草葉の陰でプロポーズを
――ホスピス患者の涙のわけを、誰も知らない。ここには終末期の患者ばかり。泣いている理由もおのずと察しがつく。これまで女の涙を見た者はなかった。末期がんの苦悩に喘ぐ時も泣かないと評判の女。ところが、その死顔には涙の跡が……。それを見て憶測が飛びかった。「さすがに、断末魔の苦しみには根をあげたか」「いや、短い生涯への嘆きにちがいない」 勝手な噂が拡がる。それが、うれし涙とは誰も知るよしがなかった――
Ⅰ――1度目のプロポーズを断った理由は愛ゆえに
「ぼくの子どもを産んでくれ。三人はほしいな」
愛しい人のプロポーズに、なぜか彼女は泣きだした。
「ごめんなさい」
断られるとは想定外で、男はうろたえる。
「どうして」
彼女の涙をぬぐう男も泣いていた。
「なにも聞かないで」
やさしい腕をふりほどき、駆け出す彼女。それっきり男の前から姿を消した。
Ⅱ――2度目のプロポーズを断った理由は、自分の苗字を守るべく
「僕が悪かった。あんなプロポーズは君を傷つけただけだ。不妊症と知って、死ぬほど後悔したよ。子どもなんていらない。ぼくと結婚しよう」
ようやく女の行方を探し出した男が、二度目のプロポーズ。
「あなたがよくても、ご両親が許さないわ」
「説得した。しぶってたおかんも、最後には許してくれたよ」
「そんな……母親なら利己的でいいのよ。でなきゃ、若者はみんな戦争にとられてしまうわ。ましてや、孫の顔見たい気持ちは山々のはず」
姑への申し訳なさで一杯だった。だが、彼女を勇気づけようとする魂の一言が決め手となる。
「だいじょうぶだよ。君はひとりじゃない。ともに生きて行こう」
うれし涙が女の頬をぬらす。
「そうね。失くすものは何もない。あなたがいれば恐れるものはないわ」
めでたく婚約したふたり。だが、結婚の準備をすすめるうちに法の壁が立ちはだかる。
「ごめん。失くすものひとつだけあった。結婚には自分の苗字を捨てなきゃ」
「通称として旧姓を名乗ればいい。企業も行政も、どんどん通称の併記が普及しているらしい」
「日本で普及したとしても、海外じゃ無理よ。友達が海外で通称を使ったら、パスポート没収されたって。うちのオフィス、海外出張多いし……。それに亡くなった父が三日三晩『命名画数事典』と首っ引きで考えてくれた名前だから、だいじにしたい。血のつながりのない父を<名づけ親>って親にしてあげられる名前なの。それに名づけ親は父親だけど、名前はご先祖様からのプレゼントだって聞いたわ。アイデンティティを失くしたくないの。ごめんなさい。あなただけじゃない。私は誰とも結婚できないわ」
「あきらめるのは早い。世界中で名前を変えなきゃ結婚できない国は日本だけだ。国連からも<選択的夫婦別姓の法制化>を再三勧告されている。さすがに国も動くさ。法律が許せば、もう一度プロポーズする。それまでは事実婚で耐えよう」
社会的不利益の多い事実婚をふたりは選んだ。ところが、女にステージ4の末期がんが見つかる。ホスピスに入院。
Ⅲ――3度目のプロポーズを断った理由は、男の苗字を守りたくて
「法の許可が下りてから、再びプロポーズする約束だったけど、今する。僕が苗字を変えればいい。もっと早くそうすべきだった。九割方女性が改姓するから、男が変えるって発想がなかった。とっくの昔に廃れた家制度の亡霊社会に、憑りつかれていたんだ。
そうしていれば、命がけの手術にも立ち会えたし、いっしょの保険にも入れた。何よりも今後、君の病状が急変して家族以外の面会謝絶となれば、永遠に会えなくなってしまう。考えただけで気が狂いそうだ。一秒でも早く結婚しよう!」
女は黙って、首を振った。
