13話「武者返し」
「ねぇ、せっかくだけんさ―今度の休み、熊本城に行かん?」
休日の朝食後、父さんが突然そんなことを言い出した。
食卓の空気が一瞬止まり、母さんは「いいわね」と目を輝かせる。
「熊本に住んでるのに、まだちゃんと行ったことないもんね」
「熊本城……」
隣に座る月猫――義姉の美波は、箸を持ったまま小さく呟いた。
その声音は普段通りのクールさを装っているけど、わずかに目が揺れているのを俺は見逃さなかった。
「まあ、日本三名城の一つって言われてるからな。熊本といえばここって感じ」
俺がそう返すと、月猫は「ふぅん」と気のない調子で答える。……が、ほんの少し口元が上がっていた。
こういうときの月猫は、たいてい内心わくわくしてる。
わかりやすいくせに、絶対認めようとしないんだよな。
そうして、俺たちは熊本の観光名所である熊本城に行くことになった。
路面電車(市電)に揺られ時が過ぎた。
そうして俺たちは黒い瓦と重厚な石垣に囲まれた熊本城の前に立っていた。
「……大きい」
思わず漏れた月猫の声。
彼女の瞳が見開かれ、長い睫毛が影を落とす。普段の冷ややかな眼差しじゃなくて、素直に驚きを浮かべる顔は、なんだか年相応の女の子らしくて新鮮だった。
「白狼、あれが天守閣だよ。震災で被害を受けたけど、復旧も進んでるんだって」
父さんが解説役に徹している。観光客みたいにテンションが高い。
「へぇ……近くで見ると迫力ある」
「でしょ? 熊本城は“武者返し”っていう石垣が有名で――」
「武者返し?」
「上に行くほど反り返ってて、敵が登れないようになってるんだ」
父さんの話に、月猫は「ふむ」とうなずきながら見上げていた。
いつもの冷静な横顔なのに、頬がほんのり赤いのは、日差しのせいか。
「せっかくだから清正神社にも行きましょう」
母さんの提案で、俺たちは城のそばにある清正神社に立ち寄った。
鳥居をくぐり、木漏れ日の中を進む。ひんやりとした空気に包まれ、さっきまでの観光ムードから一転、厳かな雰囲気が漂う。
「ここ、加藤清正を祀ってるんだよ。熊本城を築いた人」
「へぇ……」
月猫は興味なさげに見せながらも、視線は境内のあちこちを丹念に追っていた。
彼女なりに楽しんでるのがわかる。
手水舎で手を清め、鈴を鳴らして参拝。
並んで目を閉じると、横から小さな吐息が聞こえた。
長い睫毛が震えて、月猫は真剣な表情で祈っていた。
「……何お願いしたんだ?」
参拝を終えて小声で尋ねると、彼女は一瞬だけ視線を逸らし、頬を染めて呟いた。
「……ひみつ」
その照れ隠しの仕草に、胸が妙にざわつく。
俺も「……そっか」としか言えなかった。
続いて熊本城の近くにある城彩苑へ訪れた。
土産物屋や食べ歩きの店が並び、外国人観光客も多くにぎわっていた。
「なんかお祭りみたいだな」
俺が言うと、月猫も「……にぎやかだね」とほんのり微笑む。
そこで目に入ったのは「甲冑や姫衣装で記念撮影できます」という看板だった。
「やってみたら?」
母さんが面白がって月猫の背を押す。
「えっ……わ、わたしが?」
「いい思い出になるわよ」
結局、流されるように月猫は姫衣装を、俺は甲冑を着ることになった。
――そして数分後。
「し、白狼……笑わないでよ」
鮮やかな赤の打掛に身を包んだ月猫が、少し居心地悪そうに立っていた。
普段の制服姿しか知らない俺からしたら、その姿は衝撃的だった。
綺麗すぎて、言葉が出てこない。
「……似合ってる。すごく」
「っ……!」
耳まで真っ赤にして、月猫は慌てて視線を逸らす。
その反応がまた可愛くて、俺の鼓動はさらに加速する。
一方の俺はというと、全身甲冑。重くて息苦しい。
「……武士って大変だな」
「でも……白狼、強そうに見える」
「からかうなよ」
「ほんとに思ったんだもん」
月猫が小さく笑った。その柔らかい笑顔を見て、俺は本気で甲冑姿をやって良かったと思った。
観光を一通り終えて、最後にまた熊本城の石垣の前に戻ってきた。
壁に背を持たれながら反り返る武者返しを見上げ、月猫がぽつりと呟く。
「……これ、本当に登れそうにないね」
「だから“武者返し”って呼ばれてるんだ。攻めてきても返される」
「ふぅん……」
月猫の横に並んで、石垣を眺めた。
「……空が広いね」
「ここから見ると、石垣が空に繋がってるみたいだな」
月猫は小さく笑って、俺の袖を指先でつまんだ。
「ね、ここって秘密基地みたいじゃない?」
「秘密基地?」
「うん。二人だけの」
「勝手に決めんな」
「ふふ、いいでしょ。……わたし、気に入った」
そう言ってまた空を仰ぐ横顔は、学校で見せるクールな彼女とは違って、とても柔らかかった。
熊本城の武者返しの下で過ごすこの時間。
それはきっと、俺たちにとってかけがえのない思い出になる――。




