美女の力
『幸福時代』と大きな看板が掲げられていた。二五一〇年、世界には幸せが溢れていると言われている。錬金術が地球に導入されてから人の幸せ水準は大幅に上がった、学校で習ったことだ。「不幸じゃなければ、誰だって幸せだ」父がソファに寝そべりながら芸能人の結婚会見で「幸せです。」と目を合わせる二人に毒を吐いていたのは、たしか二年ぐらい前のことだ。
人の波を縫うように歩きながら、そんなことを思い出してした。別に好んで思い出したんじゃない。勝手に蘇ってきたのだ。手をクネクネと結びながら歩く男女はとても幸せそうな顔をしている。灰色のTシャツが黒くなるほど汗を掻いている眼鏡を掛けた肥えた男はとても苦しそうだ。父親に肩に乗る女の子は無邪気に笑っていた。「人を一番に幸せにするのは友の不幸だ」とも父が言っていたことも思い出した。あれは確か、昔付き合っていた女性が死んだと連絡を受けたときだった。涙を浮かべながら言っていた。
僕は特に目標もなく館内を歩いていた。母と愛梨はもう一度ステージを観に行き、父も「芸術を探しに行く」と付いて言った。僕も誘われたが、外は暑いから、という理由で断った。
人波を歩くのにも疲れ、扉の上に小さく『魔法』と書かれた部屋に入った。特に魔法に興味があったわけではなく、深い理由はなかった。ただ、人波を歩く以外のことをしたい、と思ったときに扉が目に入ったから、思わず入ってしまっただけだった。
『魔法はとても優れた技術を持っています』
部屋に入った途端に若い女性の落ちついた声が耳に飛び込んできた。そして、異空間に入ったような錯覚がした。
『魔法はエネルギーだけを使い、ゼロからものを作ることができます。』
室内には若い女性の録音されたアナウンスが響いていた。魔法の説明ではなく、魔法の良いところを箇条書きにした文を一つ一つ読む、そんなアナウンスだった。
「こんにちは。」
スーツ姿に眼鏡を掛けた二十代半ばぐらいの男の職員が僕の存在に気付き嬉しそうな笑顔で駆け寄ってきた。
「こんにちは。」僕は挨拶を返してから、周囲を見回す。「すごい、部屋だね。」
床の黒の大理石が天井に下げられたブラックシャンデリアの光を反射していて、どこか神秘的な空間になっていた。
「これは高級感っていうんだ。」
男の職員は自慢げに言う。
「高級感?」
「最高のサービス、最高おもてなしのことさ。」
「サービス? おもてなし?」
「気配りのことだよ。昔の日本人の高級ブランド店というのを真似てみたんだ。高級というのは中々手の届かないということだ。」
「手の届かない?」
「きっと彼女のようなものだよ。漠然と欲しいと思っていても中々できない。」職員の男は笑う。
「ふーん、でもその割には・・・」と僕はもう一度周囲を見渡す。「人が少ないね。」
部屋にはこの職員の男と少し美人の女性職員と老夫婦一組と孫らしき四、五歳の少年と僕を合わせて六人しかいなかった。少し美人の女性職員はショーケースの前で老夫婦に説明をしていた。少年は魔法に興味はないのか水を得た魚のように大理石を泳いでいた。泳ぎの型はクロールだった。
「難しいんだ。人に興味を持ってもらうというのは。」職員の男は泳ぐ子どもを見て、顔を歪める。
「まぁ、興味のないものほど、つまらないものはないしね。」僕は同感する。だからこそ、興味を持つのは難しい。勉強も同じだ。いくらゲームで勉強しましょう、と工夫をされても勉強自体がつまらなければそんなゲーム自体に興味を持てない。
「来年は可愛い女の子でもたくさん集めるとでもしようかな。」と職員の男は言う。美男美女はいつの時代もみんな興味を持っている、と。
「それじゃあ、ただのキャバクラじゃん。」と言いながらも僕は国語のマドンナ教師を思い出した。彼女の気を引こうと授業が終わる度に彼女に質問に行く男子達の光景だ。ゲームは駄目でも、教えてもらうのが美女なら興味よりも下心が先行してやる気が沸くのかもしれない。
「きっと、その方がきっとお客さんはたくさん来てくれるし、喜んでもらえる」職員の男は自分で言いながら「うん、うん」と頷く。「その方がおれも仕事が楽しくなるし。」と続け「そしたら、おれに彼女ができるかもしれないな。」と勝手に喜んだ。