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国王陛下、あなたには退位していただきます。法的根拠を添えて

作者: 藍沢 理

 ヴェルデニア王国、クラウンズホール宮殿の大広間では、水晶のシャンデリアが無数の光を放っていた。金糸の刺繍が施された壁掛けが壁面を飾り、華やかな雰囲気を演出している。


 今宵は、即位一周年記念の舞踏会。

 若干二十八歳の国王である。


 社交界の誰もが、招待を待ち望む華やかな夜。


 貴族たちは色とりどりの衣装に身を包み、楽団の奏でるワルツに合わせて踊り、大広間では笑い声が絶えなかった。


 わたくしは会場の端でグラスを手に佇み、この華やかさが今夜限りで終わることを知っていた。


 いや、正確には「終わらせる」のだ。


 二十四歳。女性。それでいて、わたくしは公爵。


 国王との十年間の婚約が、父の遺志が、そして憲法の尊厳が、今日この場で試される。


 深い栗色のドレスを選んだのは、父が好んだ色だからだ。わたくしの瞳に映るのは、華やいだ貴族たちの姿。十年間もの間、王妃教育を受け、憲法を学び、国家の礎となるべく己を磨いてきた。


 もし憲法裁判所が動けば、次は議会だ。パーラメント・ハウスの平民院と貴族院、その三分の二の賛成を得なければならない。


 婚約当時、アレクサンダー様は礼儀正しい男子だった。真面目で、学問を好み、民を思いやる心を持っていた。弟のヴィクター王子とは対照的に、長子として王位を継ぐ自覚があった。


 けれど、五年間の留学から戻ると、まるで別人になっていた。笑い方が粗野になり、目が冷たくなり、他者を見下す口調に変わっていた。


 父は当時、書斎で首を傾げていた。


『よくない兆候だ。留学先でなにかあったのか』


 その言葉が今も耳に残っている。


 この二年間、違和感を抱きながらも、わたくしは婚約を続けた。いずれ元に戻ると信じて。


 突然、楽団の演奏が止まった。会場がざわめき、視線が壇上に集まる。そこに立っているのは、金髪を整え、青い瞳を輝かせた国王アレクサンダー三世だ。


「余の話を聞いてもらいたい」


 国王の声が響く。わたくしは背筋を伸ばして覚悟を決めた。


「エレノア・マディソン公爵、前へ出よ」


 会場の視線が一斉にわたくしへ向けられた。


 それとは別に、ざわめきが大きくなる。壇上へ上がっていく見慣れない女性へ視線が注がれた。彼女は国王の隣に立って、会場を見渡した。ブロンドの巻き髪、青い瞳、華やかな笑みを浮かべていた。


「エレノア。余は本日、汝との婚約を破棄する」


 会場が息を呑んだ。けれど、わたくしは動じなかった。予感はあった。この半年、国王の態度が変わっていたことに気づいていた。父の書斎で学んだ憲法の条文が脳裏に浮かぶ。


「理由をお聞かせください、陛下」


 知らない振りをして問いかける。国王はわたくしを見下しながら鼻で笑った。


「理由か。簡単だ。余は真実の愛を見つけたのだ。こちらはイザベラ・ロメロ嬢。余の心を射止めた女性だ」


 イザベラと呼ばれた女性が、優雅にお辞儀をした。会場がざわめく。貴族たちは興奮と困惑の入り混じった表情で、この場面を眺めていた。



 それはそうだろう。国王陛下が公爵であるわたくしとの婚約を一方的に破棄し、別の女性を王妃に迎えるとのたまったのだから。



 感情に流されてはいけない。今必要なのは、論理と法だ。


「陛下、それは憲法第十七条に違反しております」


 明瞭に告げたところで、会場が静まり返った。


「憲法……だと?」


 眉をひそめる国王。


「憲法第十七条、国王の婚姻は国家行為とし、恣意的な婚約の破棄または変更を禁ず。恣意的とはつまり、個人的な感情のみで決めることを意味します。陛下の行為は、この条文に明確に抵触しております」

「余は国王だぞ。憲法など――」

「憲法第三条、何人も憲法の上位に立たず、国王といえども憲法に従う義務を負う。陛下も例外ではございません」


 暗記した条文を、一字一句正確に述べたところで、会場がさらに静まる。貴族たちは固唾を呑んで、この対峙を見守っていた。


 その時、国王の後ろから痩身の男が進み出た。ロバート・ハリス宮廷顧問官だ。黒いローブに身を包み、刺すような目つきでわたくしを見つめている。


「お待ちください、エレノア・マディソン閣下。憲法は確かに存在しますが、その解釈は時代と共に変わるものです。百五十年前の条文を文字通りに適用することが、果たして現代にふさわしいでしょうか」


 会場がどよめく。わたくしは深く息を吸って気持ちを落ち着ける。反論が来ることは予想していた。


「顧問官のおっしゃることは、憲法の恣意的な解釈に他なりません。条文の意味が明確である以上、解釈の余地はございません」

「しかし、慣習法というものがあります。百五十年間、国王の私的行為が憲法裁判所で審査されたことは一度もない。これは、国王の行為が憲法の制約を受けないという慣習が確立されたことを意味します」


