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公爵令嬢リリヤの公開処刑の日

作者: 鳥野かや
掲載日:2026/09/05

 帝都の中央広場は、この半年で幾人もの血を吸ってきた。その証に、石畳の隙間には雨でも洗い流せないどす黒い染みがこびりついている。『反逆者』とみなされた者が次々に流した大量の血の痕だ。


 今日、自分もその染みに仲間入りしようとしている。それをわかっていて、リリヤはただ静かに前を見ていた。


 空は晴れ渡っているのに冷たい風が頬を撫で、髪を揺らす。息苦しいのは、首に魔力抑制の金属の首輪を嵌められているからか、あるいは身体の前で両手を縛る手枷の重さを感じているからか。


 広場には公開処刑を見にくるように命じられた帝都の民衆がひしめき合っているのに、そう感じさせないほど彼らはしんと静まり返っていた。リリヤから少しばかり離れた特等席では皇帝が見物している。民衆は、下手に騒いで皇帝に目をつけられることを恐れているのだ。


 リリヤは広場の真ん中に設えられた長い台の片端に立っている。台の反対側、正面から一人の青年がこちらへ弓を引き絞っていた。


 皇帝は、特別憎たらしいと思った相手には弓矢での処刑を命じるのが常だった。一発の矢で人間を楽に殺すのは至難の技だからだ。


 そして、射手として、処刑される者と親しい人間を使うのが常だった。


 リリヤの処刑も例外ではない。


 射手はリリヤの昔馴染みの従者、アランだった。


 いつも穏やかな彼の表情は、今ばかりは泣き出しそうに歪んでいた。色素の薄い銀色の瞳が揺れている。彼は弓の名手だというのに、矢をこちらへ向けるその手もひどく震えていた。肩で息をするように呼吸も荒く、時折息を詰まらせるような様子すら見せる。


 命が尽きかけているのはリリヤだと言うのに、絶望のあまり死にそうな顔をしているのはアランの方だった。


 思わず口の中でつぶやいてしまう。


「そんなにわたしが大切?」


 ええ、わたしも。


 彼とは距離がある。だから聞こえるはずがない。それでも言葉に出せなくて、リリヤは黙って笑顔を作った。


 アランのことは見つめたままだ。約束通り、最期に見るのが彼の顔であるように。


***


 リリヤが一番幸せだった頃の記憶は、いつだってアランと共にある。物心ついた頃から、三つ歳上の彼に面倒を見てもらったのだ。


 公爵家の娘として生まれたリリヤは、帝都ではなく、南方にある父親の居城で育った。日差しは帝都よりもずっと強くて、夏は暑い地域だ。ただ、庭園にある木陰は風が涼しくて心地良かった。


 今でもありありと思い出せる。青々と茂った大樹、降り注ぐ木漏れ日、刈られたばかりの芝生と咲き乱れる花の匂い。


「アラン、見ててね!」


 十年ほど前、リリヤが八歳ほどだっただろうか。あるとき、リリヤは木陰でアランの前に立ってみせた。


「何を見せて下さるんですか?」


 穏やかに尋ねるアランの前で両手を広げ、魔法を教えてくれる家庭教師に習った通りにイメージを膨らませる。木の葉の影を抽出するような、あるいは糸として紡ぎ出すような、そんな感覚。


 リリヤの魔力を織り込んで、影は薄布のような形を得た。重さも厚みもないそれをアランと自分の頭に一緒に被せてしまうと、ぎらついた陽光がかすかに淡くなり、涼やかな空気に全身が包まれる。


「アラン、目が良いのにいつも眩しがってるじゃないの。だから練習したのよ」


 黒髪に黒い瞳のリリヤとは違って、彼の色の薄い瞳は強い日差しに弱くて、すぐに痛くなってしまうのだ。だから、リリヤが最初に覚えた、そして成長してからも一番得意としている魔法は、影の魔法だった。