「だめよ。私の姓と同じくらい、あなたの姓もだいじなの。ご先祖様がくれた大切な苗字よ。だいじにして」
その後、女は危篤状態に陥って面会謝絶に。別姓では正式な夫婦と認められず、男が生きている彼女に会うことは二度と叶わなかった。
Ⅳ―――結婚できない女たち
危篤状態から脱して、ひとり目覚める女。夢を見ていたみたい。初デートで待合わせの夢。約束の時間より早くつき、木陰から恋人の様子をのぞきこむ。
「これが私の運命の人?」
自由意志の介在しないお見合いみたいなセリフに自身が驚く。自分から好きになったのにね。ただ、お見合いとちがうのは仲人の引きあわせじゃなく、天命が引きあわせてくれた縁だと直感した。
運命の人からのプロポーズを三度断ってしまったのね。待ち焦がれた瞬間のはずなのに。最後の最後まで、あの人を傷つけてしまったわ。女はためいき。もう一つの人生を思い浮かべてみた。苗字へのこだわりを捨て、あの人と真の夫婦になる夢。だめね。どうしても、アイデンティティを捨てきれない。
Ⅴ―――「家制度」のゾンビ政治家たち
動かない国に、手をこまねいていたわけじゃないわ。女性の政治家ならわかってくれると、みんなで陳情に行った。
「姓を変えるのがいやなら、結婚しなければいい」
軽くあしらわれた。
「婚姻の自由は憲法で定められた基本的人権なのに……。別姓という選択肢があれば、私たち別姓婚待ちカップルは結婚できるんです」
反論しても、聞く耳をもたない。
「少数派に使う税金はございません」
一蹴された。
「事実婚を選んだ別姓婚待ちカップルは少なくとも五八万七千人。それに人権は、多数決で奪うことは断じて許されないものなんです」
必死でくいさがる代表者に女性政治家は言い放つ。
「じゃあ、子供の人権は? 日本の未来を担う子供たちをないがしろにしろと?」
子供を引き合いに出されると女は弱い。たとえ、子供ができない身であっても。子宮あたりを抱きしめ、すごすごと引き帰した道。
今、ふりかえる。あの戦いは何だったのかしら? 私だけじゃなく、五人に一人は夫婦別姓を望む社会。世論の六割方賛成の制度。戸籍だって、前世紀の昔に、別姓での管理可能なシステムが出来上がっているわ。改正法案だけが宙ぶらりんのまま国会に提出されず。三十年近く時が凍結している。どうして同じ苗字でなきゃ真の夫婦になれないの? 日本の伝統? 家族の絆? 親とちがう苗字の子供の身にもなれ? 壊れた蓄音機みたいに声高にリピートする「夫婦別姓に反対し家族の絆を守る国民委員会」。あなたたちを否定するわけじゃないわ。誰でも意見をもつのは自由だもの。だから、ちがう意見の私たちにも幸せの権利を認めてほしいだけ。
Ⅵ―――唯一、婚姻の自由が叶うお墓へ
いつもなら虚しく響くけど、今はなぜか満ち足りている。死が近づいているせいかしら。「墓地埋葬法」には同姓か別姓かの制限はないという。誰と埋葬されるかに苗字は問われないの。憲法が保障する婚姻の自由が叶う場所は、ただひとつ。それがお墓なら早く入りたい。きっと、もうじきね。悪いけど先にいくわ。
これからは、自分の人生を生きてね。いい人に会ったら結婚して、子宝に恵まれたらいいわね。だけど、巡り会えなかったら、もう一度プロポーズしてくれる? お墓の中なら、お受けできるわ。三度もプロポーズしてくれて本当にありがとう。
女の手から、ぽとりと落ちたペン。ノートに残された文字が滲じむ。微笑む死顔に光る雫。それをうれし涙と知るのは、窓外の夕月だけだった。
●参考文献
「月間金曜日」(株式会社金曜日)
「月間連合」(日本労働組合総連合会)
「東京新聞」2025.4.21