 ハリスの反論は巧妙だった。会場の空気が揺れる。わたくしは落ち着いて応じた。


「それは単に、誰も異議を唱えなかっただけのことです。前例がないことで違憲性がない、との証明にはなりません」

「では、エレノア・マディソン公爵。あなたが仮に訴訟を起こしたとして、判決を国王陛下が受け入れない場合、どうなさるおつもりですか? 憲法裁判所に強制力はございません」


 ハリスは冷笑を浮かべる。再び会場が息を呑む。わたくしはこの問いを待っていた。


「憲法第五十一条、憲法裁判所の判決は最終的かつ絶対であり、何人もこれに従わなければならない。陛下も、例外ではございません。そして憲法第五十二条、軍は憲法に従う義務を負う、と明記されております」


 会場がざわめく。軍の話が出たことで、緊張が高まった。


「つまり、判決を無視なさった場合、軍は動きません。それは国王陛下ご自身が、法の支配を拒絶したことになります」


 国王の顔が紅潮した。ハリスも言葉を失った。わたくしは冷静に続ける。


「恣意的な婚約破棄とは、憲法制定者が特に警戒した行為でございます。第一に、正当な理由なく一方的に破棄すること。第二に、相手方の同意を得ずに破棄すること。第三に、議会の承認を経ずに破棄すること。そして第四に、個人的感情のみを理由とする破棄。陛下の行為は、残念ながら、これら全てに該当いたします」

「だから何だと言うのだ」


 国王が苛立った声を上げた。肩を震わせたイザベラが不安そうに国王の袖を引く。


「では、憲法裁判所で法的判断を仰ぎましょう」わたくしはできるだけいい笑顔を作った。「繰り返しますが、憲法第五十一条、憲法裁判所の判決は最終的かつ絶対であり、何人もこれに従わなければならない。陛下も例外ではございません」


 国王の顔がさらに紅潮したが、何も言い返せなかった。ハリスが何か言おうとしたが、言葉が出てこない。


 わたくしは優雅にお辞儀をして、会場から退出した。

 扉が閉まった途端、背後で貴族たちのざわめきが大きくなった。歴史的な瞬間を彼らは目撃したのだ。





 翌朝、自宅である、マディソン公爵邸の書斎にて。


 古い革の匂いと、紙の香りが鼻をくすぐる。書物をめくる音だけが静寂を破る。朝の光が窓から差し込み、父の遺した膨大な蔵書の背表紙を照らしていた。


 わたくしは父の机に座り、憲法の条文を再確認していた。机の上には訴状の草案が広げられている。インク壺とペンの重みが、これから始まる戦いの重さを物語っていた。


 父上、わたくしは正しい道を歩んでおりますでしょうか。


 心の中で問いかける。答えは返ってこない。けれど、父ならこう言うだろう。『憲法は、権力者の専横(せんおう)を防ぐ最後の砦だ。決して諦めるな、エレノア』と。


 扉がノックされ、侍女頭のクララが入ってきた。白髪混じりの髪を丁寧に結い、優しい表情でわたくしを見つめる。


「公爵閣下、これを」


 クララが手渡したのは、黒い革装の分厚い帳簿だった。


「これは?」

「先代様の書斎の奥、秘密の引き出しから見つけました。閣下に見ていただくべきだと思いまして」


 帳簿を開く。父の筆跡だ。最初のページには「王家の憲法違反記録」と書かれていた。ページをめくると、日付と共に詳細な記録が続いている。五十年分、いや、それ以上に及んでいた。


「父上……」


 喉が詰まった。父はこれほどまでに記録を残していたのか。


「閣下……わたくしは、先代様があの日、何かに怯えていらっしゃったような気がしてなりません」


 顔を上げた。


「怯えていた、ですか?」

「あの日の朝、書斎での仕事前、何度も窓の外を確認なさっていました。まるで誰かに見張られているように」


 クララの声が震えた。帳簿の最後のページを開くと、父の遺言が記されていた。


『エレノア、もしお前がこれを読んでいるなら、私はもう生きていないのだろう。この記録を使え。王家の専横を止めるために。憲法の支配を取り戻すために。お前ならできる。だが、気をつけろ。影が迫っている』


