21話「静かな教室、冷たい横顔」
夏休み中の学校は、驚くほど静かだった。
正門をくぐった瞬間から、いつもの騒がしさが嘘のように消えている。
蝉の鳴き声だけが、やけに大きく耳に残った。
「……ほんとに、ここで合ってるよな」
俺は、3年A組の教室の前で足を止める。
廊下の床は磨かれたままで、足音がやけに響いた。
引き戸を開けると、すでに数人のクラスメイトが集まっていた。
机を寄せ、ノートやプリントを広げている。
「おー、白狼来た来た!」
真っ先に声を上げたのは大吾。
相変わらず、場の空気を明るくする天才だ。
「お前も宿題追われ組か?」
「……否定はしない」
そう返しながら、教室の奥を見る。
そこに、月猫がいた。
窓際の席。
背筋をまっすぐ伸ばし、ノートを広げ、迷いなくペンを走らせている。
周囲の雑音を完全に遮断しているかのような集中力。
話しかけるタイミングを、無意識に測ってしまう。
それほどまでに、近寄りがたい空気を纏っていた。
「……相変わらず、早いな」
声をかけると、月猫は顔を上げずに答える。
「提出期限は、守るものだから」
淡々とした声音。
感情を削ぎ落としたような言い方。
熊野が肩をすくめる。
「さすが優等生。俺なんか、国語の感想文で止まってる」
「感想文は、事実と感情を分ければ簡単」
月猫は即答した。
「……簡単、ね」
熊野が遠い目をする。
月猫は熊野のノートを一瞥する。
ほんの一秒。
それだけで状況を把握したようだった。
「誤字が多い。あと、この表現は曖昧」
「ぐさっ!」
容赦がない。
けれど、間違ったことは言っていない。
「でも、ここはいいと思う」
小さく、付け足す。
熊野が一瞬、目を丸くした。
「……マジ?」
「本音が書けてるから」
それだけ言って、また自分のノートへ戻る。
褒め言葉は最低限。
感情も最小限。
それでも、不思議と突き放された感じはしない。
「白狼、数学は?」
唐突に、名前を呼ばれた。
「……二問だけ残ってる」
「見せて」
差し出したノートを、月猫は無言で確認する。
視線の動きが速い。
本当に、迷いがない。
「ここ。途中式、省略しすぎ」
「答え合ってるだろ」
「提出用は、過程が大事」
正論だった。
反論できない。
「……はいはい」
ペン先で、俺のノートを軽く叩く。
距離が近い。
けれど、決して踏み込んではこない。
熊野がニヤつく。
「なあ白狼、マンツーマン指導とか贅沢だな」
「効率がいいだけ」
月猫は即座に切り捨てる。
効率。
それが、彼女の学校でのキーワードだ。
教室には、シャーペンの音が規則正しく響く。
誰かが「わからん」と呟き、
誰かが笑い、
それでも、月猫の集中は途切れない。
「……月猫」
休憩時間、俺は声をかけた。
「なに」
視線はノートのまま。
「夏休みなのに、真面目すぎないか?」
一瞬だけ、ペンが止まった。
ほんの一瞬。
見逃しそうなほど、わずかな間。
「やるべきことを、やってるだけ」
感情のない答え。
けれど、その横顔は、どこか硬かった。
「白狼は?」
逆に、問いが返ってくる。
「俺?」
「宿題、終わらせる気ある?」
「……ある。たぶん」
「“たぶん”は、信用しない」
そう言って、月猫は初めてこちらを見る。
冷静で、真っ直ぐな瞳。
「だから、今日ここに来たんでしょ」
図星だった。
「……ああ」
「なら、最後までやる」
それだけ言って、視線を戻す。
夕方。
西日が教室をオレンジ色に染めていく。
「よっしゃー! 終わった!」
熊野が両手を上げる。
「声が大きい」
月猫が即座に注意する。
けれど、その口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
帰り支度をしながら、俺は月猫を横目で見る。
今日一日、彼女はずっと“学校の月猫”だった。
隙がなくて、
冷静で、
誰にも甘えない。
それでも――
窓の外を見る横顔が、
ほんの少しだけ、柔らいだ気がした。
「……お疲れ」
そう言うと、月猫は小さく頷いた。
「白狼も」
それだけ。
それ以上は、ない。
家で見せる表情とは、まるで別人。
そのギャップに、胸の奥が静かにざわつく。
――次に、この静けさが崩れるとき。
きっと、「俺の過去」を知ることになる。
そんな予感だけを残して、
俺たちは夕暮れの校舎を後にした。




