第2話:奇跡の噂と、女神のいたずら
エリシアが辺境の村に来て、わずか十日。
それだけの短い期間で、村の空気はがらりと変わっていた。
「お嬢さんが住み始めてから、雨がちょうどいい具合に降るようになったんだよ」
「畑のじゃがいもが、今年はまるまると育ってなあ。虫食いもないし、不思議なもんだ」
「腰の痛みもなくなってきた気がするの。ほら、あの人に触れてもらった日から」
――そんな噂が、まるで草花の種のように、村中に静かに、しかし確実に広がっていった。
当の本人、エリシアはというと。
「今日は雑草抜き……明日は肥料の配合を試してみようかしら」
庭の片隅にしゃがみ込み、土に触れていた。
王都にいた頃には、使用人の手を借りずに土を触るなど一度もなかった。それが今では、自らスコップを手に持ち、毎日畑の世話をしている。
だが、それを村人たちはこう見ていた。
――『聖女が土地を清めておられる』と。
どれだけ説明しても、「あれはただの園芸趣味です」と言っても誰も信じてくれない。
「エリシア様がお撒きになった灰で、土の精霊が蘇ったそうだ」
「手から光が見えた気がした! 絶対、神聖魔法よ!」
「畑の野菜がまるで祝福されたように甘くなってる。絶対、神の加護だって!」
(お願いだから、誤解はほどほどにしてほしいのだけれど……)
エリシアはこっそり頭を抱えていた。
だが、彼女が知らないところで――否、本人が最も知らないことがひとつある。
この世界には八柱の神が存在するが、うち三柱がエリシアに寵愛を与えていた。
◇ ◇ ◇
その日、空の上では小さな会話が交わされていた。
『ふふっ、かわいいわねえ、あの子。畑に向かって真剣に祈ってるフリしてるの』
『あれは祈りじゃなくて、ただの施肥だ。お前が雨降らせるから余計に“神託”っぽくなるんだぞ』
『よいではないか。我らの花嫁なのだ。せめて、この世で愛される姿を見たいではないか』
癒しの神フロウラ。
豊穣の女神ディア。
そして、運命の調律者である影の神アクト。
三柱は天の座より彼女を見守っていた。
『……あの王の目にも、もうすぐ届くだろうな』
『あの子には、幸せになってほしいだけなのに。なのに、どうして人間は“追放”などと口にするのかしら』
『それが人の愚かさだ。だが――愚かながらも面白い。まもなく、運命が大きく転がるぞ』
その“転がる”瞬間は、数日後に訪れる。
――最強国家《アスヴェルト王国》より、密命を帯びた使者がこの村へ向けて旅立った。
目的は、ただひとつ。
「“奇跡の令嬢”とやらを、王の元へ連れてくること」
運命の歯車が、静かに、だが確かに回り出していた。