 涙が一筋、頬を伝ったけれど、すぐに拭った。泣いている暇はない。


「クララ、ちょっといいかしら。マーカス・ウェストン議長、ソフィア・チャン判事、ダニエル・リー弁護士に連絡を。緊急会議を開きます」

「かしこまりました」


 クララが部屋を出ていく。わたくしは帳簿を握りしめ、決意を新たにした。


 父上、わたくしがあなたの遺志を継ぎます。そして、真実を明らかにします。





 夕刻、わたくしの書斎に三人の人物が集まった。


 マーカス・ウェストン平民院議長は白髪交じりの髪を撫でつけ、鋭い眼光でわたくしを見つめていた。


 ソフィア・チャン憲法裁判所判事は黒髪を後ろで結い、端正な顔立ちに緊張の色を浮かべている。


 ダニエル・リー弁護士は眼鏡を押し上げ、分厚い法典を抱えていた。


 低い声でマーカスが口を開く。


「エレノア様、まずは昨夜のお見事な対応に敬意を表します。しかし、これは容易な戦いではありません。国王を相手にした訴訟など、前例がない」

「前例がないことこそ、意味があるのです」


 わたくしが黒い帳簿をテーブルに置くと、三人とも困惑の表情を浮かべた。


「これは?」


 ソフィアが手に取り、ページをめくった途端、表情が変わる。


「これは……セオドア様の……」

「父の遺産です。五十年分の王家の憲法違反が、全て記録されています」


 マーカスが深く息を吐いた。


「これがあれば……いや、しかし」

「最後の切り札として温存しましょう」わたくしは冷静に告げた。「まずは憲法第十七条違反のみで勝負します。これ以上の情報を出せば、相手が警戒し、証拠隠滅を図る可能性があるので」


 ダニエルが頷いた。


「賢明な判断です。訴状の請求内容は三つ。第一に婚約破棄の無効確認、第二に国王の憲法違反行為の審査、第三に退位勧告の合憲性確認」

「議会の状況は?」


マーカスが資料を広げた。


「現状、改革派が四十パーセント、国王派が三十五パーセント、中立が二十五パーセント。三分の二を獲得するには、中立派の大半と、保守派の一部を説得する必要があります」

「保守派の切り崩しは可能ですか?」


 わたくしの問いに、マーカスの目が鋭くなった。


「ジュリアス・オコナー枢密顧問官が鍵です。彼は法の支配を理解しています。彼が動けば、穏健派保守議員が十五名ほど賛成に回るでしょう」

「もし陛下が退位された場合、王位継承順位はどうなりますか?」


 ソフィアが問うと、マーカスが即座に答えた。


「第二王子、ヴィクター・フィリップ殿下です。彼は学問を好み、憲法を尊重する姿勢を持っています。兄とは正反対の性格です」

「それは……国にとって希望ですね」


 昔の第二王子を思い出しながら、わたくしは思わず呟いた。


 ソフィアが口を開く。


「実は、前例がない、ということを恐れる声も多いわ。加えて二十年前、ある改革派議員が国王の行為を批判したところ、スキャンダルを暴露され、社会的に抹殺されました。以来、誰も国王に逆らえなくなった」


 書斎が重い空気に包まれる。


「その恐怖を乗り越えなければならない」


 わたくしはの言葉に、ソフィアが続く。


「憲法裁判所の状況もお伝えしますわ。九名の判事のうち、私を含む改革派は一名のみ。中立派が三名、保守派が五名。しかし、保守派の中にも法理論を重視する者がいます。ホワイト長官、スミス判事、ブラウン判事は説得可能です。憲法裁判所は迅速性を重視しますから、判決は一週間以内に出るでしょう」

「それでも六対三が限界か……」


 マーカスが唸る。


「十分です」わたくしは立ち上がって続ける。「訴訟、議会工作、世論誘導。この三本柱で戦います。ダニエルさん、訴状の作成を。マーカス議長、改革派の結集を。ソフィア判事、憲法裁判所内での根回しを。わたくしは世論を味方につけます」


「了解しました」


 三人が同時に頷いた。


 会議が終わり、マーカスとソフィアが帰っていく。ダニエルだけが残り、わたくしと共に訴状の作成に取り掛かった。


 夜が更けていく。ペンを走らせながら、わたくしは父の言葉を思い出していた。


『憲法は権力者の専横を防ぐ最後の砦だ。決して諦めるな、エレノア』


 諦めません、父上。





 編集長ナタリア・ペトロフ。彼女は赤毛を後ろで束ね、シャツの袖を捲り上げると、机に向かった。「これほどのスクープは滅多にないわ」と呟きながら、勢いよくペンを走らせ、一気に記事を書き上げた。


