23話「前進」
菊池渓谷を後にするとき、空は少しだけ色を変え始めていた。
昼の鋭さが抜けて、光が柔らかくなっていく。
駐車場へ戻る道は、行きよりも静かだった。
誰も、さっきのことを口にしない。
それが、不思議とありがたかった。
「次は鍋ヶ滝だな」
父さんが、エンジンをかけながら言う。
「久しぶりね」
千鶴さんが、ナビを確認する。
俺は、窓の外を見る。
さっきまで胸を締めつけていたものが、完全に消えたわけじゃない。
けれど、少しだけ軽くなっている。
月猫は何も言わない。
ただ、さっきと同じ距離で、同じ方向を向いて座っている。
鍋ヶ滝の駐車場に着くと、観光客の数は菊池渓谷よりも多かった。
外国語が混じる声、スマホを構える人たち。
賑やかな空気が、逆に現実に引き戻してくれる。
遊歩道を下りる。
湿った土の匂い、苔むした岩、足元を流れる水。
「滑りやすいから気をつけて」
千鶴さんが言う。
月猫は、小さく頷きながら慎重に歩いている。
足元を見る横顔は真剣で、いつものクールさとは少し違った。
滝が近づくにつれて、水音が変わる。
重なり合うような音。
壁のように落ちる水。
そして、視界が開けた。
鍋ヶ滝は、想像よりも近かった。
幅の広い滝が、岩肌を隠すように流れ落ちている。
その裏側へ続く道が、はっきり見えた。
「……すごい」
月猫が、珍しく感情のこもった声を出す。
「裏に回れるんだよな」
父さんが言う。
俺たちは、滝の裏へと足を踏み入れた。
水のカーテン越しに見る景色は、現実感が薄かった。
光が、揺れている。
世界が、一枚の膜を隔てて存在しているみたいだった。
水しぶきが頬に当たる。
冷たい。
でも、不快じゃない。
「ここ、不思議な感じ」
月猫が言う。
「うん」
それだけ返す。
滝の音は大きいのに、不思議と心は静かだった。
さっき、全部を言い切ったからだろうか。
それとも、ここが“前を向く場所”だからか。
月猫が、滝の向こうを見つめながら言った。
「……ここなら」
「少し、立ち止まってもいい気がする」
「……そうだな」
それ以上の言葉はいらなかった。
写真を撮る千鶴さんの声。
父さんが「映えるな」と笑う声。
観光地らしい時間が、ゆっくり流れる。
俺と月猫は、少しだけ離れて立っていた。
でも、孤独じゃない。
滝の裏を出て、岩に腰を下ろす。
「冷える?」
俺が聞くと、
「平気」
短く返る。
それでも、距離は少しだけ近づいていた。
帰りの階段を上りながら、息が上がる。
足は疲れているはずなのに、不思議と気分は悪くなかった。
駐車場へ戻る頃には、空は夕方の色に染まっていた。
「今日、楽しかったね」
千鶴さんが言う。
父さんが頷く。
月猫は、少しだけ考えてから言った。
「……うん」
「来てよかった」
その一言で、十分だった。
車に乗り込み、シートに背中を預ける。
窓の外を流れていく森。
手は繋がらない。
でも、肩が触れそうな距離。
俺は、静かに息を吐いた。
過去は消えない。
でも、それだけじゃない。
菊池と鍋ヶ滝を越えて、
俺は、また一歩前に進んでいた。




