第三十九話 卒業
第三十九話 卒業
季節は冬になりはじめ、世間はハロウィーンやクリスマスの賑わいを感じ始める。
「由奈、クリスマスは予定あるの?」 撫子がコーヒーを飲みながら訊いていると、
「予定ね~ ちょっと待って」 そう言って、小坂はノートパソコンを開く。
「予定、パソコンで管理しているの?」 撫子が不思議そうな顔をする。
(普通、自分の予定ってスマホや手帳じゃない?)
そう思っていると、小坂が覗いていたのは『てのひら』の予約だった。
「そうね……予定は入ってないけど、どうしたの? 新規? 外来?」
すっかり小坂は「仕事の鬼になっていた」
(すっかりバーンアウトもなく、立ち直ったな) 撫子がホッとしていると
チャイムと同時に声が聞こえる。 坂下 優実である。
「こんにちは……」 この日の予約は坂下だった。
「坂下さん、こんにちは。 お待ちしておりました。 奥のブースへどうぞ」
坂下は、頭を下げて中に入っていく。
(坂下さんか……確か、お母様の認知症から鬱になった……)
小坂は撫子のファイルも全て読んでいた。 いつ代打で出ても大丈夫なように準備している。
「では、始めます。 よろしくお願いいたします」 撫子の声でカウンセリングが始まる。
「では、この前からの続きをしましょう」
「ちょっと待ってください」 撫子の言葉を遮るように、坂下が口を挟む。
「??― どうされました?」 撫子がキョトンとする。
「これが言いたくて……」 坂下が笑顔を見せると
「はい……」
「あの、新店舗おめでとうございます」 坂下が満面の笑みになると、
「ありがとうございます。 ビックリした~」 撫子も笑顔で応える。
そんなことからカウンセリングが始まる。
「前回、履歴書を書きましたね。 数枚、印刷をしましたが書けました?」
「はい。 コレです」 坂下が書いた履歴書を出す。
(うん。 しっかり書けてる) 撫子は5枚の履歴書を見比べる。
この5枚の履歴書を細かくみるのも大事なのだ。
名前、生年月日、卒業した年などを細かくみる。 これは、生年月日が違えば双極性障害などのパーソナリティ障害を疑わなければならない。
些細な見落としが、改善されてきた坂下を振り出しにもどさなくてはいけなくなってしまうからだ。 なんとなくで流してしまうと、後から大変になってしまう。
撫子は、笑顔を見せながらも厳しくチェックしている。
「よかった……」 撫子が胸を撫で下ろす。
「ははは……ありがとうございます。 久坂先生のおかげです」 坂下は頭を何度も下げていた。
「ところで、お母様……智子様のご様子は如何ですか?」
「はい。 元気にデイサービスに行っています」
この会話からでも撫子は安心していた。
(よかった。 前は智子さんの話をすると機嫌が悪かったのよね…… もうイライラしなくなったみたい)
これは坂下だけの問題ではない。 全国には数百万人の認知症患者や予備軍が潜んでいると言われている。
当然ながら、以前は出来ていたことも出来なくなる。 それを見て家族の機嫌が悪くなるのも不思議ではない。
以前は優実もそうだった。 イライラした様子で、仕方なく連れてきたカウンセリングが始まりだった。
「では、優実さん……楽しみは持てましたか?」 撫子がペンを持って構えると、
「はい。 履歴書を書いてから仕事を探すのが楽しみになってきました」
優実はワクワクした様子だ。
「それで、どんな仕事を?」
「コレです……」 優実がスマホを見せると、スーパーの品出しや軽作業の募集の記事だった。
「いいと思います」 撫子は笑顔になる。
(これでいい……品出しだって立派な仕事だ。 勝手に自分を持ち上げて、「こんな簡単なのじゃ……」と、思うより、しっかり地に足をつけている)
こうして撫子が次に目を向ける。
「応募されます?」
「今ですか?」 優実が驚いた表情をみせると、
「はい。募集の枠も決まっているでしょうし、早めの方がいいかと……」
撫子は軽く手でスマホを指さし、促してみる。
これは実践である。 言葉だけを信用してしまうと、これで満足したようにズルズルと応募をしないで過ごしてしまうからだ。
「はい……」 優実が応募のボタンを押すと、撫子の目から涙が溢れてくる。
「久坂先生?」 優実は、慌ててバックからハンカチを差し出すと、