 訴状の提出から三日後、ヴェルデニア・タイムズの一面に、わたくしの訴訟が掲載された。


『これは個人的怨恨ではない。法の支配を巡る戦いだ』


 見出しの下には、憲法第十七条の全文と詳細な解説が続いていた。街のあちこちで人々が新聞を手に議論し、憲法の条文を引用していた。





 クラウンズホール宮殿の執務室で、アレクサンダー三世は机を叩いた。


「あの女め! どういうつもりだ!」


 隣に立つロバート・ハリス宮廷顧問官は、痩身を黒いローブに包み、能面のような表情を浮かべていた。


「陛下、落ち着いてください。マディソン公爵の訴訟など、取るに足りません」

「取るに足りない? 街中が憲法だの法だのと騒いでいるぞ!」


 ハリスは冷たい声を放つ。


「では、対抗策を講じましょう。御用新聞を使い、公爵の評判を落とすのです。そうですねぇ……公爵の野心、国王への反逆、そういった記事を書かせましょう」

「それで済むのか?」

「世論は操作できるものです。ただ、問題は憲法裁判所です」


 ハリスの目が細くなった。


「ソフィア・チャン判事が訴状の受理を決定しました。あの女は厄介です」

「妨害しろ」

「既に手は打っています。しかし、判事への直接的な圧力は難しい。憲法第五十一条により、判決は絶対ですから」

「軍はどうなのだ?」


 アレクサンダーが苛立った声で尋ねた。


「グラント将軍は……」ハリスは言葉を選ぶ。「先代陛下に見出された男です。憲法の重要性を叩き込まれていますので、おそらく軍を動かすのは難しいでしょう」

「使えぬ奴だ」


 国王は舌打ちした。


 ノックも無しに扉が開き、イザベラが駆け込んできた。青い瞳には涙が浮かんでいた。


「陛下! 街の人々が、わたしを悪く言うのです! あの女を黙らせてください!」


 アレクサンダーはすぐに立ちあがって、イザベラを抱きしめた。


「心配するな、イザベラ。余が何とかする」


 ハリスは二人を冷ややかに眺めていた。イザベラの目が一瞬、ハリスを睨む。憎悪に似た感情がその瞳には宿っていたが、すぐに消えた。


 ハリスの唇がわずかに歪んだ。





 ジュリアス・オコナー枢密顧問官の私邸。そこでは、白髪の老人が書斎で古い手紙を読み返していた。先代国王の遺言。十年前、国王アレクサンダー二世が崩御する直前に託されたものだ。


『奔放な息子が道を誤ったとき、誰かが正さねばならぬ。ジュリアス、息子に憲法を守らせてくれ。さもなくば王家に、ひいてはヴェルデニア王国に未来はない。頼んだぞ』


 オコナーは深く息を吐いた。エレノア・マディソンの行動は、法に基づいた正当なものだ。前例がなかろうとも、アレクサンダー三世の暴走は、もはや看過できない。


 彼にはもう一つ気になることがあった。五年前、皇太子の留学中、奇妙な報告があったのだ。皇太子の周囲に、素性の知れない人物が取り入っていたという。


 あの頃から皇太子の手紙の内容が変わった。最初は学問や外交について真面目に書いていたのに、次第に権力や特権について語るようになった。誰かに吹き込まれたような変化だった。


 具体的な証拠はない。疑念は疑念のまま、今も胸の奥にしまわれている。


 翌朝、オコナーはマディソン公爵邸を訪れた。





 執事から来客があると聞いた。彼は父の書斎で迎えるのがいいとのことで、わたくしはそこで待っていた。


 ノックのあと扉が開く。入ってきたのは、ジュリアス・オコナーだ。


「枢密顧問官閣下、ようこそおいでくださいました」

「エレノア様、単刀直入に申し上げます。私は貴女の訴訟を支持します」


 思わず目が丸くなる。


「それは……」

「先代陛下の遺言をお読みください」


 オコナーが懐から取り出した手紙を受け取る。これは先代国王、アレクサンダー二世の遺言状。

 顔を上げてオコナーへ視線を向ける。


「恐縮ですが、これを裁判で使わせていただいてもよろしいですか?」

「そのつもりでお持ちしました。先代陛下の願いですから」


 オコナーは立ち上がった。


「穏健派の保守議員から、十五名を説得します。彼らは国王に忠実ですが、憲法をないがしろにすることは望んでいません」


彼は窓辺に近づいて再び口を開いた。


「ただ、一つだけ申し上げておきます。留学中に何かが起きました。皇太子は、あの頃から変わったのです」


 わたくしが感じていたことと同じ。彼もそう感じていたのだ。


「具体的に何が起きたのですか?」

「分かりません。ただ、誰かの影響があったことは確かです」


 オコナーは一呼吸置いて続けた。


「先代陛下は、わたしにこう仰っていました。『もし長男が道を誤り、元に戻れなかったら、次男のヴィクターに託せ』と。ヴィクター王子は温厚で、憲法を重んじる方です。大学で法学を学び、兄とは対照的な人物です」

「ヴィクター王子は、今どちらに?」

「郊外の別邸で研究生活を送っておられます。王宮の騒動から距離を置いておられるのです」


 その言葉が脳裏に刻まれた。


「ありがとうございます、閣下。貴重な情報です」


 オコナーが去った後、わたくしは天井を眺めながら、思わず呟いていた。


「誰かの影響、ねぇ」





 憲法裁判所、正義の館。荘厳な石造りの建物は、百五十年前の市民革命を記念して建てられたものだ。大法廷には、貴族、議員、市民が詰めかけていた。傍聴席は満員で、立ち見の人々が廊下にまで溢れている。


 わたくしは弁論席に立った。ダニエルが隣で資料を整理している。対面には、ロバート・ハリス宮廷顧問官が冷たい目でわたくしを睨んでいた。


 裁判長席に九名の判事が着席する。中央にはホワイト長官、その両脇にスミス判事とブラウン判事。ソフィア判事は左端に座っていた。


 傍聴席を見渡すと、イザベラが隅に座っていた。国王の隣ではなく、一人で。青い瞳には、決意めいたものがあった。


「開廷します」


 ホワイト長官の声が響くと、会場が静まり返った。


「原告、エレノア・マディソン。被告、ヴェルデニア王国、国王アレクサンダー三世。本件は憲法第十七条に基づく婚約破棄の無効確認訴訟です。まず、原告側の弁論を許可します」


