第五十九話 ミドルエイジ
第五十九話 ミドルエイジ
長い冬も終わりかける頃の日曜日、撫子が話しかける。
「由奈、今度の新規なんだけど留美さんにやってもらおうと思うの」
「わかった。 ちょうど予約が入っているから……」
そして日曜日、吉野が出社してくると
「おはようございます♪ 留美さん、新規をお願いできますか?」 撫子が言うと、吉野が驚く。
「いいんですか? この前、失敗したのに……」
「もちろんです。 失敗なんて普通にあるし、だからと言ってカウンセリングをしないなんて勿体ないですよ」
こうして吉野は第2ブース、撫子の場所を借りてクライアントを待つ。
“ピンポーン” チャイムがなると、吉野が緊張しだす。
「ようこそいらっしゃいました。 奥のブースへどうぞ」 これには小坂が案内する。
撫子が吉野の肩に手を置き頷くと、吉野も応えるかのように頷いた。
金子 保 54歳の会社員である。
「ご予約、ありがとうございます。 こちらが問診表です。 書き終わってからのカウンセリングになりますので……」
そして金子は問診表に書いていく。 吉野は裏に回り、水を飲む。
(やっぱり緊張するよね……)
そして吉野がストレッチを始めだすと
(いやいや、緊張しすぎでしょ……) 撫子は苦笑いになってしまった。
その緊張から一変、 「今回、担当させていただく吉野と申します」
吉野はニコッと微笑み、資格者証をみせる。
「最近……というか、昇進後から体調が悪くなる日々が続きまして……」
金子がポツリと独り言のように話し出す。 覇気の消えた声であった。
(留美さんには重かったかな……) 撫子は、相談内容を聞いて心配になっている。
金子は50歳で課長になり、二年後にうつ病と診断されていた。
これはサンドイッチ症候群とも言われ、上司と部下の板挟みとなって神経が痩せ細っていく状態である。
過去には『あぁ、哀しき中間管理職』なんて言葉が流行したくらいだ。
「そうですか。 管理職とは板挟みになってしまう大変なポジションですものね…… それを続けて体調不良になられたのですね……」 吉野は心情を汲み取ってからオウム返しをすると
(上手い……) これには撫子も、声を出したくなるくらい感動している。
カウンセラーはオウム返しをするが、吉野のように心情を汲み取ってからの返しをする人は少ない。 これは自身が中間管理職であることで経験から出た言葉だろう。
「それで、金子さんは胸に秘めていることはありますか?」
吉野が聞くと、金子はドキッとする。
「すみません…… 何か胸のつかえが感じたので聞きました。 よかったら、お聞かせくださいね……」
これを聞き、金子が秘めた想いを話し出す。
『楽なポジションに戻りたい』 『子供たちの進学の問題』 『定年後を見据えた自分』 などと、ミドルエイジならではの悩みも多くなっている。
「そうですね。 私も同じ年齢なので、悩みも多くなりますよね……」
吉野の言葉で金子は顔を上げる。
「ここでは悩みや苦悩を持った人しか来ない場所ですから、思う存分と話してください」
そこから金子が仕事の話を始める。 中間管理職の話である。
中間管理職の悩みとは、大きく2つ。 「会社の売り上げ」「部下の育成」である。
会社の売り上げがなかったら経営が成り立たない。 そのうち会社は倒産してしまうだろう。 その為にも有能な部下を発掘し、自分のポジションまで引き上げるという重大な任務がある。
この両輪に重きを置くことが重要である。
しかし『自分時代』と言われる昨今、コロナウイルスが蔓延してソーシャルディスタンスを取ることで人間関係の構築が難しくなっている。
そんな悩みを話すと、オウム返しをしながら吉野がメモをしていく。
(最高のタイミングな返し……)
撫子は会話の積み重ねを大事にするタイプであり、テンポの良さに安堵している。
これは撫子や小坂が教えたラポールの成果であった。
この金子のような症状は、サンドイッチ症候群や更年期障害など数多くの症状が見られることだ。
更年期障害というと女性がなるものと思われがちだが、近年は男性にも多くみられるのだ。
血液検査で分かるものだが、テストステロンという成分が下がってしまう。
脱力、感情の起伏が激しくなったりする。 また、男性の場合は勃起不全などの症状がみられたりする。