 ふふん、と得意になって胸を張ったリリヤに、アランは少しの間、目を瞬かせていた。それからぱっと笑顔になる。


「すごいですね! 僕には魔力がないもので見当もつきませんが、きっと難しいのでしょう。ありがとうございます、お嬢様」

「どういたしまして」


 褒めてほしくて頭を突き出すと、アランは笑ってそっとリリヤの髪を梳くように撫でた。リリヤはその手に頭を擦り付けながらねだる。


「じゃあ、今日も本を読んでほしいわ。昨日の続きよ」

「もちろん。お嬢様のおかげで見やすくなりましたから、いくらでもお読みしますよ」


 空いた手でいつもの本を抱え直し、アランは微笑む。リリヤは喜び勇んで大樹の根元に腰を下ろした。


 当時、アランだって十一歳かそこらだった。それでもリリヤの目には、彼は十分に大人びて見えた。ゆっくりと物語を読み聞かせてくれる声が大好きだった。


「……彼女の手を取った騎士はこう言いました。『たとえ世界中を敵に回そうとも、私はあなたを必ずお守りします』……」

「ねえアラン」


 リリヤが形作った影は、布状のまま二人の頭上を覆ったままだった。二人だけの世界に閉じこもっているようで嬉しくて、リリヤはアランの声を遮る。座ったまま彼の肩にしがみつき、顔を下から覗き込むようにして尋ねた。


「アランもそう?」

「はい?」

「アランも、わたしが困ったら助けてくれる? 誰も味方してくれなくても?」

「もちろんですよ」


 それは即答だった。


「何があっても、この身に代えても、僕がリリヤ様を必ずお守りします」


 笑顔は消えて、アランは真剣な顔をしていた。銀色の瞳が瞬きもせずにこちらを見つめる。


 弱い風が吹き、頭上の木の葉を擦り合わせる。その音がなおさら二人の沈黙を強調するようで、息が詰まってしまう。


 リリヤはなんとか、か細い声を絞り出す。どういうわけか彼の顔を見ていられなくて、うつむいてしまった。


「……ありがとう」


*


 リリヤが幼い頃から将来の結婚相手は決まっていた。


 この帝国の皇太子、ミハイル。だから将来は皇后になるのですよ、と、親にも家庭教師達にも言われてリリヤは育った。


 それでも実感がわかなくて、漠然と、ずっとこの南方での暮らしが続くような気がしていた。


 いよいよそうも言っていられなくなったのは、リリヤが十八歳になったときだ。リリヤは帝都の皇宮、ミハイルの元へ移ることになったからだ。


 出立の直前、リリヤはまた庭園の大樹の木陰にいた。そっと幹に手を当てる。過去へ時間が戻ればいいのに、と、ただそれだけを考えていた。


「こちらにおられたのですね。もう出立のお時間ですよ。お迎えの方々がお待ちです」


 背後からやってきたアランに声をかけられて、リリヤは振り返りもせずに答える。


「あなたが探しにきてくれると思った。わたし達、子供の頃はいつもここにいたものね」

「ええ」


 短く答えたアランが息をついた気配がした。


「さあ、お嬢様。せっかくお支度もお済みですのに、汚れてしまいますから」

「……このドレスは窮屈だわ」


 自分の身体を見下ろす。白いドレスに細かな刺繍が全面に入って、とても美しい。最近仕立てたばかりで、身体に合わないはずがない。だというのに、リリヤはこれをまとってから苦しくて仕方がなかった。


 堪えきれなくなって、リリヤは振り向く。陽光の中で眩しそうに目を細めてたたずむアランはすっかり立派な青年になっていた。銀色の瞳は何かを諦め切ったように落ち着いて、ただこちらをじっと見つめている。


 リリヤの姿を目に焼き付けようとするかのようだった。


「行きたくない」


 ぽろりと言葉が漏れてしまった。


「帝都になんか行きたくない。皇太子妃なんて、皇后になるなんてどうだっていい。ミハイル様なんてお会いしたこともないもの」


 言い募るほど声が震えてしまって、リリヤは目を閉じた。そうでなければきっと涙があふれ出してしまうのだ。それでもひと筋だけ、頬を液体が伝っていくのが感じられた。


 ぬるい風が涙を撫でていく。すぐに乾いていってしまえば、今抱いている感情さえ、なかったことにされてしまうような気がする。リリヤは皺も気にせずドレスの生地を握りしめた。