 わたくしは深呼吸をした。そして、話し始めた。


「裁判長、並びに判事の皆様。わたくし、エレノア・マディソンは、本日ここに国王陛下の婚約破棄行為が憲法第十七条に違反することを立証いたします」


 大法廷がざわめく。わたくしは続けた。


「まず、憲法第十七条の立法趣旨についてご説明いたします。百五十年前、市民革命の際、時の国王が政略結婚を私的都合で破棄し、国際問題に発展した事件がございました。憲法制定者たちは、この教訓から『国王の婚姻は国家行為である』と明記し、恣意的な破棄を禁じたのです」


 ホワイト長官が頷いた。わたくしは資料を開いた。


「恣意的な婚約破棄の定義は、憲法制定会議の議事録に明確に記されております。第一に正当な理由なく一方的に破棄すること。第二に相手方の同意を得ずに破棄すること。第三に議会の承認を経ずに破棄すること。第四に個人的感情のみを理由とする破棄。国王陛下の行為は、これら全てに該当いたします」


「異議あり!」ハリスが立ち上がった。「国王陛下の婚姻は私的な事柄であり、憲法の規制対象ではありません」


「却下します」ソフィアが冷たく言った。「憲法第十七条は明確に『国家行為』と規定しております。被告側の主張は根拠を欠きます」


 ハリスが歯噛みするところを見ながら、わたくしは続けた。


「さらに申し上げます。国王陛下が破棄の理由として挙げたのは『イザベラ・ロメロ嬢への恋愛感情』でした。これは完全に私的な理由であり、国家的正当性を欠きます。わたくしとの婚約は十年前、両家及び議会の承認を経て成立した国家行為でございます。これを私的感情で覆すことは、憲法の根幹を揺るがす行為です」


 スミス判事が前のめりになる。


「原告、具体的な被害について述べてください」


「はい。わたくしは十年間、王妃となるべく教育を受けてまいりました。国家の礎となるため、私生活を犠牲にし、学問に励み、外交儀礼を習得しました。それら全てが、国王陛下の一言で無に帰したのです」


 まずい。声が震えた。踏ん張りどころだ。そう思って、すぐに平静を取り戻した。


「しかし、わたくしが訴えておりますのは私的な損害ではございません。憲法第三条『何人も憲法の上位に立たず、国王といえども憲法に従う義務を負う』とあります。この原則が崩れれば、立憲制国家は崩壊し、旧態依然とした専制国家へ逆戻りです。これは国家の危機でございます」


 わたくしはオコナーから預かった手紙を取り出した。


「これは先代国王陛下から、ジュリアス・オコナー枢密顧問官への遺言です」


 手紙がホワイト長官に渡される。長官が読み上げた。


『奔放な息子が道を誤ったとき、誰かが正さねばならぬ。ジュリアス、息子に憲法を守らせてくれ。さもなくば王家に、ひいてはヴェルデニア王国に未来はない。頼んだぞ』


 場がどよめいた。ブラウン判事が身を乗り出す。


「これは……先代陛下ご自身が、憲法の重要性を認識しておられたということですか」

「その通りでございます」わたくしは頷いた。「先代陛下は、王権の濫用が王家だけではなく、この国を滅ぼすことをご理解されておりました。わたくしが求めておりますのは、この遺志を継ぐことです」


 大きく息を吸って続ける。


「では、このような重大な憲法違反に対し、憲法はどのような措置を用意しているのでしょうか」


 大法廷を見渡してから続ける。


「憲法第二十四条は、国王への最終的な抑止力を規定しております。『国王が憲法に違反し、かつ議会の三分の二以上の賛成を得た場合、退位を勧告できる』と。つまり、国王の地位は絶対ではございません。憲法に従う限りにおいてのみ、その地位は保証されるのです」


 ざわめく法廷が静まるまで待つ。


「わたくしが本訴訟で求めておりますのは、第一に婚約破棄の無効確認、第二に国王の憲法違反行為の確認、そして第三に、この退位勧告制度の合憲性の確認でございます。これは威嚇ではございません。憲法が定めた、正当な手続きです」


 弁論席から進み出る。


「裁判長、並びに判事の皆様。これは一人の女性の怨恨ではございません。法の支配を守るための戦いです。どうか、憲法に基づいた正当な判断を下してください」


 大法廷が静まり返った。やがて、傍聴席から拍手が聞こえてきた。一人、また一人と拍手する者が増え、やがて大法廷全体が拍手に包まれた。


「静粛に!」


 ホワイト長官が木槌を叩いた。拍手が止まる。


「被告側、反論をどうぞ」


 ハリスが立ち上がった。


「裁判長、原告の主張は法理論としては整合性があるかもしれません。しかし、現実を無視しております」


 彼は冷静に続ける。


「国王陛下は超越的存在であり、憲法の制約を一定程度緩やかに解釈すべきです。慣習法という概念があります。百五十年間、国王の行為が憲法裁判所で審査されたことはありません。これは、国王が憲法の通常の適用から一定の距離を置く存在であることの証左です」

