8)人魚姫は、帰れない
その日、夜会から逃げ帰った私の元へ、カジキのジルがすごい勢いで泳いできた。
「アリア姫、海王陛下が姫のお顔をご覧になりたいと仰っております。つきましては、3日後の月出る刻に、北海へとお戻りいただきたく存じます」
ジルは、それだけ告げると返事も聞かずに帰って行った。
私の返事など必要ない。この海で、海王の言葉は絶対だから。
「騙されて婚約したこと、知られちゃったのかな。お怒りになってるのかしら。それとも呆れている?とにかく帰らなくてはね。気晴らしに遠泳したかったから、ちょうど良いわ」
ルーが、私にそっと寄り添ってくれる。私はそのつるりとした肌に頬を寄せ、しばらく目を閉じた。
このまま遠くの海に行けたらいいのに。誰も私に干渉しない遠い遠い海で、ルーと二人、気ままに泳げたら。
そう思うのに、どうしてもセオドア様の瞳が浮かんでしまう。
冷たい海水に揺蕩いながら、私は少し眠った。
◇ ◇ ◇
出発こそ憂鬱ではあったけれど、帰省の旅は思ったよりも愉しかった。
ルーはあの夜のことを聞かなかった。私も話さなかった。
私はセオドア様のことも不愉快な婚約のことも、そして父のことも忘れて泳ぎ回った。
そう、いつもと違う海の、いつもと違う生き物や空の色に夢中で、何もかもを忘れて泳ぎ回った。
そう、何もかもを―。
夢中になった私は、何で遠泳に出たのかをすっかり忘れてしまったのである。
3日目の陽が沈みかける刻に、ルーが「もうすぐ北海に着くの?」と聞いた。
その時、私たちは目指していたはずの北海とはまったく違う場所にいた。
ルーは、北海を出てから知り合った親友だ。北海に行ったこともなく、もちろん路も知らない。ただ私について泳いでいたらしい。
顔を見せ始めた月を見て、私がぶるりと身震いをした。これは本格的に怒られる。
私たちは全速力で、北海を目指した。
◇ ◇ ◇
「ねえ、アリーのお父さまってそんなに怖いの?」
泳ぎながらルーが心配そうに聞いてくる。私の顔がよっぽど強張っていたのだろう。ルーの顔も心なしか硬い。
「んー。海王だから厳しい面も勿論あるわ。でも基本的には誰にでも優しいし、笑顔で対応する穏やかな方よ。ただ、何故か私にはいつも険しいお顔で、話しかけてもろくなお返事がもらえないの。理由は分からないけれど、ある日突然そうなってしまって。私のこと、お好きでないのかも。だから私は北海を出て、遠い海に出たのよ。でもそこで貴方に会えたから、ラッキーだったわ!」
そう言って1度スピードを緩めると、ルーの鼻先をそっと撫でた。
「貴方がついてきてくれて、本当によかった…。さて、北海まではもう一泳ぎよ!」
しんみりとした波を遠くへ追いやるように、私たちは強くヒレを動かした。