「ずっとここにいたいわ」

「それ以上は……」


 嗜める声を聞きたくない。リリヤは首を横に振って、声を大きくした。


「だってわたし、本当は、ずっと、あなたのことが」

「リリヤ様!」


 唇にちょんと何かが触れた。驚いて目を見開いて、アランがリリヤの唇の前に人差し指を立てていることを理解する。


「いけませんよ」


 アランはこちらを見下ろしている。手袋をしたその手が震えていることに、今になってリリヤは気づいた。


「僕は、お嬢様にお仕えできてこの上なく幸せでした。ご立派になられて、とても嬉しく思っております。あなたの幸せを願っています。ですから、それ以上はもう……」


 ゆっくりと手を下ろしながら、アランは低く囁いた。


「…………僕は身の程知らずな男です。哀れと思うなら、どうか、そこまでにして下さい」


 それが彼の答えだった。


 リリヤは唇を噛んだ。握りしめていた手をゆっくりと胸の高さまで上げて、両手を合わせる。


 祈りのようなその形の中で、ゆっくりと魔力を抽出する。影を編むときよりもずっと小さく、濃密に。


 やがて手のひらの中に、ころり、と小さな鉱物の結晶のようなものが生まれた。


 手を開いて、アランにそれを見せる。


「それは……」


 首を傾げるアランの手を取って、中に結晶を転がし入れる。


「魔力結晶といって、ただわたしの魔力を固めただけのものよ。もう影を作ってあげられないから、少しはアランの助けになればいいと思って。ほら、眩しいとお父様の狩りに着いていくときにも困るでしょう。せっかく、弓が得意なのに」


 そこまで語ってから、リリヤは肩を縮めた。


「……ごめんなさい。もっと綺麗な色や形なら良かったわね」


 リリヤの得意な影魔法を象徴するように色は青黒く、形は鋭利で刺々しい結晶になってしまった。


 それでも、贈りたいと思った。


「今、あなたにあげられるものは、これしかないの」

「……ありがとうございます。大切にします」


 ぐっと結晶を握りしめたアランの手を見ながら、リリヤは自嘲した。


「本当にごめんなさい。わたし、ひどい女だわ」

「まさか! 素敵な女性です」

「あら。ありがとう」


 アランは至極真面目な調子で言っていたから、リリヤは無理やり笑顔を作って彼を見つめた。


「さようなら、アラン」


*


 帝都はリリヤのいた父の居城と気候が違って、寒いところだった。陽光が弱く、日差しが作る影も薄い。時折、子供の頃のように影を編んではみたが、あまりうまくいかなかった。


 だが、うまくいかない原因は、本当に光が弱いせいなのか。あるいはもうリリヤの作ってやる影を必要とする人がそばにいないからなのか。判断がつかなかった。


 とはいえ、皇宮へやってきた当初は、リリヤはミハイルと上手くやれると思っていた。


「よろしく頼むぞ、リリヤ」


 初めて顔を合わせたとき、そう言ってリリヤの手を握った彼は、いかにも果断で行動的な青年だった。空色の瞳から注がれる視線は凍てつくようで、傲慢で、少し恐ろしい。だが同時に、帝国の指導者となるべく育てられたのだということをひしひしと感じさせる。


 リリヤも彼の手を握り返した。


「はい。至らない点も多いと存じますが、ミハイル様の妻としてお役に立てるよう、全力を尽くします」


 ミハイルの方も、物心ついた頃にはリリヤと結婚すると決められていたのだ。リリヤ以上に何もかもを勝手に決められてきた人生だっただろう。リリヤがアランと別れる以上につらい思いだって、してきたかもしれない。