「根拠は?」


 ソフィアが鋭く問うた。


「慣習です。長年にわたる不作為が、法的な意味を持つのです」

「それは単に、誰も異議を唱えなかっただけではありませんか?」


 ソフィアの言葉にハリスが一瞬、言葉を詰まらせた。


「さらに申し上げます」ハリスはソフィアに答えずに続けていく。「仮に原告の主張を認めれば、前例を作ることになります。今後、国王の行為が常に憲法裁判所の審査対象となる。これは王制の根幹を揺るがす危険な判断です」


 保守派のウィルソン判事が頷くと、会場がざわめいた。このままではハリスの主張が受け入れられてしまう。わたくしは立ち上がった。


「異議があります」

「どうぞ」


 ホワイト長官が許可した。


「前例を恐れることこそ、法の支配を否定することです。憲法第三条は明確に『国王といえども憲法に従う』と規定しております。この条文が存在する以上、国王の行為も審査対象となるのは当然です」


 一呼吸置いて続ける。


「被告側は『前例がない』とおっしゃいますが、それは単に、これまで誰も勇気を持って立ち上がらなかっただけのことです。二十年前、改革派議員が国王の行為を批判したところ、スキャンダルを暴露され、社会的に抹殺されました。この恐怖が、皆を沈黙させてきたのです」


 会場が静まり返った。


「憲法は、そのような恐怖から国民を守るために存在します。前例がないからこそ、今回この法廷で判断を下すべきなのです」


 ハリスが何か言おうとしているが、もごもごして言葉が出てこない。


「憲法第三条は何のために存在するのですか? 被告側はこれに答えてください」


 ソフィアが再び問うた。


「それは……理念を示すものであり、実際の運用とは異なります」

「理念? 憲法は理念ではなく、法でございます。法は守られなければ意味がありません」


 ホワイト長官が手を上げた。


「被告側、具体的な法的根拠を示してください。感情論や慣習論ではなく、条文に基づいた反論を」


 ハリスは答えられなかった。顔が青ざめ、資料を繰っているが、何も見つからない。


「被告側の反論が不十分と認めます」ホワイト長官が続けて宣言した。「本日の審理はここまでとします。憲法裁判所は迅速性を重視いたしますので、判決は一週間後に言い渡します」


 木槌が叩かれ、審理が終了した。わたくしは深く息を吐いたところで、ダニエルが肩を叩いた。


「完璧でした、エレノア様」

「まだ判決が出ていません。油断は禁物です」


 最後まで油断はできない。



 憲法裁判所の裁判官室では、九名の判事が評議を行っていた。


「諸君の意見を聞きたい」


 ホワイト長官が口を開いた。


「ソフィア判事、まず貴女から」

「エレノア・マディソンの主張は、法理論として完璧です。憲法第十七条は明確であり、国王の行為は違反に該当します」


 保守派のウィルソン判事が反論した。


「しかし、国王を裁くなど前例がない。これは危険な判断だ」

「前例がないことが、判断を避ける理由にはなりません」


 スミス判事が口を開く。


「憲法は権力者を制約するために存在します。国王も例外ではありません」


 ブラウン判事が頷いた。


「わたしも同意します。これは憲法裁判所の存在意義を問う事件です。ここで逃げれば、憲法裁判所は永遠に機能しないでしょう」


 保守派のテイラー判事が口を開いた。


「わたしは国王を支持してきた。しかし、法の支配は守らねばならない。エレノア・マディソンの主張に賛成する」


 デイヴィス判事も頷いた。


「先代国王の遺言は重い。わたしも賛成に回る」


 ホワイト長官が深く息を吐いた。


「では、挙手にて投票を行う。エレノア・マディソンの請求を認めるか否か」


 一人ずつ手が上がっていった。



 その夜、王宮では緊急会議が開かれていた。アレクサンダー三世は激昂していた。


「軍を動かせ! 憲法裁判所を包囲しろ!」


 グラント将軍は冷静に答えた。


「陛下、それは不可能です」

「なぜだ! 余は国王だぞ!」

「軍は国家に忠誠を誓っています。国王個人にではありません」


 グラントの声は静かだが、揺るぎなかった。


「憲法第五十一条により、判決は絶対です。軍法第一条により、軍は憲法に従います。わたしがこれに逆らえば、それは反乱です。先代陛下は、わたしにこう仰いました。『軍は国王ではなく、国家に忠誠を誓え』と。わたしは、その教えを守ります」


 アレクサンダーは憤怒の形相で机を叩く。


「貴様も余を裏切るのか!」

「裏切るのではございません」グラントの毅然たる態度は崩れない。「わたしは国家への忠誠を守るのです」


 アレクサンダーはガックリと肩を落とした。



 一週間後、正義の館の大法廷は再び満員となった。わたくしは弁論席に立ち、判決を待っていた。心臓が激しく鼓動している。


 九名の判事が着席したところで、ホワイト長官が立ち上がった。


「判決を言い渡します」会場が静まり返った。「原告エレノア・マディソンの請求を認めます」


 会場がどよめいた。歓迎されている声が多い。わたくしは目を閉じて、ゆっくりと息をはき出した。


「被告アレクサンダー三世の婚約破棄行為は、憲法第十七条に違反し、無効であると認めます。また、本件は憲法第三条に定める『国王といえども憲法に従う義務』に照らし、重大な憲法違反と判断します」


