第四十二話 海辺に消ゆ(上)
第四十二話 海辺に消ゆ(上)
「おはよう♪」 撫子が出勤すると、小坂がパソコンにかじりついている。
「おはよう、由奈…… 何を見ているの?」 撫子がパソコンをのぞき込む。
「これね、自助のサークルのブログなのよ。 色んな悲しみを背負った人を支え合うサークルみたいなものよ」
「確か、ダルクとか自助グループがあるのよね」
近年、自助グループの数が増えてきている。 グループも細かく分けられて『薬物から抜け出したい』『ギャンブルから足を洗いたい』『恋人や家族との別れを癒やしたい』 などと、ジャンルでの自助グループがある。
「ウチもできないかな~ってさ……」 小坂がグループを確認していると、
「なんか、由奈の方が代表みたいね」 撫子はクスッと笑う。
“ピンポーン” 朝の九時過ぎ、早々に事務所のチャイムが鳴る。
「由奈、こんな時間に予約あった?」 撫子が訊くと、小坂は首を振る。
「はーい」 撫子は慌てて入り口を開けると、
「すみません、早くに……」 一人の女性が頭を下げる。
「いいえ、寒い中 よくいらっしゃいました。 どうぞ中へ……」
撫子が小坂のブースへ案内すると、
「良いの?」 小坂が撫子と目と目で話すと、撫子は笑顔で頷く。
小坂の給料は歩合制であり、少しでも多く給料を渡したいとの思いだ。
「よく、いらっしゃいました。 はじめまして、心理カウンセラーの小坂です」
小坂は資格者証を見せ、頭を下げる。
「こちら、問診表になります。 書き終えたらカウンセリングが始まりますので、ごゆっくりお書きください」
小坂はクライアントが書き出すと同時にタイミングを図る。
しばらく見ていると、小坂が何かに気づき合図を始めた。
撫子は小坂の合図を見ると頷く。 そして店舗の窓側のブラインドを下げて、やや暗くなるように環境を整えだす。
この小坂の合図は、『重い話になるから、眩しい光は避けるように』の合図だった。
撫子も重い話にはカーテンをしめてカウンセリングをしていた。
眩しい光は健康に良いのだが、重い話をしたくても出来ない場合があるからだ。
すこし陰っている方が話しやすくなる配慮である。
真剣な話を外でする場合、光が降り注ぐ場所より木陰の木漏れ日が入る程度の方が良い。 そのシチュエーションも演出するのだ。
(この方が話しやすいでしょうか?) 小坂は満足げでクライアントを見つめる。
石橋 加奈 二十六歳。 会社員である。
「それではカウンセリングを始めます」 小坂と石橋は礼をする。
チラッと小坂が石橋を見る。 石橋は大人しそうな清純そうな女の子だ。
「あの……恋人を忘れたくて来ました。 踏ん切りをつけようと、アドバイスを貰いにきまして……」
「そうなんですね。 踏ん切りをつけようと思ったのですね……」
小坂は詳しく聞いていくことにする。
石橋は、長く付き合っていた彼氏が亡くなってしまったということだ。
突然の事故で彼氏を無くした石橋は、涙ぐんで話してくれている。
(さっき、由奈が見ていた自助グループと同じか……)
「どうしたら前を向いていけるか……」 これは石橋にとって落胆でもあり、苦しさからの悲痛の叫びにも聞こえる。 小さな声だが、小坂と撫子にも伝わってくる。
失礼かと思うのだが…… 小坂や撫子は、お互いのカウンセリングを裏から聞いている事が多い。 手が空けばサポートや勉強の為に聞いてはメモをする。
こうして高めあっているのだ。
「そうですね……前を向きたいのですよね。 こういう悲しみを短時間で解決するのは難しいですよね……」
小坂は小さい声で相槌を打つ。
「今、思い出の品とか持っていますか?」
すると、石橋がバックから二人の写真を取り出す。
「優しそうな彼ですね……」 小坂が呟くと、石橋は涙混じりに笑顔を出す。
「とても優しかったです……」
ここから数分の沈黙が流れる。
このカウンセリングは『グリーフ』という。
グリーフとは、何らかの形で『失った』という経験で深い悲しみの感情を指す。
一般的には『愛する人との死別』を意味するが、
・離婚や別居 ・失業 ・健康や身体機能の喪失 ・生活環境の変化 ・ペットの死 なども含まれている。
石橋の場合、愛する者を失ったことによる喪失感である。
「彼氏さんは、いつ頃に亡くなられたのでしょうか?」
「半月前です。 それから立ち直れなくて、家に引き籠もっていました」
「それで、何かを変えようと覚悟した訳ですね?」
小坂が慎重に言葉を選ぶ。
このグリーフには段階がある。 これは、『キュブラー・ロスの5段階モデル』というものである。
1 否認 (Denial)現実を受け入れられない状態。 喪失が実際に起こったことを信じたくない感情。 これは自身が大病を宣告された時なども同様な感情になりやすい。
2 怒り (Anger)なぜ、自分がこんな状況に陥ったことという怒り。時には亡くなった相手や状況に対して怒りを感じることも。
3 取引 (Bargaining)何かを犠牲にしてでも元の状態に戻りたいと感じ、現実を変えたいという願望。
4 抑うつ (Depression) 喪失感を実感し、強い悲しみや絶望感を抱く。
5 受容 (Acceptance)喪失を受け入れ、少しずつ前向きに新しい生活に適応していく段階。
エリザベス・キュブラー・ロスが提唱した5段階モデルは、グリーフの過程を理解するためのフレームワークとして知られている。
(だいぶ、受容は出来ているのかしら……?) 小坂が石橋をチラッと見る。
「石橋さん……今、彼氏さんには どんな想いでいらっしゃいますか?」
「そうですね……私を置いて行くなんて馬鹿ですよね……」
この小坂の訊き方は、石橋が『どの状態なのか』を探っているのだ。
これは『感情の表出と整理』と、いうものである。
悲しみ、怒り、混乱などの複雑な感情を表現できる場を与え、これらの感情を整理していくことになる。
「そうですよね…… こんなに想ってくれる石橋さんを置いて行くなんて……」
小坂が同じような感情を持ち、同調していく。
「ただ、これだけの愛情が詰まった思い出を忘れることは出来ないと思います。 現状では辛い……しか出てこない事でも、カウンセリングを通して次のステップを踏み出せることを願います。 それで、ゆっくりと思い出などを話してもらえますか?」
このように、次のステージに進む為の準備として思い出を語らせていく。
これは、『怒り』から『取引』や『抑うつ』のステージに入るのを防ぐ為である。
石橋は半月ほど引き籠もっていた。 これは『否認』であり、現実から目を背けていた為に家から出ていない。 そして、現実を実感する事により『怒り』や『取引』、『抑うつ』などが交互に押し寄せてくる。 つまり、心が耐えきれずに『現実逃避』に近い感情になってしまったのだ。
小坂は、この繰り返す『現実逃避』を避けたいと思って提案をしている。
このカウンセリングは、原則に従っての王道のカウンセリングなのだ。
(きっと由奈ならグリーフを上手に出来る)
撫子は、二人の会話を聞いていく。