 アランへの感情は墓まで持っていく秘密にして、ミハイルを夫として愛し、支えよう。リリヤはそう心に決めていた。


 歯車が狂ったのは、それからすぐに先帝が急病で崩御した後だった。


 喪に服する期間、正式に結婚もできない。リリヤは宙ぶらりんの婚約者という立場のまま、ミハイルのそばにいた。


 彼は若くて未熟だった。そしてその自覚を持てる程度には頭が回る。だから侮られることを極度に恐れ、思い通りにならないことを臣下に当たり散らすことが増えていった。


 彼が最後の一線を越えてしまった瞬間を、リリヤは見ていた。それは自分が処刑台に送られるちょうど半年前である。


 ミハイルの執務室でのことだった。彼にほんのささいな異論を唱えた文官が、こう口走った。


「恐れながら……先帝陛下のお考えでは、その施策には問題が」


 その瞬間、ミハイルが目の前の机を激しく叩いた。


「お前は父上を盾に私を軽んじるのか! 現皇帝は私だぞ! 私に対する反逆とみなしても……」

「陛下、おやめ下さい」


 リリヤは慌てて止めに入ったが、次の瞬間、ミハイルが即座に手を振り上げた。鈍い音と共に、頬の痛みと頭が揺さぶられる衝撃が襲ってくる。


 殴られた、と理解したのは数秒遅れてからだった。口の中が切れて血の味がする。


 呆然として、熱くなった左の頬を押さえてミハイルに目を向けると、彼は嫌そうに顔を歪めた。


「……他の人間の味方をしておいて、被害者面をするな」

「何をおっしゃっているのですか? わたしは」

「うるさい!」


 凶悪な色を宿してこちらを睨みつける目に、リリヤは立ち尽くすばかりだ。


 どれだけ説得をしても、この人はもう自分の言葉に耳を傾けてはくれないかもしれない。そう直感した。


 あっけないほどにすぐ、例の文官の首が飛んだ。比喩ではなく本当にだ。


 一人殺して歯止めが効かなくなってしまったのか、ミハイルは気に入らない人間を次々に処刑台送りにするようになった。


 先帝の代から仕える老臣、地方の不作を伝えにやってきた使者、果ては嘆願にやってきた市民まで。


 リリヤはその度にミハイルを止め、彼の機嫌が良い日に数人は庇いきることができた。だがその三倍ほどの回数は殴られているだろう。


 誰かは味方をしてくれまいかと根回しを試みてもみたが、皆ミハイルを恐れて、賢い者から皇宮を逃げ出していった。


 中央広場の石畳がすっかり血で変色した頃、ついにそのときはやってきた。


 税軽減の嘆願にやってきた母と子供と城門の前で対面して、ミハイルが激昂したのだ。


「処刑するまでもない。私がここで……!」


 剣を抜いて振り上げた彼の手が、やけにゆっくりと感じられた。母親が子供を庇うように抱きしめたのも克明に見えてしまって、リリヤは声も出ない。


 ほとんど無意識のうち、とっさのことだった。


 リリヤの足元に落ちていた影が、質量も体積もないままに面積だけを増して暴れ出す。帝都へ来てからうまく扱えなかった影の魔法があふれ出して、実体がないはずの影がひらりと宙を舞う。それらは薄布のような形を作るや否や、真っ直ぐにミハイルに向かって伸びた。


 彼の手を絡め取り、剣を奪って影の中に呑み込んでしまってから、リリヤは我に返る。


 腕ごと空っぽの手を影に捕まえられたまま、ミハイルは呆然とリリヤに目を向けた。目を見開いて、すべての表情が抜け落ちたように虚ろな目でこちらを見ている。


「陛下。もうおやめ下さい」


 自分でも驚くほどしっかりした声を発することができて、リリヤはほっとした。同時に、ようやく生気を取り戻したミハイルが取る行動もおおむね予期できてしまう。


 もう何度も見てきた光景だ。


「私に……私に楯突くのか! リリヤ!」


 皇帝暗殺未遂。


 それがリリヤに押し付けられた罪の名だった。


*


 つまるところ、順番が回ってきたのだ。


 地下牢の壁にある嫌な色の染みを眺めながら床に座り込んで、リリヤはぼんやりと考えていた。湿った石の匂いに冷えた空気が肺を満たす。薄暗がりにはもう目が慣れた。手首を繋ぐ鎖が重くて、だらりと垂らしておく以外に何もする気にならない。


 ミハイルを止められなかった。数多くの人間を救えなかった。だからとうとう自分の番が来たのだ。仕方のないことだったのかもしれない。


 そんな諦念が胸を満たしていて、だからリリヤは抵抗せずに捕えられた。大人しくしていたつもりだったが、それでもリリヤの使った影の魔法が恐ろしかったのだろう。首にはごつい金属製の魔力抑制の首輪を嵌められた。


 これではリリヤは魔法を使えないし、外部から魔力のこもった攻撃がなければ破壊はできない。ミハイル自ら得々としてそう語っては、ひどく満足げにしていた。


 リリヤが地下牢に入れられてから何日も経つのに、処刑の日はなかなか決まらない。


 実家に迷惑をかけているのではないかと思うと気がかりだった。リリヤのことは切り捨ててもらって構わない。ミハイルの説得に失敗したのは自分だ。


 そんなことを考えていたある日、食事や見張りの交代とは思えない、複数人の足音が聞こえてきた。遠くから灯りが近づいてきて、通路の壁を照らすのも見える。


 やがて鉄格子の向こうに現れたのはミハイルだった。わらわらと複数人の衛兵を連れて、座っているリリヤを見下ろす。


「リリヤ。お前の処分が決まった」


 彼は久しく目にしなかった機嫌の良さそうな様子で続けた。


「弓矢での公開処刑だ。お前も見たことがあるだろう? 反逆者が中途半端に肩や腹を射抜かれて、失血で死んでいくところをな。言っておくが、いつも通り、外さない限り二本目の矢はない」