 ホワイト長官が判決文を読み上げていく。会場は歓声と怒号に包まれた。


「静粛に!」


 木槌が叩かれる。


「本件における国王の憲法違反行為は、憲法第二十四条が定める『国王が憲法に違反し、かつ議会の三分の二以上の賛成を得た場合、退位を勧告できる』との要件を満たす重大なものであると認定します。以上」


 会場が爆発した。拍手、歓声、怒号が入り乱れる。わたくしは深くお辞儀をし、弁論席を離れた。


 その時だった。


「認めぬ!」


 国王アレクサンダー三世が傍聴席から叫んだ。彼は大法廷に乱入し、壇上へ駆け上がろうとした。警備員が取り押さえる。


「余は国王だぞ! こんな判決など認めぬ!」


 会場が騒然となった。わたくしは冷静に国王を見つめた。


「陛下、憲法第五十一条をお忘れですか。判決は絶対です」


 国王の顔が真っ赤に染まった。だが、何も言い返せなかった。警備員に連れ出されていく国王の姿を、わたくしは無表情のまま見送った。


 これで終わりではない。まだ議会が残っている。



 その夜、王宮の執務室で、アレクサンダー三世は怒り狂っていた。


「ハリス! 何とかしろ!」


 だが、ハリスの姿はなかった。代わりに、グラント将軍が扉を開けて入ってきた。


「陛下、宮廷顧問官ロバート・ハリスを逮捕いたしました」

「なん……だと?」


 アレクサンダーは目を見開いた。


「イザベラ・ロメロ嬢から密告がありました。ハリス顧問官の陰謀に関する証拠を、彼女が収集していたのです」


 グラントが証言書を差し出す。アレクサンダーはそれを読むと、顔が青ざめていった。


「これは……」

「五年前、陛下が留学中のことです。そのときハリスは陛下に近づきました。陛下を洗脳し、暴君に仕立て上げるために」


 グラントの声は冷静だった。


「目的は、陛下を退位させ、王弟のヴィクター殿下を即位させること。人のいいヴィクター殿下を操り、ハリス真の権力を握るつもりだったのです」

「そんな……」

「イザベラ嬢も最初はハリスの駒でした。しかし、陛下と過ごすうちに、本当に陛下を愛するようになった。それでハリスを裏切った。と、そのような経緯です」


 アレクサンダーは震えていた。


「イザベラは……どこにいる……」

「彼女は今、証人保護のため、別の場所にいます」


 グラントは続けた。


「セオドア・マディソン公爵の死も、ハリスが指示したものです。全ての証拠が揃っています」


 アレクサンダーはペタリと床に座り込んだ。



 判決の翌日、王国議会の議事堂であるパーラメント・ハウスで緊急本会議が開かれた。


 選挙で選ばれる平民院と、世襲貴族で構成される貴族院の全議員が集まり、議場は満員だった。


 わたくしはその模様を傍聴席から眺めていた。


 マーカス・ウェストン平民院議長が演壇に立った。


「諸君、本日は歴史的決断を下す日である。憲法第二十四条に基づき、国王アレクサンダー三世への退位勧告決議案を提出する」


 議場がざわめいたところで手を挙げ、マーカスは続けた。


「憲法裁判所の判決により、国王陛下の憲法違反は明白となった。さらに、宮廷顧問官ロバート・ハリスの陰謀も明らかになった。国王陛下は、ハリスに操られ、暴君に仕立て上げられたのです」


 議場が静まり返った。


「しかし、それでも国王陛下は憲法に違反した。その責任は免れません。これ以上王位にとどまるべきではない」


 貴族院議長エドワード・ブラックウェルが立ち上がった。


「待て、マーカス議長。国王を退位させるなど、前例がない」

「前例がないことが、行動しない理由にはなりません」


 マーカスは反論する。


「憲法は明確に退位勧告を認めています。我々は憲法に従うべきです」


 オコナー枢密顧問官が立ち上がった。


「わたしは保守派だが、マーカス議長に賛成する。法の支配を守らねば、我々に未来はない」


 議場がざわめいた。保守派の重鎮が賛成に回ったことで流れが変わった。


 そろそろ発言しよう。特別に発言を許可されているので、問題ない。


「議員の皆様、お聞きください」


 わたくしの声で、議場が静まり返った。深く息を吸って、できるだけ通る声で話し始める。


「これは復讐ではありません。法の支配の確立です」議場に響く声。「わたくしは十年間、国王陛下の婚約者でした。その立場を失ったことは、確かに悲しい。しかし、わたくしが求めているのは私的な償いではありません」


 議場を見渡しながら続ける。


「父は五十年をかけて、王家の憲法違反を記録し続けました。その証拠は、この手にあります」


 黒い帳簿を掲げた。「セオドア・マディソン公爵の帳簿か?」「そんなものが残っていたとは……」「几帳面なセオドア閣下なら、緻密に調べられていたのでは?」などと議場がどよめく。


