19話「海でドキドキ」
夏休みが始まって一週間。
朝の熊本はすでに真夏そのもので、家を出た瞬間から肌にまとわりつくような湿気を感じた。
天草行きの集合場所は港。
バスを降りると、潮の匂いと、どこまでも広がる青い空が迎えてくれる。
「白狼ー! 遅ぇぞ!」
真っ先に叫んできたのは大吾だった。
相変わらず声がでかく、テンションも高い。
「まだ集合時間前だろ」
「いや、もう遊びたい気分なんだよ!」
その後ろでは、クラスメイトたちがそれぞれ談笑している。
女子たちは写真を撮ったり、日焼け対策を確認したりと忙しそうだ。
そして俺の隣。
月猫は、白い帽子に薄手のパーカーという控えめな服装で立っていた。
いかにも「夏だからって浮かれません」という態度で、周囲より少し距離を取っている。
「……暑い」
「熊本の洗礼だな」
「東京と種類が違う」
そう言いながらも、彼女は文句を言うだけで離れない。
自然と、肩の距離は近いままだ。
「おーいお前ら! もう夫婦感出てんぞ?」
「違う」
「違います」
声が重なり、熊野が腹を抱えて笑った。
「否定のタイミングまで一緒とか、逆に怪しい!」
月猫は一瞬だけ俺を睨み、すぐに視線を前に戻した。
クール。徹底している。
船に乗り、イルカウォッチングが始まる。
エンジン音とともに、海風が一気に吹き抜けた。
「……わ」
月猫の髪が風に揺れる。
押さえた帽子の隙間から見える横顔は、いつもより柔らかい。
「イルカって、本当に来るのか?」
「資料によると、遭遇率は高いらしい」
双眼鏡を覗きながら、月猫は淡々と答える。
楽しみよりも、理屈が先に来るところが彼女らしい。
「来たぞー!」
「跳んだ! マジで跳んだ!」
イルカが海面から弧を描くように現れ、歓声が上がる。
その瞬間、月猫の瞳がはっきりと輝いた。
「……きれい」
小さく零れた声。
俺が見たことのない、素直な表情。
「だな」
そう返すと、彼女は我に返ったように表情を引き締め、すぐにいつものクールな顔に戻った。
船を降り、次はシードーナッツへ。
海に浮かぶ水族館というだけで、少し非日常感がある。
「犬ショーだって!」
「イルカショーもあるらしいぞ!」
大吾とクラスメイトたちは完全に観光モードだ。
月猫は俺の少し後ろを歩き、静かに周囲を観察している。
「楽しくない?」
「……楽しいけど」
「けど?」
「騒ぐのは、得意じゃない」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
「無理しなくていい」
「……白狼は、優しすぎる」
そう言って、彼女は小さく息を吐いた。
鯛の餌やりコーナーでは、想定外の事態が起きた。
水面が大きく揺れ、魚が一斉に集まる。
「うわっ、怖っ!」
「近っ!」
女子たちが後ずさる中、月猫は冷静に餌を投げていた――が。
「っ……!」
足元に水が跳ね、反射的に俺の袖を掴む。
「大丈夫か」
「……びっくりしただけ」
そう言いながらも、距離は戻らない。
肩が触れたまま。
「花咲さん、白狼のこと信用しすぎじゃね?」
「……必要最低限の距離です」
「俺の隣でもいい?」
「それは嫌」
即答。
熊野が撃沈し、周囲が笑いに包まれる。
イルカショーでは、月猫が静かに拍手をしていた。
派手ではないけれど、確かに楽しんでいる。
「ねえ、白狼」
「ん?」
「……今日、来てよかった」
その声は、波音に溶けそうなくらい小さかった。
帰り道、夕焼けが海を赤く染める。
クラスメイトたちは疲れた様子で、騒ぎも落ち着いていた。
月猫は隣で、窓の外を眺めている。
「夏って、もっと騒がしいものだと思ってた」
「違ったか?」
「……こういうのも、悪くない」
そう言って、目を閉じる。
肩が触れたまま。
手は繋がない。
でも、確かに近い。
家では甘えて、外ではクール。
その境界線が、少しずつ揺らぎ始めている。
――この夏は、まだ始まったばかりだ。