 一本の矢で負った傷で、痛みを堪えながらゆっくりと死んでいく者を、確かにリリヤも公開処刑で見たことがあった。


 リリヤの場合、首輪があるから喉を射抜くのは不可能だろう。骨を避けて的確に心臓を射抜き、楽に死なせることができるだろうか。できるとしても相当な弓の名手だけだ。


 まして、射手には処刑される者の親しい人間が指名される。どんな名手でも動揺で手元が狂う。狙った場所に当たるはずがないのだ。


「はい」


 リリヤはミハイルと目を合わせず、床に視線を落として短く答えた。それ以上に彼に応答する気がしなかったのだ。


 その反応が不服だったのか、ミハイルは舌打ちをする。そうして衛兵達に目を向けた。


「お前のための射手ももう用意している。……ほら、来い」


 父親か、兄か。いずれにしても肉親を殺させるなど、申し訳ないことをさせてしまう、と淡々と考えていた。それでも実家の名誉回復ができるなら仕方がない。


 リリヤは謝罪をしようと顔を上げる。


 そのとき衛兵の間から前に押し出されてきたのは、色素の薄い淡い色の髪に、銀色の瞳の青年だった。


 もう別れを告げたはずの、二度と会わないはずだった相手。彼がリリヤを見下ろして、痛ましそうに眉根に皺を寄せる。


「お嬢様」

「……アラン、嘘でしょう」


 驚愕のあまり、思わず声が漏れる。


 リリヤの反応が今度こそ期待通りだったのだろう。ミハイルがくすくすと笑い、がらんとした地下牢に虚しく反響する。


「この男、自分から名乗り出てきたぞ。お前の従者だったらしいな。弓の名手らしいが……恨みでも買っているのか?」

「アラン、あなた、どうして」


 ミハイルの言葉など聞きもせずリリヤは尋ねる。アランはその場に膝をついて、リリヤと視線を合わせた。


「お嬢様にどうしてももう一度お会いしたかったからです」


 鉄格子の隙間から手を入れてリリヤの手を取る。彼の手は温かく、身体の冷え切ったリリヤには熱いほどに感じられた。


 日差しに弱かったアランの瞳が、薄暗がりの中では淡く輝くようにこちらを見つめている。彼は明瞭に告げた。


「ずっとお慕いしておりました」


 リリヤは息を呑む。


 それは、別れのときにアランが意地でも口にしてくれなかった言葉だった。リリヤにも言わせまいとした言葉だった。


 それをこんな局面になって発する。胸が締め付けられるように苦しくて、リリヤはか細い声をこぼした。


「あなた、ひどい人ね……」

「そうかもしれません。僕は、最期の最期にあなたの目に映る存在でありたいのです。せめてそれだけは許していただけませんか」


 言葉の終わりが震えている。アランの方もきっと平静を装っているだけだ。そう思って、リリヤは唇を噛みしめた。


 それでもアランから目を逸さなかったから、気づいたのだ。アランの視線が数秒だけリリヤの首輪に向いて、小さく頷いた。


 リリヤの頭がすっと冷静さを取り戻す。


 アランは何か、リリヤを助け出す手立てを考えてくれているのかもしれない。まさか弓矢で射るときに魔力抑制の首輪を破壊するつもりなのか。


 だがそんなことは不可能だ。アランには魔力がない。この首輪は魔力を含んだ攻撃がなければ破壊できない。ミハイルもそれをわかっていて、アランを処刑人として受け入れたのだろう。


 アランにかつて贈った魔力結晶を矢尻に使えば可能だろうか。だがあんなものを持ち込むことは絶対にできない。持ち物も、服も、すべて調べられるはずだ。矢をすり替えるなどという芸当は無理に決まっている。


 だとすれば、今のは。


「……わかったわ」


 彼の優しさなのだろうか。


 リリヤに希望を持たせ、そして一撃で、何もわからないうちに死なせてやろうという慈悲なのだろうか。


 そこまで考えた上で、リリヤは表情を緩めた。


 何にせよ、二度と会うことはないと思っていたアランとまた会えた。それだけで、リリヤにとっては十分な救いだった。


 少なくともアランがこちらを見つめてくれて、死んでいける。最期の最期にアランを目に焼き付けて逝ける。


 まるで、庭園の木陰で別れたあのときのように。


「ありがとうございます」


 抑えた声で答えたアランが手に力を込める。あっと思う間もなく、リリヤの拘束された両手を鎖ごと持ち上げて、アランは格子の隙間から少しだけ外に引っ張り出した。


 彼が頭を屈め、リリヤの手の甲に唇を押し当てる。


 手のひらよりもずっと熱を持った感触。手の甲を彼の吐息がくすぐる。それは彼の熱情そのもののように思われて、リリヤの心臓が飛び跳ねんばかりに鼓動を鳴らした。


「あ……」


 言葉が出ない。アランに触れているところだけに全身の神経が存在しているような、そこだけが身体の中で生きているような、そんな感覚がする。息を詰めて、リリヤはアランのつむじを呆然と眺めていた。


