを堪えながら言った。
「なにそれ?」
「山谷さんがおれに向かって最初に言った台詞だよ。」
「人生山あり谷ありの山谷ですって?」
「ああ、その後に息子さんが気絶してしまいましたって。」
「他人事のようにね。」
愛梨が不快そうに言った。
「でも、いいじゃないか。山谷さんは寒太郎のハンディ番号からおれ達に連絡してくれたんだから。」
「でも、あの人全然悪びれる様子もなかったじゃない。」
「ああ、堂々としていた。」
父は何故か誇らかな顔で言う。
「それが気に入らないのよ。もしも、お兄ちゃんが重傷だったらどうするのよ。」
「大丈夫だよ。そのときはそのときだ。山谷さんがおどおどしていたところで寒太郎の怪我の重さは変わらないし、逆に堂々とされた方がこっちも安心する。」
「でも、いきなり自己紹介することないじゃない。」
「陽気でいいじゃないか。いきなり、『息子さんが怪我しました』って驚かされるより、陽気な空気で言われた方が受け止めやすいだろ。」
「逆に受け止めにくいわよ。これはもっと、深刻なことなのよ。」
「大丈夫だよ。寒太郎は生きているんだから。」
父は平然な顔で言う。
「だから、もしものことがあったらどうするの?」
「だから、そのときはそのときだ。」父は開き直ったように言う。そして、一向に怒りが収まらない愛梨に「いいことを教えてやる。」と間を置いた。
「どうせ、くだらない詩でしょ。」
愛梨が冷ややかな目で口を尖らせる。
「生きてこの世界は出られない。」
「なにそれ?」
愛梨がぽかんとした顔をする。
「安心しただろ。」父が笑顔で言う。「寒太郎。」
「なに?」
「お前はそこにいるだろ。」
父の口調は軽やかなものであったが、何故か重みのあるような言葉に聞こえた。
すぐには理解できず、咄嗟には父が何を言っているのか分からなかった。生きていることを確認されているのだ、と理解して、「父さんにおれの足が見えているなら心配ないと思うけど。」と遠回しな質問に遠回しな回答で返す。
「見えるさ。大丈夫だ。お前にはしっかりと二本足が生えている。それでいいじゃないか。」
「生きているから良しとしようなんて、雑だし、乱暴な考え方よ。」
愛梨が不満そうに顔で言った。
「乱暴なんかじゃない。ただ、自分は少し運が悪かったと考えればいいことだ。難しいことじゃない。」
「運が悪い?」
「ああ、この世界で一番大切なものを寒太郎には少し欠けていた。ただ、それだけの話だ。」父はあっけらかんと言った。
僕は最初に運が一番大切というのは少し違和感を覚えたが、改めて考えると意外としっくりきた。自分の努力ではどうしようもないことはいくらでもある。生まれた瞬間に決められたハンディキャップも言ってしまえば運の良さによって決められていると考えていいかも知れない。人によって自分を幸福にするものの優先順位は違っても、それを満たすには運の良さも多少必要になってくるはずだ。だが、それは自分にはどうしようもないこともあるから諦めろ、と言われているような気がした。
「人生諦めが肝心ということ?」
「違う。」父が強い口調で僕の言ったことを否定した。「切り替えが大切だと言うことだ。」
「切り替え?」
「カードゲームだよ。自分の身に起こることは運の良さによって決められる。この世界に残っている人間がすべきことは、その中から配られた手段で、どう切り抜けるかが大切なんだ。」
「・・・カードゲーム?」
「カードが配られなかったらお終いだが、カードがある時点ではまだ手段は残っているということだ。もちろん、カードを捨てて、世界から飛びおりることも手段の一つだ。」
「もう、いいわよ。意味わかんない。」
愛梨はふて腐れるように言った。そして、僕の腕を引っ張る。「意味わかんないから、ゲームでもしよう。」
「意味がわからない?」父が顔を歪める。
「いちいち、言い回しが回りくどいのよ。話しも長いし。」愛梨が父に向かって言い放つ。
父はそれを聞いて困ったように眉毛を下げた。そして、少しだけ間を空けて口を開いた。
「寒太郎、愛梨。」と僕達の名前を呼ぶ。
「なに?」反応したのは僕で、愛梨はほぼ無視をした。
「おれが喋るには意味があるんだ。それが、どんな意味かわかるか?」
「さぁ、わからないけど。」僕がそう答えた後に「意味なんかないわよ。ただ、二酸化炭素を無駄に吐いているだけよ。」と愛梨が毒を吐いた。
「世界の誰もの行動は世界に響くんだ。」父は言う。「誰かが落し物をする。持ち主が落としたことも気付かないぐらいたいして価値のないものだ。それを誰か拾う。それだけで、その二人は気付かぬうちに繋がれている。そうやって、世界は響き合っているんだ。」
「面白い考えだね。」僕が言う。
「気付かない繋がりなんて、意味ないし、繋がりともいないんじゃないの?」愛梨は呆れた顔をする。
「気付かない繋がりに、思いもよらないところで、気付いたりしたときには人は感動を覚える。」
「なにそれ?」
「例えば、だ。さっきの落としたものがキーホルダーで持ち主が男だったとする。そして、拾ったのが女だ。女はなんとなく、そのキーホルダーを気に入って鞄に付けていたとする。その二人が合コンで出会ったらどうだ。そのことに気付いた二人はそれを『運命』と呼ぶだろうな。」
「ただの妄想じゃん。」
「ああ、これは妄想だけど、事実は小説より奇なりって言葉があるくらいだ。こんな妄想より奇妙な話はきっとある。」
「なにを根拠にそんなことが言えるわけ?」愛梨が言った。喧嘩腰で挑戦的な言い方だった。
「歴史が語っているんだから間違いないよ。歴史は一つの詩なんだ。」父は喧嘩腰の愛梨を軽やかにかわすかのように微笑んで見せた。
歴史は一つの詩だと父はよく言う。時間が人間を材料に作った規模の大きい詩だと。僕には全く理解ができないが、同じ詩人として親近感が湧くのか父は歴史をよく勉強していた。
「理屈になってないわよ。そんなの。」愛梨が嘆くように言った。
「それで、父さんが喋る理由は結局のところ、どんな理由なの?」
僕がそう言うと、父はよくぞ聞いてくれた、といわんばかりに、にんまりとした表情を浮かべた。
「伝染だ。おれという存在をこの世界に伝染させる為におれは喋る。」
「伝染?」
「誰もがウィルス性の自分というものを持っている。それをより多く他人に移した人間が勝ちだ。」
父は饒舌にテンポ良く喋る。
「だが、ときには移されることも必要だ。自分を持ちすぎると世界が狭くなる。その中でも一番大切なのは、考えることだ。それを放棄した人間は新しい世界に飛び込むことができなくなる。」
「はぁ。」僕は意味がわからないので首を傾げる。
「世界はそうやってできているんだ。誰もが病気みたいな自分という何かを移しあっている。それで時間が歴史という壮大な詩を作る。おれはその詩に大きく貢献したい。」
父は視線をどこか遠くに向けた。それは百年先なのか、千年先なのかはわからなかったが、未来を見つめているように、僕には見えた。
「そんなの傲慢な人間の考えだよ。」愛梨は哀れんだ目で父を見た。だが、父は「人間は自惚れるべきなんだ。」と胸を張った。すると、愛梨は「何を根拠にそんなことが言えるんだか。」と呆れていた。
僕は、そんなやり取りを見ていたら、幻聴が聞こえたことなど、嘘のように思え、どうでもよくなっていた。ようするに、二人に話すのが面倒になり、自分の中でなかったことにした。