第五十四話 万引き(下)
第五十四話 万引き(下)
この問題は医療機関と司法機関とでは見解が違う。 「個人で使用するためではなく……」という部分が強調されてしまい、クレプトマニアであることが否定されてしまった事例がある。
大半の窃盗は食料や生活必需品であることから『病気』と判断されなくなっている。
しかし「お金があるのにもかかわらず、盗んでしまう」ことから個人使用の許容を広く解釈するべきという事も出てきた。
その為、窃盗症の見解も医療機関と司法機関との判断の差が小さくなってきてはいるが窃盗としての判断を司法機関は譲らない時もある。
撫子は、カウンセリングを済ますと細かくクレプトマニアの詳細を調べ始める。
夜、小坂が最後のクライアントを見送ると 「撫子、何を調べているの?」 と、声を掛ける。
「うん…… クレプトマニアの詳細」 撫子が小さな声で答えると
「ふむふむ…… これ、読む?」 小坂が出してきたのは犯罪心理学の本だった。
「見せて」 撫子が本を開く、 すると 「あった……」
そこには窃盗症の見解が書いてある。
内容は理解できるが、その後のアプローチに悩む二人。
「まず根本的なことからね……」 小坂が説明を始める。
・窃盗の9割が万引き ・ほぼ全例が単独犯 ・経済的や社会的地位から見て「リスクに合わない窃盗」繰り返している ・職業的犯罪ではない ・窃盗衝動のスイッチが入ってしまうと、自力で中断するのが難しい ・きわめて再犯傾向が強い ・摂食障害など、他の精神障害と合併することが多い ・罰金や服役をしてもほとんどが更正しない ・治療前には病識がない ・専門治療によって回復できる
などが書かれている。
「つまり、正しく治療をすれば回復できるって事よね?」
「完全に消え去る訳じゃないのよ。 影を潜めるというか……」
撫子には治療というカウンセリングを行ったことがない。 治療と言うなれば小坂の方が詳しいのだが……
「流石に、重いのは私なんかじゃ……」 小坂は病院でカウンセラーをしていても、そこまで重要なカウンセリングをしていなかった。
「でも、やるしかないわ! もう、救えないカウンセラーにはならない!」
撫子は本を読み、アプローチの仕方を考えていく。
「こんにちは。 脇坂さん」 撫子が挨拶をする。 同時に早苗も頭を下げた。
「今回、脇坂さんのお話を聞かせてもらって宜しいですか?」 撫子は早苗に質問をせず、早苗の言葉を待っていると
「あの……本当にすみません……」 早苗から出た第一声がコレだった。
「あの、ここは取り調べでも裁判所でもありませんよ。 ゆっくり心を開いてみませんか?」
撫子が優しい口調で語りかける。 早苗は頷くが、言葉に詰まっているようだった。
数分が経ち、撫子は方向性を変えて質問をしてみる。
「脇坂さん、食事は規則正しく召し上がっていますか?」
「それが、普段は一食ですので……」 早苗が恥ずかしそうに下を向くと
「お腹、空きませんか?」 撫子は食を勧めていく。 摂食障害の合併を意識したアプローチだ。
「まったく空かないのですよ……」 早苗が言った途端、目つきが変わっていくのを見逃さなかった。
(早苗さん、捕食者の目になっている)
撫子はペンと紙をテーブルの上に置いたまま裏口へと向かっていく。
そして三分の時間を空けて戻ってくると、
(やっぱりか……) 撫子はテーブルの上を見て数秒ほど固まってしまった。
そこには紙が残っているが、ペンは消えていたのだ。
(空腹が捕食の本能を呼び覚ませているのね…… それも大きい紙は残して、小さいペンを盗ったのか……)
撫子は摂食障害の合併を知ってしまった。
「早苗さん、もう返してくださいよ~」 撫子は笑いながら早苗が元に戻るのを待った。
そして数秒後に、「すみません……」 元の怯えたような弱々しい早苗が戻ってくる。
そこから二人の間に沈黙が流れる。
実際に、クレプトマニアには摂食障害が多いと言われている。 その中でも過食症の割合が多いのだが、何故に過食症が多いかだ。
摂食障害で過食症、拒食症のどちらでも言えることが『病的飢餓感』である。
病的飢餓感は “ものに囲まれているのに飢餓感 ”というもので、その感覚は強烈でコントロールが出来ないということだ。
(不安障害と似ている…… 何の根拠もないところから不安を感じたりするんだ……)
「私はどうしたら……」 早苗は震え始める。 事の重大さを知っているのにもかかわらず、同じ過ちを繰り返してしまう恐怖に怯え始めてしまったのだ。
「早苗さん……状況を説明しますね」 撫子は顔の表情を消し、ただ早苗の目を見て話す。
「早苗さんの感覚は、「承認されること」に飢えている「心理的飢餓状態」になっています……」
「心理的な飢餓は「心の枯渇状態」を指します。 満たされない感覚から、「減った」や「無くなる恐怖」を感じてしまっているのです……」
説明をすると、早苗は呆然と撫子を見つめる。
「実際、ポケットにしまったペンを手に入れて満足しましたか?」
撫子が訊くと、早苗は黙って下を向く。
「恐らくですが、早苗さんの部屋の想像がつきます。 きっと物が溢れかえってないですか? 物が減っていくのが嫌なために……」
これは心の枯渇状態になると、承認欲求から物的欲求に移行していく。
減っていくのに恐怖を感じてしまい、『ため込み』が始まってしまうのだ。
それは物だけではなく、お金にも及んでいく。 『ため込みから究極の節約』となる窃盗という風になっていくのだ。
それは手元に百万円があっても九十九万万円になることに恐怖を感じてしまうと言うことだ。 それには『また稼げばいい』という発想はない。 百五十万に増えても百四十九万になるのが怖くなっていくだけである。
これで現在の早苗が出来上がってしまったのだ。 そして盗みをすれば捕まり、家族から叱られる。 こうして承認欲求からは遠ざかり、また満たす為に盗みを働いてしまう。
(これじゃ堂々巡りになってしまう。 なんとかしなきゃ……)
こうして時間がやってくると
「早苗さん、何かお話をしたいことはありますか?」 「あの…… どうやったら盗らなくなりますか?」
(そうだよな……盗んだ本人が辛いんだよな……)
撫子は我にかえる。 窃盗=罪 これは当然なことだが、早苗本人も苦しんでいることを思い知らされる。
「早苗さん…… 今は何が欲しいですか?」 撫子は帰ろうとする早苗に話しかけると、
「いいえ…… 欲しいものとかは無くて」 早苗は困ったような顔をする。
そして早苗は頭を下げて帰っていった。
「流石だね、ナデシコ……」 小坂は笑顔になっていた。
「由奈……」
「あれは私でも出来ないよ。 帰る寸前に呼び止めてさ」
「分からない…… 咄嗟だった」 撫子は、つい先ほどの事を振り返る。
「なんで呼び止めたの?」 小坂は撫子の行動の核心を知りたかったようだ。
すると、「何かワンクッションが無いと、帰りに万引きをしそうと思ったのかも……」 撫子でも分かっていなかったようだ。
(まてよ……そうなら、これは使えるのかな?)
撫子はファイルを作成しながらブツブツと呟いていると、
「はい、コーヒー」小坂がテーブルの上にコーヒーを置く。
「んっ? 甘い……」 撫子が驚くと
「頭を使ったから、甘い方がいいと思って~」 小坂がおどけて見せると
「それか!」 撫子が大声をあげる。




