7)人魚姫は、耐えられない
怒りと悔しさで取り乱しそうになるけれど、仮にも北海王家の姫。笑顔のまま、会場から上がった拍手に、手をふって応える。
あれ、このままだと婚約を取り消せなくなるんじゃない?
まあ、いいか。
どうにもならなかったら、遠い海に行けばいい。
人魚は、自由だ。
私は考えることを放棄した。
◇ ◇ ◇
楽団が音楽を奏で始め、王子様が「踊っていただけますか、姫」などと仰々しく礼をとる。
悔しいけれどこの場では、私たちが踊らないとダンスが始まらない。仕方なくその手をとって、ホールの真ん中へ躍り出る。
「ねえ、この夜会で婚約を発表するなどとは、聞いていないのだけれど。あの詐欺みたいな婚約は、取り消してほしいとお伝えしたはずよ」
ダンスのために距離が近づいたときを逃さず、笑顔を保ったまま小さな声で抗議する。
「言ったら来なかっただろう?過程はどうあれ、確かに書類に君のサインが入っていて、国王陛下の承認印が押され、神殿で大切に保管されている。君がなんと言おうが、我々は立派な婚約者なんだよ」
彼もこちらに顔を寄せ、こちらを諭すようにゆっくりと応えた。顔を寄せたことで、彼に似合うスパイシーな香りが鼻をかすめて、うっかり頷きそうになって、その手に軽く爪をたてる。
「一応お伝えしておくけれど、人魚の肉を食べて不老長寿になるなんて、ただの迷信よ。私を食べてもお腹を壊すだけ。やめた方がいいわ」
私たちを捕まえようとする人間は大抵、不老長寿の夢を見ている。
たまに観賞用とか鱗が欲しいとかいうことも、あるみたいだけれど。
「知っている。俺は不老長寿などに興味はないし、君の肉は食べるつもりもない」
彼はそのキリっとした眉を軽くしかめた。この距離でないとわからないくらい、軽く。でも確かに不快だと伝わってくる程度にはしっかりと。
「じゃあ、何故、こんなに強引なことをするの?」
彼と出会ってから今まで、どのような形であれ、彼は笑みを崩さなかった。どんなに失礼なことを言っても、彼が不快感を示したことはなかった。初めて見るそんな表情に驚きながら、彼の瞳を見つめた。
彼も私の瞳をしっかりと見つめ返す。そこに映る私の表情まで見えるくらい、その瞳は澄み渡っている。
ダンスの為に握る手に、彼がそっと力をこめる。
「君を好きだから。傍にいて欲しいから。君のよく変わる表情を一番近くで見ていたいし、その流れる髪の毛に触れる権利が欲しいから。ただそれだけだ。アリー、愛してるよ」
始めて真摯に告げられた言葉に、一気に顔が熱くなる。胸が激しく鼓動して、その勢いでまろびでそうなほど。彼は私から目をそらさず、私もその瞳から目をそらすこともできない。
突然、そんなこと言うのは反則だ。
いや、この人はずっと、私に真摯に接してくれていた。
その瞳をずっと私に向けていた。ただ、私がそこから逃げていただけ。何のかんのと言いながら、気が付かないふりをしていただけ。
そう気がついたらもう、彼の顔を見ることはできなかった。
曲の終わりを機に、退席の挨拶をして、私は一目散に海に逃げ帰った。