牡丹
暖かな日の光が心地よい中奥では
御浜御殿定例御前会議が
開かれていた。
春生まれの熙子の誕生日を祝う為に。
家宣の前には
御浜御殿奉行
船手奉行
御膳奉行
御側用人越前守らが
書類を手に報告と意見を交わしていた。
家宣も熱心に細かな指示をしている。
あの躑躅の散策の
投げやりだった家宣とは
別人のようである。
抑えているのに
溢れ出る熱意が伝わってくる。
後ろに控えている
御小姓の田中と佐々木は
”いつもの上様だよな”
”ああ”
という暗黙の目配せをし、頷き合う。
近々
熙子を伴い御浜御殿へ御成り予定なのだ。
その打合も兼ねている。
御浜御殿は江戸湾を臨む
特等席の
大庭園や将軍専用の船着き場を持つ。
元々甲府宰相家の別邸だったが
家宣が将軍になったことで
将軍家別邸に組み込まれた。
新婚の頃から
数えられないほど多くの時を過ごしてきた
特別な別邸である。
久しぶりの御浜御殿訪問とあって
趣向を凝らした演出にすべく
入念な打ち合わせがなされていた。
「上様、
こちらが御下命のお品でござりまする」
御膳奉行の小倉が昼餉の御品書と
御菓子の見本を
家宣に献上した。
御小姓の田中が受け取り
家宣の前に置く。
家宣は手を伸ばし目を通した。
長い紙には料理名が書かれ
絵が添えてあった。
筍飯
昆布締めの鯛の御造り
眼張の煮付など
春らしい品揃え。
どれも熙子の好物ばかりである。
三種類の用意された御菓子も
一口づつ味見すると
満足そうに頷いた。
「うむ、なかなかに良い。
小倉、大儀である。来る日も頼むぞ」
御浜御殿御成りが待ちきれない家宣を
その部屋にいる者達はみな察して
微笑ましい気持ちであった。
数日が過ぎ
御浜御殿御成りの日がやって来た。
澄み渡った青空が爽やかな日。
家宣は総振れが終わると
着替えのために一度中奥に戻った。
着替えを手伝う
御小姓の田中と佐々木は気づいていた。
家宣が浮き浮きしていることを。
田中と佐々木は目配せをし
頷き合った。
家宣の側近くに控えている越前も
微笑みながら着替えを見守っていた。
主君の幸せそうな様子が
家臣として心から嬉しかった。
手早く着替えを済ませると
家宣は足取りも軽やかに
再び大奥の熙子の部屋へ向った。
その後ろ姿からは
聞こえない鼻歌まで聞こえてきそうである。
御台所御殿の熙子は脇息にもたれ
家宣を待っていた。
御成りの声を聞くと熙子の顔が華やぐ。
そして居住いを正して家宣を迎えた。
「熙子、支度は整ったか?」
「はい、上様」
「うむ、それでは参ろうか」
家宣は熙子の手を取り立ち上がった。
御年寄花浦の先導で
家宣と熙子たちは御殿の奥の秘密の扉をくぐる。
その先には万が一の有事に備えた
脱出口も兼ねた船着き場があった。
扉の外には
既に越前や田中らが待っていた。
一行が素早く船に乗ると
滑るように動き出す。
御浜御殿御成りは
娯楽を兼ねた定期訓練でもある。
御座船の中は花鳥風月の絵が書かれ
豪奢な飾り付けがされているが
居間のような寛いだ造りになっていた。
家宣と熙子は
ゆったりと仲睦まじく並んで座る。
開け放した窓の外は
のんびりとした江戸の運河の景色が流れ
二人の頬を麗らかな心地好い風が撫でた。
海が近づくにつれ
遠くに鷗が飛んでいるのが見えると
熙子は少しだけ窓に近寄って鷗を目で追う。
「上様、ご覧になって。
あちらに鷗が。美しいこと。
どこにいくのでしょう」
「はは。浜御殿に先に着いて
そなたを待っているやもしれぬな」
家宣は熙子の肩を優しく抱いて
共に鷗を眺めた。
海のない京の都には鷗はいない。
熙子にとって
鷗は江戸を象徴する鳥だった。
瑞々しい感性を持つ熙子が
家宣は愛しくてならない。
花や鳥や自然を愛でる熙子を。
小一時間ほどの遊覧で
御浜御殿の将軍専用船着き場である
御上がり場に着いた。
家宣はいつものように振り返り
「熙子、気をつけよ。手を」と
自らの手を差し出す。
熙子は「はい」と愛らしく答えると
家宣の手に白くしなやかな美しい手を置く。
降りきる時には
万が一熙子が態勢を崩さないよう
肩を抱き支え無事に熙子が降り立つと
二人は目を合わせて微笑み合った。
将軍御上がり場には
御浜御殿奉行ら大勢が控えていて
将軍夫妻を恭しく出迎える。
熙子は久しぶりの御浜御殿の庭を見渡すと
うっとりと深く潮風を吸い込んだ。
「よい潮の香りがいたしますこと」
そう呟く熙子を
家宣は甘い視線で見つめる。
「熙子は海がまことに好きであるな」
熙子は家宣こそ
爽やかな潮風が似合う殿方だと思っている。
家宣は舟をこよなく愛しているから。
熙子にとって解放的な雰囲気の御浜御殿は
江戸を楽しみ気分転換できる
特別な場所だった。
そんな熙子を連れ出すことが
家宣にとって楽しみであり趣味でもある。
