第五十一話 凱旋
第五十一話 凱旋
日曜日、この日の予約はピークに達していた。 普段、カウンセリング開始は朝の9時から夜の7時まで。 途中に休憩も入れずに過ごしていた。
「由奈、休んでもいいからね」 撫子が声を掛けるも、小坂は黙々とファイルの整理をしている。
撫子は小坂を見て フッ……と微笑む。 一時はどうなるかと思ったバーンアウトは見る陰もない。
そっとコーヒーを置く。 しかし、小坂は気づかずにパソコンで入力作業をしている。
普段は声を掛けない撫子だが、 「こらー 由奈~」 大声を出す。
「何よ! ビックリした~」
“チョン チョン……” 撫子がマグカップを指さす。
「あぁ ありがとう」 小坂が微笑むと、撫子が不機嫌そうな顔をする。
「どうしたの?」 小坂がキョトンとすると
「そんなに根詰めなくていいから……」
「いや、仕事でしょ?」 小坂は不思議でならなかった。
「少し、割り振りましょう……」 撫子が微笑むと、
「おはようございます♪」 吉野が入ってくる。
「おはようございます 留美さん」 撫子と小坂が笑顔を出す。
「今日もいっぱいですね……」 吉野が驚いていると、
「おかげさまで…… 留美さん、お仕事を振っていいですか?」 撫子が言うと、
「本当? 嬉しい♪」 吉野が笑みをこぼす。
「これなのですが……」 そこには溜まった書類の山があった。
「撫子、余裕な顔して……」 撫子はファイル整理に手間取っていた。
そう、撫子は片付けが苦手だった。 今までは苦にならないクライアントの数だったのだが、ここ最近の急増で溜まってしまっていた。
(そりゃ、あの部屋だもんな……) 小坂は納得の表情をする。
「わかりました。 たぶん、感性で書いてある部分は後で聞くとして…… 撫子さん、結構ズボラ……?」 吉野が聞くと
「結構じゃなく、相当なズボラです」 小坂が答えてしまう。
吉野は裏でファイルの入力を始める。 これは吉野にとって収穫だった。
(こんな難しい案件も抱えているのね……)
そこには、客観と主観の両面から書かれていることもある。
(病院の診断と違う見方もしているのね……)
吉野は撫子の凄さを肌で感じるようになる。 これは小坂にも同様だった。
吉野は時間があると、二人のカウンセリングを聞いている。 これだけで充実していたが、慣れてくると学ぶ事が多くなり『生きがい』とさえ感じていたようだ。
小坂のカウンセリングが終わると、
「すみません、ここの文章なのですが……」 吉野は質問をしていた。
「すみません。 個性が強くて……」 小坂が謝っている。 小坂も撫子も手書きをする際にクセが出る。 これは、どのカウンセラーも一緒であろう。
「この記号ですが……」 吉野はキャリアウーマンであり、バイトと言っても妥協はしない。
こうして時間が経ち、
「留美さん、すみません……」 撫子が三人分のコーヒーを淹れて持ってくると
「いいえ。 ありがとうございます」 吉野も笑顔でコーヒーを飲む。
「どうですか? カウンセリングの事務所は?」 小坂が訊くと、
「はい。とても忙しいのは『てのひら』だけでしょうけど、とても興味深いです」
(もう嫌になったって訳じゃないのね…… 良かった) 小坂と撫子は安堵の表情を浮かべる。
そんな時、『~♪』 スマホの着信が入る。 最近はホームページからの予約が多いが、以前からのクライアントはスマホに電話をする習慣が根強い。
「もしもし、てのひらですが……」 撫子が電話に出ると
「えっ? それは……」 少し困った顔をする。
そんな顔を小坂と吉野が息を飲み、撫子の表情を見つめている。
「そうですか…… はい、かしこまりました」 撫子が電話を切ると、
「どこからの電話? 予約?」 小坂が訊くが撫子は首を振る。
「あのね…… なんでも地方からの依頼で、親に電話があったそうなの。 そこからの依頼で、地元に行くことになった……」 撫子の表情は浮かなかった。
「まじで……? これって『てのひら』が全国に向けてって事?」 小坂が目を丸くしていると
「それは困りますね…… 最初に房総が契約したのに、真似るなんて……」 吉野は顔をしかめる。
「とりあえず、話だけでも聞いてくるからさ…… ご迷惑をお掛けしますが」
撫子が頭を下げる。
翌週、撫子が出発する前日の夜。
「ふぅ…… 気が重いな」 撫子が息を漏らすと
「ここまで来たら、やるしかないでしょ」 小坂が励ましている。
「とりあえず、社長の出張前だ。 飲みにいきますか」 小坂が嬉しそうにしていると
「へいへい…… 私、焼き鳥が食べたい」 撫子もノリノリになっていた。
そして、近所の居酒屋にて二人は向かいあっている、
「もし、不安だったら受けないで帰ってきていいからね。 私も撫子が居ないと不安だし……」
「何を言ってるのよ! 由奈が居たから、ここまで来れたんじゃない」
撫子と小坂は称えあって、お酒を飲み始めると
「あら、お二人さん……」 吉野が居酒屋に入ってきた。
「留美さん? どうしてここに?」 二人が驚いていると、