「なんか嬉しくて……」 撫子は優実のハンカチを丁重に断り、ティッシュで涙を拭う。
「……」 裏で聞いていた小坂も涙ぐんでいた。
そして小坂が 「これ、どうぞ……」 そう言ってコピー用紙を撫子に渡す。
それは『振り返りシート』というものである。
これを記入し、『どこで自分が変わってしまったのか』『どこのボタンを掛け違えたのか』を知っていくシートである。
その時を思い出し、優実が記入をしていく。
・あの時、自分がどのように感じて行動したか。
・あの時と比べて、今の自分の心境が変わったのか
このような事を書いていく。
そして、書いた紙を持ち帰って見直すことも出来るようになっていく。
優実が嬉しそうに書いていると
(こんな素敵な笑顔になっている……)
撫子も嬉しそうに見つめている。
これはカウンセラーにとって、最も大事な時期であり感動も味わえる時でもあった。
「書きました……先生」 優実は笑顔だった。
「はい。 凄く素敵に書いてくれましたね……」 撫子が拍手をすると、後ろから小坂も拍手をしている。
「なんか恥ずかしいです」 優実も涙を流し始める。
「それは優実さんが長い時間を掛けて頑張ったからだと思います」
撫子の言葉に、小坂と優実が頷く。
「この紙は持って帰ってくださいね。 私たちのファイルには記録することはありません。 ただ、こうして優実さんと向き合えたことは忘れませんので……」 撫子が最大の賛辞を送ると
「先生……」 優実は涙が止まらなくなっていた。
「また困ったら来てくれれば……」
こうして『てのひら』から新しい卒業生が誕生した。
「ナデシコ、お疲れ様……」 小坂がコーヒーを淹れて、テーブルに置く。
「本当に良かった……」 撫子は、まだ余韻の中だった。
「ささっ― 押して♪」 小坂が紙とスタンプを渡すと
「そうだね……」
撫子は、最後のファイルに『完了』のスタンプを押した。
「良かったね♪」 撫子や小坂は、客が減ったのに上機嫌である。
これも仕事の『やり甲斐』なのであろう。
そんな楽しい気分に突然やってくるのが外来だ。
“ピンポーン“ チャイムが鳴ると、小坂が玄関まで向かう。
「すみません…… ご相談がありまして、今からでも受けれますか?」
「はい。 初めての方ですよね? こちらにどうぞ」 小坂が自分のブースに案内する。
「よく、いらっしゃいました。 それでは問診票がございますので、ゆっくりお書きください」
突然やってきた外来は 橋本 佐知 33歳。
橋本が問診票を書いている時間、小坂が黙って見ている。 撫子と同様に呼吸を合わせている。
(コーヒーで良さそうかな……) 今度は、撫子がコーヒーを淹れに向かう。
「お待たせしました」 橋本が問診票を渡すと、
「それよりカウンセリングを始めます。 よろしくお願いいたします」
「早速ですが、困ってしまって……」 橋本が表情を変え、暗い表情になる。
「困っていることがあるのですね……どんな事に困ったのでしょうか?」
橋本が困っていることを話す。 それは「カウンセラーを替えたい」ということだった。
その後も橋本が話していると、撫子は難しい表情になる。
「カウンセラーの交代は仕方ありませんよ。 橋本さんに合う、合わないがありますから……」 小坂が説明すると
「わかりました。 これから請け負っていただけますか?」
「かしこまりました。 ここも私だけではなく、隣のブースには久坂も居ますのでご安心ください」 小坂が頭を下げる。
「それで、時間もありますので問診表から書いてみましょうか?」
小坂が用紙を置くと、橋本が書き出す。
実際、カウンセリングをする場所は数多くある。
病院、クリニックの中にもある。
しかし、本当にカウンセラーとクライアントの相性を考えると難しいものがある。
それは、話す側と聞く側の意思疎通が読み取れるかによってしまう。
心身が衰弱している中、言葉だけを待つカウンセラーもいる。
また、価値感を押しつけてしまうカウンセラーもいる。
そうなると信頼関係の構築も難しくなってしまい、だんだんとクライアントの足が遠のいてしまうのだ。
卒業を目指すカウンセラーとクライアントは、心での二人三脚を行わなければならない。
小坂は覚悟を持って問診表を見ていた。