「つまらん愁嘆場だな」


 ため息まじりにミハイルが吐き捨てる。同時に彼は近づいてきて、アランの肩を横から蹴飛ばした。不意をつかれたアランが床に倒れ、握り合っていた手が引きちぎられるように離れる。


「アラン!」


 リリヤが悲鳴をあげれば、アランは床に尻餅をついたまま無言でミハイルを睨み上げた。ミハイルが不愉快そうに顔をしかめる。


「身の程知らずの従者が。一撃で胸でも射抜けるように祈っておくことだ。でなければお前の手で愛する女を苦しめて殺すことになるぞ。……まあ、それも見ものだがな!」


 言い置いて、ミハイルは背を向けて立ち去っていった。リリヤも彼の背を睨みつけて見送る。それ以外にできることがないのだ。


「ほら、来い」


 同時にアランも衛兵に引き起こされ、連れ出されていく。出ていく刹那、彼は最後にちらりと振り向いた。


「必ず、必ず一撃で終わらせてみせます」


 それは慰めでも何でもなく、確信と自信に満ちた言葉だった。リリヤは微笑んで、彼に頷く。


「ええ。お願いね」


***


 そうして今、アランは紙のように白い顔色でこちらに矢を向けている。それだけでリリヤは悟った。


 きっとアランは、リリヤを助ける何らかの策を練っていて、実行したのだろう。そしてリリヤが地下牢で想定した通り、失敗したのだ。だから万策尽きて、後は楽にリリヤを殺してやることしかできず、震えながらリリヤへ弓を引いているのだ。


 肩で息をしているのは、今にも泣き出してしまいそうだからか。


 仕方がない。アランを責めるはずがない。


 むしろリリヤは申し訳なさすら抱いていた。痛みより苦しみより、死よりも、アランに業を背負わせることが恐ろしい。


 リリヤは微笑んだまま口を開いた。聞こえないことを承知で、口の動きだけで彼ならば読み取ってくれると信じて、つぶやく。


「撃ちなさい」


 アランが目を見開いて、次の瞬間、歯を食い縛った。


 覚悟を決めて息を詰めたのか、彼の震えが収まる。矢が一分の揺らぎもなくこちらを向く。それを正面から見据えて、リリヤは目を逸さなかった。


 恐ろしくないわけがない。気を抜くと手も脚も震え出しそうだ。一歩間違うと恐怖で立っていられないかもしれない。


 それでも、最期の最期にリリヤの目に映りたい、と彼が言った。地下牢で首輪を見つめて、助けようとしている、と伝えてくれた。


 ならば彼を信じて、彼を見つめて死んでやるのが、リリヤにできる最後の愛情表現だ。


 ぎ、と弓が軋んだ音すら聞こえた。それほどの静寂の中で、彼が弓を限界まで引き絞る。


 リリヤもぴたりと静止して、アランを直視していた。


 彼だけに意識が向いて、他のあらゆることが遠ざかっていくような感覚がする。子供の頃、リリヤの作った影の布を被っていたときのように、二人だけの世界に没入したような感覚を抱く。


 だが錯覚は錯覚に過ぎなかった。


 無情に、弦が跳ねる乾いた音が響く。放たれた矢が空を切ってリリヤに迫る。なぜか、何らかの雫がぱっと散ったように見えた。それはアランの汗か、涙か。


 ああ、死ぬ。


 迫る矢をやけにゆっくりに感じる。だからこそ死をまざまざと感じ、それでも目を閉じず、弓を投げ捨てるアランを見つめていた次の瞬間。


 喉元に殴られたような鋭い衝撃が走って、リリヤは息を詰まらせてよろめいた。金属がぶつかった音、それから硬いものにひびが入っていくような嫌な音が響く。


 バキン、というひときわ高い悲鳴をあげて、リリヤの首から半ば砕けた首輪が足元に落ちた。封じられていた魔力があふれ出して、リリヤの足元で影が荒ぶるようにのたうち始める。