「旦那が残業らしくて、一人だとね~」 吉野が苦笑いで答える。
「お子さんは自立していますもんね」
「それに、偶然にも会えたから嬉しい」
そう言って、三人で送別会をおこなった。
翌朝、撫子は電車を乗り継ぎ山口まで帰省した。
「ただいま~」 撫子が声を出すと、
「お帰り~」 そこには母親の藤子ではなく、緑が玄関までやってきた。
「緑~♪」 撫子が抱きつくと、緑も笑顔になっていた。
「ナデシコ、有名人になっちゃったね」
「そんなことないから……」
その後、緑も一緒に夕飯を済ませてから帰宅していく。
翌日、撫子は市役所を訪れた。
「はじめまして。 『てのひら』の久坂と申しますが……」 撫子が受付をすると、応接室に案内される。
そこには役所の方々が並んでいた。
(何でこんなに……) 撫子の肩がすくんでしまう。
「久坂先生…… 房総で有名になっておられて、故郷である山口でも鼻が高くなります……」 市長の挨拶が始まると、
「い いえ……」
「それで、お願いがありまして……」
撫子が依頼されたのは地方のアピールと、アドバイザーという役目だった。 これは房総でも同じ仕事だ。
(ここは山口だぞ。 有名な政治家が多いじゃないか。 そっちを使えよ……)
撫子は言いたいことを押し殺し、つい頷いてしまった。
それから早速、地元の外れの町を訪れる。
「こんにちは。 カウンセラーの久坂と申します…… 何かお困りごとはありますか?」
撫子が聞き出していると、ある男性が話しかけてくる。
「選挙でもあるのか? こんな集落にまで顔を出すなんて……」
「いえ、選挙ではなくカウンセラーとして来ました」 撫子が笑顔で応える。
「そんなものがあるのか? ウチの爺さんが少し変でよ、診てもらえるかな?」 男性は恐縮しながら頼んでみると、
「えぇ、行きましょう」 撫子は男性の家に向かう。
「こんにちは……」 撫子が挨拶をするが「……」 男性のお爺さんは返事をしない。
「あの……」 撫子が困った顔をすると、
「ここ最近、こんな感じなんだ…… 一通りの事は出来るからボケた訳ではなさそうなんだが……」
撫子は状況を詳しく聞いていく。
「こうなる前に、何かありましたか?」 「頭を打ったとかはないですか?」
気になるのは外傷である。
撫子は心理カウンセラーだが、言葉を発しなくなる原因として外傷の勉強もしていた。
・認知症 ・高次脳機能障害 ・脳梗塞 ・くも膜下出血
こういった要素も捨てきれないからである。
「お名前を教えてもらえますか?」 撫子が聞くと、お爺さんは返事をしない。
連れてきた男性が「田中 博です」 代わりに教えてくれると
「田中さん。 両手を前に出せますか?」 撫子が言うと、博は手を前に出す。
(指示は通る…… あとは……)
撫子はペンと紙を取り出し、 「お名前を書けますか?」 ペンと紙を渡す。
「……」 博が困った顔をすると、撫子は複数の原因を考える。
(失語症…… これには差がある。 どこの部分なんだろう)
撫子は指示が通るが発声や文字の読み書きが難しいことを確認し、病院を優先して待つ間に博をみていく。
失語症とは、損傷を受けた部分によって症状が変わってくる。
・運動性失語(ブローカ失語) 言葉は理解できるが、発声となると難しくなっている。 『みかん』と言えば理解は出来るが、自身で発声をすると『みたん』などと少し違った発声をしてしまったりする。
・感覚性失語(ウェルニッケ失語) 自分から話すことは出来るのだが、相手の言葉が上手に出来ないというタイプの失語症である。 話は滑らかだし、リズムやテンポも問題ない。 しかし、言い間違いや支離滅裂になってしまうことが多い。 認知症を疑われてしまうこともある。
・全失語 運動性や感覚性失語を併せ持った症状。 「話す」「聞く」「読む」「書く」などの全てに重度の障害を持った人を言う。
・伝導失語 発話する能力が残っているが、聞いた言葉を正確に繰り返すことが出来ない。 「みかん」を「みたん」と言ったような音韻性錯誤が頻繁にあらわれていく。 やがて、出来なくなって諦めてしまうこともある。
・健忘失語 知っている単語、特に名前などや特別な言葉を思い出せないこと。 意味や使い方を分かっていても、これらを言い表すことができない。 「ペン」という物が理解できていても、実際に「ペン」と言ったりすることができない。 普段の生活の中でも『あれ取って』などと言ってしまう事もあるが、失語症とは別である。
これらの症状は、脳の損傷があった場合が多い。 病院に行き、言語聴覚士などのリハビリを受けるのが良いだろう。
撫子は失語症を相手にしたことはないが、ストレスから言葉を発せなくなった人へのカウンセリングもしている。 だいたいの区別がついていたのだ。
失語症や、ストレスからの発話障害にもリハビリが必要だ。
簡単な質問などをし、「はい」「いいえ」などで簡単にできるところから始めていく。
(博さん……) 撫子は、博の手を握って救急車を待つのであった。




