22話「過去の打ち明け」
菊池へ向かう車内は、静かだった。
正確に言えば、音はある。エアコンの低い唸り、窓の外を流れていく山道の緑、タイヤがアスファルトを踏む一定のリズム。
けれど、そのどれもが、俺の中にはうまく入ってこなかった。
熊本市内を抜け、道がだんだん細くなっていくにつれ、景色は濃くなっていく。
コンクリートの色が減り、代わりに山の影が増える。
空気の匂いが変わるのが、はっきりわかった。
「白狼、酔ってない?」
助手席の月猫が、前を向いたままさりげなく聞いてくる。
声は低く、落ち着いている。
「……大丈夫」
短く返す。
それ以上言葉を足さなかったのは、余裕がないからだ。
この辺りに近づくと、胸の奥がざわつく。
理由は、わかっている。
わかっているからこそ、考えないようにしてきた。
「久しぶりだな、菊池」
ハンドルを握ったまま、父さんが言う。
「そうね。市内よりずっと涼しそう」
千鶴さんも、窓の外を眺めながら穏やかに微笑む。
俺は相槌を打たず、ただ景色を見る。
木々の隙間から見える川の色が、やけに鮮明だった。
最初に立ち寄ったのは、渓谷の手前にある観光施設だった。
木造の建物が並び、土産物や食事処がある。
平日なのに、人はそこそこ多い。
「まずは腹ごしらえだな」
父さんが言う。
案内されたのは、釣り堀だった。
円形の池に、魚影がはっきり見える。
「釣れるかな……」
月猫が、少しだけ楽しそうに竿を手に取る。
「餌はここにつけて」
店の人が教えると、月猫は真剣な顔で頷いた。
「……集中すれば、釣れる」
その言葉通り、数分もしないうちに、竿がぐっとしなる。
「来た」
声は相変わらず淡々としているが、目は少しだけ輝いていた。
「おお、さすが」
父さんが笑う。
俺も竿を持つ。
久しぶりだったが、感覚は覚えていた。
水面を見つめると、心が少し落ち着く。
「白狼、逃がさないで」
月猫が横から助言する。
「わかってる」
釣れた魚は、その場で焼いてもらった。
炭火の匂いが、食欲を刺激する。
「……おいしい」
月猫が小さく言う。
「そうだな」
それだけ返す。
次は、流しそうめんだった。
竹を組んだ簡素な設備だが、水は冷たく澄んでいる。
「取れない……」
月猫が箸を構えるが、そうめんはすり抜けていく。
「焦りすぎ」
俺が言うと、ちらりと睨まれる。
「……白狼は取れてる」
「まあな」
何度か失敗したあと、月猫は一口食べて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「冷たい」
「夏だからな」
そのやり取りだけで、十分だった。
午後は、渓谷の浅瀬で川遊びをすることになった。
靴を脱ぎ、足を水につけると、思わず息が止まる。
「冷っ……」
月猫が珍しく声を上げる。
「無理しなくていい」
俺が言うと、
「大丈夫。……すぐ慣れる」
そう言って、慎重に一歩ずつ進む。
川底の石が見えるほど、水は透明だった。
水しぶきが上がり、笑い声が混じる。
その中で、俺も自然に笑っていた。
――ここまでは、普通だった。
菊池渓谷に入ると、空気は一気に変わった。
湿り気を含んだ冷気が、肌を撫でる。
「うわ……涼しい」
月猫が思わず声を漏らす。
「天然のクーラーだな」
父さんが笑う。
俺も、ここでは“いつも通り”を心がけた。
歩く速度も、表情も、声のトーンも。
足元を流れる水は透明で、石の影まで見える。
その美しさを、綺麗だと思える自分がいる。
だからこそ、余計に胸が痛んだ。
「写真撮るわよ」
千鶴さんの声。
月猫と並ぶ。
肩は触れないけど、距離は近い。
その感覚が、今は少しだけありがたかった。
滝へ向かう遊歩道。
水音が大きくなるにつれて、胸の奥が締めつけられる。
――大丈夫だ。
――今日は、家族で出かけてるだけだ。
何度も、自分に言い聞かせる。
滝の前に着いた瞬間、視界いっぱいに白い水煙が広がった。
音が、思考を上書きしてくる。
「ここで休もうか」
父さんが言い、岩に腰を下ろす。
俺は、なぜか一歩引いた場所に立っていた。
近づくのが、怖かった。
「白狼?」
月猫が俺を見る。
「……ちょっと、風に当たってくる」
逃げるように、滝の近くへ歩いた。
水しぶきが頬に当たる。冷たい。
――あの日も、こんな匂いだった。
「……白狼」
振り返ると、月猫がいた。
追ってきたわけじゃない。
気づいたら、そこにいた、という距離。
「ここ、苦手?」
静かな声。
「……苦手じゃない」
嘘は言っていない。
ただ、全部でもない。
しばらく、水音だけが続く。
「……俺、小一のときさ」
言葉が、ようやく外に出た。
「この辺で、事故があったんだ」
月猫は、何も言わない。
ただ、聞いている。
「俺が……道に飛び出して」
喉が、詰まる。
「母さんが、庇って……亡くなった」
言葉にした瞬間、身体の奥で何かが崩れた。
「……そう」
それだけ。
同情も、否定もない。
「ずっと、言えなかった」
「うん」
「俺が悪いって、思ってた」
声が、少し震える。
月猫は、滝から目を離さず言った。
「白狼は、ここに立ってる」
「それだけで、十分じゃない?」
それ以上は言わない。
それが、救いだった。
帰り道。
夕方の光が、木々の間から差し込む。
手は繋がらない。
けれど、肩が触れそうな距離で並んで歩く。
さっきまで重かった足取りが、少しだけ前に進んだ気がした。
――母さん。
俺は、まだ生きてる。
菊池の森の中で、その事実を初めて受け止められた気がした。