最初は心の病だと思い、心療内科に通院することが多く
「自律神経失調症ですね……」 などと診断されたりする。
心療内科などでは採血は行わない。 男性更年期障害では泌尿器科が扱っている。 テストステロンが年齢の平均値を下回れば男性更年期障害といえる。
すると保険はきかず、自費となるのだが三千円程度で注射をしてくれる。
ただ、なかなか思うように改善される訳ではない。 2~3ヶ月の間を空けての注射を繰り返していくのだ。
吉野は説明していく。 これは撫子や小坂がカウンセリングのファイルを見ていくうちに覚えたものであり、決して独学ではないのだが……
「吉野先生…… ありがとうございます」 金子は何度も頭を下げる。
(先生って……) 吉野は押し寄せる感動を必至で耐えていた。
そしてカウンセリングが終わると、
「ありがとうございました。 お大事になさってくださいね」 吉野は玄関まで見送り、振り返ると撫子と小坂が拍手をしていた。
「撫子さん…… 由奈さん……」
吉野は身体が震えていた。
「よかったですよ!」 小坂が笑顔で迎えると、「由奈さん……」
「一人、救えましたね……」 撫子が拍手を送る。
吉野は脱力し、涙を流すと
「なんか…… 緊張が解けてしまいました」 そう言って床に腰を落とす。
その後、吉野はファイルを整理する。 自身で何を言ったか覚えていなかようで、後から撫子が訂正をしていた。
「せっかくだから、ミドルエイジ・シンドロームを勉強しましょう」
撫子がホワイトボードを使って説明する。
ミドルエイジ・シンドロームとは
『中年期の特有の心理的な問題であり、主に40代から50代のビジネスマンに見られる症状』
・昇進うつ病 :昇進後に見られる うつ状態。
・昇進停止症候群 :昇進の見込みがなくなることによる精神的苦痛。
・過剰適応症候群 :仕事に過度に打ち込み過ぎてストレスからうつ状態になること。
原因としては、長年の勤続疲労や職場環境もストレスである。 中年期には家庭や仕事の責任も増加し、精神的な負担が大きいことが要因とされている。
「だからと言っても、仕事を辞める訳にもいかないし……」
これに吉野が声をあげる。 肌で感じているのだろう……
「そうですね。 留美さんは、よく頑張ったと思います。 だって “空の巣症候群 ”になっていた訳ですから……」
吉野がなった “空の巣症候群”とは、別名 “鳥の巣症候群”とも呼ばれている。
鳥が巣立った後にも、親の鳥は子供に餌をあげようと運んでくる。 しかし、時期になると雛は成鳥になり飛んでいってしまうのだ。
そして空の巣に餌を運んできては、あげる相手のいない巣で呆然としてしまう。
子供が成長し、社会人になっていった吉野は空の巣症候群になってしまったのだ。 それを撫子がカウンセリングをして希望を与えた経緯がある。
「このミドルエイジ・シンドロームには、先ほどのように話しを聞いていくのが効果的なのでしょうか?」
吉野の初回は情報を集めることであり、効果が出るにはまだ先の話だ。
「まずは、沢山の会話が大事です。 人と話すことは脳の活性化にもなります。 しっかり傾聴して話す元気を与えましょう」 撫子が笑顔で説明する。
撫子と小坂は二人で仕事をしている。 改めて説明する機会はない。 こうして勉強ができる環境で三人は笑顔だ。
「今後ですが……」 撫子が話すと、吉野は一生懸命にメモをしていく。
・自己の生き方の見直し :仕事だけを生きがいにせず、自分の人生観を見つめ直すのが重要になっていく。
・ストレス管理 :趣味やリラクゼーションの時間を持つことで、ストレスを軽減させることが推奨されている。
これは吉野が経験した『心理カウンセラー入門』の本を読むのもひとつの例である。
(確かに本で勉強してから変わったのかも……)
ミドルエイジ・シンドロームは多くの人が経験するものであり、まずは誰かに話したりすることでストレスも軽減できる。
そして趣味などを見つけるのも良いだろう。
以前、撫子か吉野のカウンセリングで言っていた
“ 新しい自分の定義づけ ” これが鍵となっていくのだ。
「撫子…… 空の巣に憧れてる?」
「なんでよ?」
「撫子の部屋じゃ、空の巣は夢のまた夢だと思って……」
笑う小坂と吉野。 そこに黙ってしまう撫子がいたのだった。




