班長の役割
唯子は鏡には映っていない。姿形がない。見えない。そして、うるさかった。
『ねぇ、ゴキブリと一緒にしたことは許してあげるわ。だから無視をしないで。』
僕は唯子をどう受け止めていいのかわからず、ただ戸惑っていた。唯子の存在と正面から向き合い共に過ごすのか、それとも目には見えないのだから何もないのだと開き直って無視をするのか。僕はとりあえず後者の方がするべき手段として、正しいような気がして、無視をした。
『無視しないでよ。わたしのこと見えるのはあなただけなんだから。』
僕にも見えない、と言いたいのを我慢する。だが、唯子には伝わってしまう。
『見えなくても声は聞こえるでしょ。わたし、あなたとしか話すことできないんだよ。それってすごく寂しいと思わない。』
唯子が僕に訴えかける。
『あなたに無視されたら、わたしはひとりぼっちなんだよ。ひとりぼっちってすごく寂しくて、怖いんだよ。』
唯子が寂しそうに言った。僕はさすがに動揺する。
動揺しながらも、朝食を済ませ、顔を洗い、歯を磨いてから外に出ると修二が家の前にいた。家の近い者同士が学校に集団になって行く、登校班というものがあった。それは、下級生が無事に学校に辿り着く為にあるのか、上級生に下級生を見張らせ責任感を持たせることが目的なのか、僕は知らないがその集合場所が僕の家の前にあるというのはありがたかった。
「お~す。」身長が高く、天然パーマ気味の髪の毛で眼鏡を掛けた修二は玄関から出てくる僕に気付くと笑顔で大きく手を振った。オーバーアクションとも言える手の振り方はひょうきんな仕草だった。
「おはよう。」
あんなに大きく手を振ってくれた修二には申し訳ないが、僕は普通に返す。
「浮かない顔だね。どうかした?」
「いや」と口に出した後に言葉を選んだ。「学校が面倒だなと思い。」と誤魔化す。奇妙な声が聞こえるとは言えなかった。言ったところで誰も信じないし、哀れな顔をされるのは容易に想像できた。
「そうなんだ。でも、テンション上げて行こうよ。久々の学校だよ。」
「まぁ、そうだね。」
「あっ、そうだ。今度、野球しようよ。おれ上手くなったんだ。フライだって三回に一回は取れる。」
「いいね。やろう。」
たわいもない会話をしていると愛梨が玄関から出てきた。
「愛梨ちゃん、おはよう。」修二は先程同様に大きく手を振った。
愛梨は少し戸惑ったものの愛想笑顔を浮かべて「おはよう。」と小さく返した。
「それはなに?」僕は不思議に思い訊ねる。修二は夏休みに入る前までは、こんな挨拶をする男ではなかった。どちらかと言うと、朝の挨拶をするのもどこか照れくさそうにする男だったはずだ。
「いや、おれ班長じゃん。」修二が照れくさそうに言う。この登校班に六年は僕と修二だけだったので、修二が班長、僕が副班長だった。これは阿弥陀くじで決まったことだ。
「夏休みの間に反省したんだよ。」
「反省?」
「おれたちの登校班ってどこか元気なかっただろ。」
「まぁ、そうだったかな。」僕は曖昧に返事をする。確かに元気はなかったような気はしていた。先頭を歩く修二を筆頭に皆が下を向いて歩いているような登校班だった。会話も一つもない。ただ、学校までRPGゲームの歩行のように勇者に黙って付いていくパーティみたいだった。
「だからさ。」修二は軽やかに言う。「おれが元気をあげようかなっと思って。」
「元気をあげる?」僕は修二の突飛な言葉に首を傾げた。
「皆に元気あげるんだ。それが、班長の役割なのかもしれない。」
「学校まで無事に統率をするじゃないのか。」とは言わなかった。
「一人、一人に大きくな声で挨拶をするんだ。『おはよう』って。難しいことじゃない。」修二は誇らしげに言った後「そう思わないか」と同意を求めてきた。
「そうかもしれない。」僕は調子を合わせる。
「やっぱり、そうだよな。」修二は僕の同意で確信を得たように頷いた。
それから、修二は班員が来るたび大きく手を振って挨拶をして迎えた。たじろぐ人間もいれば、愛想笑いを浮かべたり、いぶかしむ表情をしたりと、反応は様々だった。
出発前に「盛り上がって行きましょう。」と大きな声で挨拶をする修二に「たかが登校で何を盛り上がるのだ。」と言う人間は誰ひとりといなかった。
この日の集団登校は劇的な変化は見せなかったが、心なしか、いつもの登校よりも皆上を向いて登校しているように僕には見えた。