「しかし、わたくしが求めているのは、過去の清算ではありません。二度と同じ悲劇を繰り返さないために、憲法を機能させることです。王権の濫用を止め、真の立憲君主制を実現することです。それが、父セオドア・マディソンの悲願でした」


 涙が溢れそうになってこらえる。声は震えなかった。大丈夫。がんばれ。


「国王陛下も、ある意味では被害者です。ハリスに操られ、道を誤らされた。しかし、それでも責任は免れません。なぜなら、国王の地位には、それだけの重みがあるからです」


 わたくしは続けた。


「皆様、どうか憲法に基づいた正しい判断を。それが、この国の未来を守ることになります」


 深くお辞儀をして、着席した。議場は静まり返っていた。やがて、一人の議員が拍手を始めた。それが広がり、議場全体が拍手に包まれた。


 マーカスが投票を呼びかけた。


「では、採決に移る。賛成の者は起立を」


 次々と議員が立ち上がる。改革派、中立派、そして保守派の一部も立ち上がった。


 ブラックウェルがゆっくりと立ち上がった。


「わたしは国王を支持してきた。しかし、憲法第五十一条は明確だ。判決は絶対である。これに従わねば、我々は法治国家ではなくなる」


 オコナーとブラックウェルが立っていた。保守派の多くが、それに続いた。


 最終的な投票結果は、賛成七十二パーセント、反対十八パーセント、棄権十パーセント。圧倒的多数で退位勧告決議案が可決された。


 マーカスが高らかに宣言した。


「決議案、可決!」


 議場は歓声に包まれた。わたくしは目を閉じて深く、ゆっくりと息をはいた。


 父上、やり遂げました。





 一週間後、クラウンズホール宮殿の玉座の間で、アレクサンダー三世は退位を表明した。金髪を整え、青い瞳を伏せながら、ゆるやかに語った。


「余は、憲法を軽んじた。国民に謝罪する」


 玉座の間には、貴族、議員、市民が集まっていた。誰もが固唾を呑んで国王の言葉を聞いていた。


「エレノア・マディソン、お前の方が正しかった。余は……余は愚かだった」


 アレクサンダーは玉座から降りて、わたくしの前まで歩いてきた。


「許してくれとは言わない。だが、お前に感謝する。お前がいなければ、余はこの国を滅ぼしていただろう」


 わたくしは視線を外さないままで頷いた。


「陛下の決断に、敬意を表します」


 アレクサンダーが玉座の間を去って行く。その背中は、憑き物が落ちたように見えた。


「あれは……」


 イザベラが通路に佇んでいた。アレクサンダーを待っていたようだ。二人は目を合わせ、何かを語り合った。そして、共に宮殿を後にした。



 その日の夕方、玉座の間で新国王の即位式が行われた。王弟だったヴィクター・フィリップが玉座に座り、憲法を手に誓約をはじめた。


「わたしは、憲法を最高の法として守ることを誓います」


 黒髪の温和な顔立ちには、決意が浮かんでいた。


「王権は憲法の範囲内でのみ行使されるべきものです。わたしは真の立憲君主として、国民に仕えます」


 会場から拍手が起こった。ヴィクターはわたくしへ視線を飛ばす。


「エレノア・マディソン公爵、前へ」


 わたくしは玉座の前に進み出た。


「お前を憲法顧問に任命する。憲法改正の草案作成を頼む」

「謹んでお受けいたします」


 わたくしは深くお辞儀をした。新しい時代が始まろうとしていた。





 一年後。


 パーラメント・ハウスの議場で、憲法改正案が可決された。王権はさらに制限され、議会の権限が強化された。憲法裁判所の独立性も明文化され、二度と形骸化しないよう保証された。


 わたくしはマディソン公爵邸の庭にある父の墓前に立っていた。墓石には父の名前が刻まれている。


「父上、やっとやり遂げました」


 風が吹き、木々が揺れた。父の声が聞こえた気がした。


 クララが傍に立っていた。


「閣下、新しい時代が始まりましたね」

「ええ。でも、まだやるべきことはたくさんあります」


 空を見上げた。青く晴れ渡った空が希望に満ちて見えた。


「これからが本当の始まりです」


 法の支配が確立された国で、人々はより自由に、より公正に生きられるだろう。


 しかし、やらなければならないことは山積みだ。


 次は、既得権益の闇を切り裂く。血税――公金を吸い取る奴らは巧妙だ。油断してはならない。


 ね、父上。






(了)


お読みいただいてありがとうございます!

長いので分けようと思ったんですけど、ぽーんと投稿しちゃいました(*´v`*)

面白かった└( 'Д')┘ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛

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― 新着の感想 ―
非常に面白いお話でした。法の遵守の重さを改めて考えさせられました。 ところで、ポテチなら湖池屋ののり塩こそ至高です。
王妃と女公爵両立できると先王に認められてるエレノア様素敵。 ロバート・ハリスの陰謀にヴィクター・フィリップが無関係だった描写カットは残念だったけど。 長編化なら人のいい振りしてロバート・ハリスの陰謀に…
政略結婚を持ち出したのに工作したり意図的に破棄する方向に持っていくやつが悪い、はっきりわかんだね
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