「……嘘」


 一体どうやって破壊したのか。


 呆然とした頭でリリヤが考える前に、ミハイルが狂ったような大声で怒鳴ったのが聞こえた。


「奴らを殺せ!」


 はっと現実に引き戻される。


 アランと自分を守るもの、と思い描けば、リリヤの足元から影が凄まじい勢いで膨れ上がった。


 それは実体があるかのように立ち上がり、枝のように幾本ものいびつな曲線でもって処刑台の上を包み込む。その合間を木の葉のような細かな影の破片が埋め尽くしていく。


 それはさながら、影でできた梢の中だった。かつて庭園で二人を日差しから守ってくれた大樹の梢を、無意識のうちにリリヤは形作っていた。


 植物の成長を極限まで速めたような動きで影が陽光を遮り、柔らかな薄暗がりにアランとリリヤの二人だけが包まれる。剣を抜いて台上へ迫ってくる衛兵に対しては、木の枝のように伸ばした影で押し戻す。


 姿を持ってうごめくようでありながらも、影はリリヤが望まない限り実体を持たない。だから、切り裂くことも登ることもできはしないのだ。向けられる刃も矢も、初めから存在しなかったかのように飲み込んでしまう。


 リリヤはふと理解した。


 帝都に移ってから子供の頃のように影をうまく編めなかったのは、きっと、やはり、太陽の光が弱かったからだ。


 だが今、リリヤは自分一人だけの光をようやく取り戻した。


「リリヤ様! ご無事ですか!」


 アランが叫んで、長い台の上を駆け寄ってくる。光に弱いアランの銀色の瞳が、しかし、淡い陽光を映してきらりと輝いた。


 光があれば影が濃くなる。


 だから今なら何でもできる。


 リリヤはこちらからも駆け寄った。


「アラン!」


 影を使って、粘土のように自分の手枷をねじ切る。右手、それから左手。それを足元に放り出して、リリヤは台の真ん中でアランの腕を掴んだ。


「どうして、一体どうやって?」

「以前にいただいた、魔力結晶を」


 言いかけたところで、彼が咳き込んだ。激しくむせる彼の口から青黒い微細な破片が飛び出してくる。さらに、口を押さえた彼の指からは血が滴っていて、リリヤは血の気が引く。


「結晶を吸ったのね! 砕いて……」


 リリヤの贈った魔力結晶を砕いて、肺に吸い込んだのだろう。確かに、経口で摂取するよりも血液に魔力が溶け込むのが早くなるし確実だ。


 そうして、つがえる前に矢尻に血をなすりつけた。飛び散ったように見えた液体はアランの血だったのだ。


 ただ、言葉で言うほど楽なことではない。現に吸い込んだ破片は目に見えるような大きさだ。魔力のない彼が結晶を細かく砕くのは至難の技だっただろう。これが喉や肺に突き刺さると思うとぞっとする。


 だから彼は息が荒かったのだ、と思うと、リリヤの方まで胸が苦しくなった。


「無理をしすぎよ」

「何があっても、この身に代えても、お守りすると約束しました」


 アランはかすれた声で、しかしどこか誇らしげに応じた。彼の顔には微笑みすら浮かんでいて、リリヤは思わずその頬に手を添える。


 そのとき、影の梢の外からミハイルの怒号が響いた。


「ふざけるな! 影を解け、リリヤ! さもなければ……」


 そちらに目を向ければ、いつの間にやらミハイルは腰掛けていた席から広場へ降り立っていた。慌てて距離を取ろうとする観衆の中から、逃げ遅れた一人の小さな少女の髪を掴んで捕まえる。


 少女は甲高い悲鳴をあげた。


「きゃあっ! お母さん! おかあ……」


 その喉に短剣を突き付けて、ミハイルはリリヤを睨み上げた。


「お前が大人しく死ななければ代わりにこの子供に死んでもらう。いや、お前が生きている限り順番にこの広場の人間を殺していく。たとえ全員死ぬとしても!」


 恐怖に静まっていた広場全体がどよめいた。それは衝撃であり、そして怒りでもあった。リリヤとアランの方へと向かってきつつあった衛兵達ですら、表情を引きつらせて顔を見合わせ、ミハイルの方に目を向ける。


「まだ私に楯突くのか、リリヤ!」


 一変した広場の雰囲気に気づかないミハイルだけが、そう怒鳴った。


 リリヤはため息をつく。一度は、どうにか愛そうと思った男だった。その末路がこれだと思うと悲しみすら湧いてきた。


「……そこまで堕ちるのですね」


 ゆっくりと影の梢が開かれ、枝が柔らかく下がって地面を這いつくばっていく。ミハイルはかすかに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「早く奴を殺せ!」


