20話「わくわく牧場」
夏休みも折り返しを過ぎた頃だった。
朝からやけに空が高く、雲の輪郭がはっきりしている日で、父さんがハンドルを握る車は、熊本市内から少しずつ山のほうへと向かっていた。
「今日はミルク牧場だって」
助手席の母さんが、振り返って言う。
「……聞いてる」
俺は後部座席で、窓の外を見ながら短く答えた。
正直に言えば、テンションはあまり上がっていない。
牧場――つまり動物がいる場所だ。
嫌いじゃない。決して嫌いじゃないんだが、どうしても距離感が掴めない。
急に動く。
予測できない。
鳴き声がでかい。
……要するに、苦手だ。
「白狼、景色きれいだよ」
隣に座る月猫が、そう言って窓のほうを指差した。
「……ああ」
そっけない返事になったのは自覚している。
月猫は、ほんの一瞬だけ俺の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。
牧場に着くと、草の匂いと、少し甘い空気が鼻をくすぐった。
放牧された牛、柵の向こうで鳴くヤギ、遠くを歩く馬。
「うわ……すごい」
月猫が、思わずといった様子で声を漏らす。
普段はクールで、学校では誰にも隙を見せないあいつが、
こんなふうに目を輝かせるのは珍しい。
「かわいい……」
ぽつりと呟く声に、胸が少しだけざわついた。
……楽しそうだな。
「最初はヤギの餌やり体験だって!」
母さんがパンフレットを見ながら言う。
「白狼も行こうよ」
月猫が、こちらを見上げてくる。
その視線に、言葉が詰まった。
「……俺は、いい」
結局、そう答えてしまった。
月猫は一瞬、きょとんとした顔をしてから、ゆっくり瞬きをする。
責めるでもなく、困らせるでもなく、ただ状況を理解しようとする目。
「……動物、苦手?」
「……まあ」
それだけ言うと、俺は視線を逸らした。
沈黙。
ほんの数秒なのに、やけに長く感じる。
「そっか」
月猫は、ふっと息を吐いた。
「じゃあ、無理しなくていいよ。見てるだけで」
その言い方が優しすぎて、逆に胸が痛んだ。
結局、餌やり体験は月猫と母さんだけで行くことになり、
俺は少し離れたベンチに腰を下ろした。
柵の向こうで、月猫がヤギに餌を差し出している。
最初は恐る恐るだったが、ヤギが穏やかに口を動かすのを見て、
「……意外とおとなしい」
なんて小さく笑った。
その笑顔が、やけに眩しい。
――俺は、何やってるんだろうな。
次は乳搾り体験だった。
正直、これもハードルが高い。
「白狼もやってみなさいよ」
母さんに言われたが、首を横に振った。
「見てるだけでいい」
声が少し硬くなる。
「無理させなくていいよ」
月猫が、すぐにフォローしてくれた。
その一言に、助けられた気がした反面、
どこかで「情けない」と思っている自分もいた。
月猫はエプロンをつけ、説明を受けながら牛の横に立つ。
最初は戸惑っていたが、
「……こう?」
と手を動かすと、ちゃんと白い線がバケツに落ちた。
「出た……」
驚いたような声。
俺は遠くから、その横顔を見ていた。
得意げで、少し誇らしそうで――
家で甘えてくるときとは、また違う表情。
昼前には、アイス作り体験が始まった。
これは俺も参加できた。
材料を混ぜて、ひたすら振るだけだ。
「白狼、これくらい?」
「……もう少しだな」
結果は――失敗。
「……しょっぱい」
月猫が一口食べて、微妙な顔をする。
「だから言っただろ、塩入れすぎだって」
「だって……加減わかんなかったし」
拗ねたように言う月猫に、思わず笑ってしまう。
「でも」
月猫は、もう一口食べた。
「嫌いじゃないよ」
「無理するな」
「してない。白狼と作ったから」
……心臓に悪い。
レストランでの昼食。
牧場らしいハンバーグと牛乳が並ぶ。
「さっき、冷たかった?」
月猫が、小さな声で聞いてくる。
「……悪かった」
素直に言う。
「理由、わかってたから」
月猫は、俺の袖をちょこんと掴んだ。
「でもね、ちょっとだけ寂しかった」
胸が、ぎゅっとなる。
午後は動物レース。
どの動物が一番早くゴールするかを当てるイベントだ。
「白狼、どれだと思う?」
「……あれ」
直感で選んだヤギが一着。
周囲がどよめく。
「すごい!」
月猫が、ぱっと笑顔になる。
「たまたまだ」
「でも、かっこよかった」
夕方、帰り道。
月猫が隣に寄ってくる。
肩が触れるくらいの距離。
「ねえ」
「なんだ」
「今日は、一緒に来てくれてありがとう」
「……俺、何もしてないぞ」
「それでいいの」
そう言って、月猫は小さく微笑んだ。
「苦手でも逃げなかったでしょ」
「……まあな」
「それだけで、十分」
夕暮れの牧場に、涼しい風が吹く。
動物の鳴き声が、どこか遠くに聞こえた。
苦手なものは、まだ苦手だ。
でも――
月猫が隣にいるなら、
少しずつなら、踏み込める気がした。




