15話「お勉強」
6月も半ばを過ぎ、校舎の空気に少し湿り気が混じるころ。
教室の掲示板には、赤文字で「期末テスト一週間前」の文字。
部活も活動停止期間に入り、放課後の廊下はやけに静かだった。
「……はぁ、期末って、なんでこうやって急に来るんだろ」
机に突っ伏しながら、月猫がため息をついた。
髪がさらりと机に流れ、窓から差し込む夕日がそれを橙色に染める。
「急にって……前から日程出てただろ」
「でも気づいたら一週間って、体感早くない? 時間泥棒いるって絶対」
ぼやく月猫の声はどこか切実で、思わず笑ってしまう。
「じゃあ、その時間泥棒を捕まえるために、今日は図書室で勉強だな」
「え、やだ。白狼の真面目オーラで眠くなっちゃう」
「勉強しに行くのに寝る気満々なのやめろ」
そんな軽口を交わしながら、二人は並んで図書室へ向かった。
夕方の図書室はひっそりとしていて、窓際の席には他のクラスの生徒が数人。
窓の外には、うっすらと茜色が残っている。
席に着くと、白狼は教科書を開き、月猫はノートを広げた――が。
「ねえ、これわかんない」
開始五分で、月猫の指が止まった。
彼女が指差すのは数学の関数グラフ。
「ここ、xがマイナスになるとなんで線が反対行くの?」
「符号が変わるから。値が逆になるんだよ」
「符号って、人生の性格とかも変えられたらいいのにね」
「いや、それはもう別の科目だろ」
白狼が呆れ混じりに笑うと、月猫は頬をぷくっと膨らませた。
「だって~、難しいんだもん……」
「ほら、もう一回やってみろ。ここをこう動かす」
白狼がペンを取って、彼女のノートに軽く線を引く。
手が触れそうな距離。
その瞬間、月猫の肩がびくっと動いた。
「……あ、ごめん」
「う、ううん。ちょっと集中しただけ」
月猫は照れたように笑って、またノートに向かう。
その横顔を見て、白狼は胸の奥が少しだけ熱くなった。
そのとき、図書室の扉が勢いよく開いた。
「おっす! お前らマジで勉強してんの!?」
現れたのは熊野大吾。
教室ではムードメーカーとして笑いを絶やさない彼が、手にスナック菓子を持って立っていた。
「図書室で菓子持ち込むなっての」
「え、マジ? あ、じゃあ廊下で食うわ」
「そうじゃなくて……」
白狼が眉をひそめる横で、月猫はくすくす笑った。
「大吾くん、テスト大丈夫なの?」
「余裕余裕、前日になったら奇跡起きるって!」
「その奇跡、前回も起きなかっただろ」
「……うっ」
その後も少し賑やかに話した後、大吾は「空気読んで退散な」と笑って去っていった。
再び静けさが戻る。
時計の針はいつの間にか、六時を指していた。
「そろそろ帰る?」
「うん……でも、ちょっとだけわかってきた」
月猫はノートを見つめながら、ほんの少しだけ笑った。
夜。
家のリビングには、蛍光灯の白い光が柔らかく広がっていた。
テーブルの上には教科書とノート、そして温かい紅茶のカップ。
「もうこんな時間だぞ」
時計を見ると、すでに夜の九時。
月猫はノートに顔を伏せたまま、かすかに返事をした。
「あとちょっと……あと一問だけ」
眠そうな声。けれど、手は止まらない。
白狼はため息をつきながら、キッチンからマグカップを二つ持って戻ってきた。
「ほら、休憩。カフェイン少なめにしといた」
「ありがと……」
月猫は両手でカップを包み、ゆっくりと息を吹きかける。
立ちのぼる湯気の向こうで、目が少しとろんとしていた。
「白狼って、なんか先生みたい」
「お前が教え甲斐ある生徒すぎるんだよ」
「それ、褒めてる?」
「さあ、どうだろうな」
そう言って笑うと、月猫の口元も自然と緩んだ。
「……次のテスト、頑張るね。ちゃんと、白狼に教わったとこ全部出るように祈っといて」
「出るようにじゃなくて、できるようにだろ」
「んー、それもお願い」
笑いながら、二人はまたノートを開く。
外では、雨の気配。
静かな夜の中で、鉛筆の音と小さな笑い声だけが響いていた。
勉強なんて面倒で退屈なもの。
でも、隣にいる誰かと一緒なら、少しだけ楽しくなる。
そんな時間を、白狼は悪くないと思った。
やがて月猫があくびをひとつして、机に顔を伏せる。
その寝顔を見つめながら、白狼はふと呟いた。
「……次も、一緒に頑張ろうな」
月猫の返事はなかったけれど、唇の端がほんの少しだけ、笑っているように見えた。