 叫んだ彼の声に、もはや衛兵は誰も従わなかった。ただ彼らはミハイルをじっと見ているだけだ。


「何をしている、奴は……」


 広場の石畳の上、厚みも質量もなく垂れ下がった枝のような影が、にゅるりと滑らかな形に変形する。リリヤの思い描く通り、それは何本もの蛇のような姿になり、群衆の間を縫って石畳を素早く這っていく。


 そうしてミハイルの目の前に突如、鎌首をもたげる大蛇のように伸び上がった。


「何……っ!」


 彼がまともに悲鳴をあげる前に、彼の握る短剣の先端を、影が大口を開けるようにして飲み込んだ。刃を失った短剣の柄を、ミハイルが取り落とす。


 その隙をついて、リリヤは薄布のように形作った影を巻きつけて少女を抱き上げた。ミハイルから引き離し、群衆の元へと送り届けてやる。


 少女が群衆の中に一人の人物を認めて、声をあげた。


「お母さん!」


 母親の元へ戻った少女が無事に抱き上げられたのを見届け、リリヤは安堵して、ミハイルへ向き直った。


「もう終わりです、陛下。おわかりにならないのですか?」


 ミハイルはそれでもまだ傲然とこちらを見上げていた。


「ふざけたことを! 誰か! 奴らを殺せと私が言っている!」


 彼が近くの衛兵を見回す。彼らは剣を抜いてはいたが、もはや構えてすらいなかった。


 一人の衛兵が無言で動いた。すっと剣を上げ、くるりと手を返して、静かに鞘に納める。そうして彼はミハイルに背を向けた。


 誰もその衛兵を咎めなかった。それどころか、全員が同じように剣を納めてその場から逃げ出し始めた。


「は……?」


 呆然とするミハイルの声をかき消すように、群衆の中で誰かが声をあげた。


「奴を殺せ!」


 その途端、堰を切ったように口々に人々が叫ぶ。


「皇帝を殺せ!」

「城門に首を吊るしてやれ!」


 群衆がミハイルの方へ殺到していく。彼のあげた悲鳴はかき消されて、とてもリリヤの元までは聞こえなかった。


 きっと彼は暴君として、この黒ずんだ石畳に染みつく最後の血となる。


 周囲を満たす怒号の中、背後からアランがリリヤの手を掴んだ。


「行きましょう、お嬢様」

「ええ」


 群衆の頭上を超えていけるように、台上から影を延ばすように形作る。リリヤはアランに手を引かれて影の道を駆け出そうとした。


 だが、今もまだアランは時折咳き込んでいて、不規則な呼吸をこぼしている。リリヤは彼を引き止めた。


「アラン」


 彼の頬に手を添え、こちらを向かせる。銀色の瞳と視線を合わせて逸らさないまま、リリヤは顔を近づけて、ひと息に彼を唇を重ねた。


 彼の唇は乾いていて、ただ柔らかさと熱さだけがそこにある。驚いたように彼が身じろぎをするが、リリヤは唇を離さなかった。


 彼の唇の隙間から漏れる呼吸を吸い取り、彼の体内に残る自分の魔力結晶の破片を昇華させて消し去っていく。耳をすませば、ぱきぱきとさらに細かく砕けていく音が聞こえてきた。


 呼吸を共有して、何秒ほど経ったのだろう。


 いきなりアランがリリヤの肩を掴んで身を離した。


「お嬢様、あの」


 色素の薄い彼の耳は、血の気で驚くほど真っ赤に染まっていた。リリヤは血生臭い周囲の状況も忘れて、笑ってしまう。


「あら。少しは楽になったかしら」

「ありがとうございます、いえ、しかしそうではなく」


 はあ、と大きな息をついたアランは、いきなりリリヤの手を掴んで引き寄せた。


 背骨が軋み、息が詰まる。それくらい強く抱きしめられているのだ、と気づいたのは一瞬遅れてからだった。熱い彼の体温が伝わってくる。


「リリヤ様を、お慕いしています」


 うめくような、吐き出すような言葉が耳に届いて、リリヤも彼の背に腕を回した。


「ありがとう。私もあなたを愛しているわ」


 いつの間にやら、リリヤは無意識のうちに影の薄布を形作っていた。かつて子供の頃に本を読んでもらったときのように、淡い影が二人の頭上に被さる。


「さあ」


 ゆっくりと身体を離したアランが、再びリリヤの手を取った。その手のひらの温もりが、リリヤの体温と交わって溶けていきそうだ。嬉しそうに目を細める彼が影の中でも眩しい。


 彼が手を引いてくれるから、リリヤは今度こそ影の道へと駆け出した。


 優しい影の薄布を、ベールのように背後に引きずって。

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