いや、家宣の最高の趣味は熙子であった。
家宣は熙子が転ばぬよう
並んでゆっくりと歩く。
二人の思い出の詰まった御浜御殿。
一行は手入れの行届いた
防風林の松林に沿って庭の奥に進んでいく。
若々しい松葉はきらきらと光を纏い
潮風に揺れている。
二人の久しぶりの訪れを
庭も喜んでいるかのように。
家宣と熙子は
時折見つめ合いながら優雅に庭を歩く。
松林を抜けると
小高い傾斜に色とりどりの
大輪の牡丹が一面に咲き誇っていた。
白、淡い紅色、濃い紅の牡丹。
近衛家の紋章の花の牡丹。
家宣が新婚の熙子の為に
最初に造った花園である。
熙子は
美しい牡丹の花々に目を見張った。
「なんて美しいのかしら。
上様、今年の牡丹も見事に咲いておりますのね」
毎年株を増やして
年を重ねるごとに見事になってゆく牡丹園。
熙子のうっとりと喜ぶ姿が
家宣には何よりも嬉しかった。
牡丹園の向こうには池があり
道に沿って青い花を咲かせた燕子花が目に涼やか。
奥には睡蓮の淡い桃色の花が所々にが浮かんで
その間を錦鯉が優美に泳いでいた。
熙子は目を輝かせて歩く。
庭に夢中な熙子がうっかり転ばぬよう
家宣は熙子の肩を抱いている。
時折、熙子の顔を覗き込む家宣。
熙子と共に庭の花を愛でる幸せに
家宣の方が浸っていた。
池を過ぎ
赤や赤紫、白い花盛りの躑躅の森を抜け
大きな藤棚のある御茶屋に着いた。
藤棚には満開の藤の花が咲いている。
御茶屋には、既に昼餉の用意が整っていた。
席につくと家宣が熙子をいたわる。
「城から出るのは久しいが、疲れてはおらぬか」
「はい、上様。
ここは極楽浄土のように美しくて
心が洗われるようですわ」
家宣ははんなりと微笑む熙子に安心した。
「そうか。存分に寛ぐが良い」
昼餉の膳はどれも熙子の好物なので
また熙子の顔が輝やく。
家宣の目に美味しそうに食事をする熙子が
可愛らしく映った。
のんびりと満開の藤を眺めながらの昼餉を
楽しんだ後、再び庭に出た。
芝生の先には
海水を引き込んだ広大な潮入の池があり
熙子は歩きながら
魚たちを珍しそうに見ていた。
熙子が江戸の魚に興味を示したので
すぐ傍で泳ぐ魚や釣りを見せてやりたいと
海水を引き入れた池に改修した。
家宣の熙子への贈り物は
いつも桁外れに豪勢なものだった。
「次の機会は魚釣りや漁をいたそう。
楽しみにしているがよい」
「まぁ、
どうしてお分かりになるのでしょう。
待ちどおしゅうございます」
ふふと微笑み合う家宣と熙子に
おつきの者達も和む。
潮入の池に浮かぶ御伝い橋を歩いて
汐見の御茶屋に着いた。
ここではお菓子とお茶を楽しみながら
今日の最大の催しを見物する。
御茶屋の傍の船着き場には
飾り立てられた
五隻の大型軍船が繋いであった。
そして家宣の「漕ぎ出せ」の声を合図に
一斉に沖へ漕ぎ出した。
船団の勇壮で華やかなことといったら。
わぁっと歓声が沸く。
その様子を熙子は歌に詠んだ。
「芝の浦に 我が君の声響たり
潮もかなひて 今漕ぎ出でゆ」
熟田津に 船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
額田王が
戦に出向く船を詠んだ歌をもじったのだ。
「武士の棟梁の妻よの。
天晴なり」
家宣がにやりと笑った。
何も言わずとも
舟遊びを兼ねた軍事訓練だと
熙子はわかっている。
食事も散歩も
朝廷の饗応に向けての訓練だとも。
急にできるものではない。
常日頃からの訓練が功を奏し
本番に力を発揮できるのだ。
最大の理解者が最愛の妻である幸運。
熙子はまことに世をわかってくれている
熱い視線で熙子を見つめる家宣だった。
船が沖を一周して帰ってくると
同じ軍艦船着き場から
家宣と熙子たちもまた江戸城へ帰って行った。
夕刻に向かう陽はどこか哀愁を帯びて
水面を綺羅綺羅と輝やかせている。
帰りの遊覧も
浪漫な名残惜しさだった。
熙子が部屋に戻ると
薄紅の大輪の牡丹が床の間に飾ってあった。
家宣からの先回りした贈り物である。
熙子はゆっくりと近づくと傍に座り
牡丹の花にそっと触れた。
今日の御浜御殿の
家宣との幾つもの思い出の場面を
牡丹の花に映したのだった。
熙子の誕生日は三月二十六日
現在の四月下旬に
家宣は熙子や老中達を引き連れて
濱御殿御成をしています
しかも毎年(秋にも)
濱御殿に藤原氏の紋である藤
藤原氏五摂家の近衛家の紋である牡丹
家宣生誕の地である甲府宰相家の別邸根津御殿(現在の根津神社)の象徴の躑躅が咲き誇る頃です
新造した軍艦天地丸や
将軍の御座船の麒麟丸など
軍艦五艘の船を飾りたてて走らせ
その様子を海辺茶屋から臨みました
将軍の誕生日よりも
熙子の誕生日を盛大に祝っていて
とても驚きました
将軍らしい盛大な
華やかな軍事訓練を掛け合わせた誕生祝い
将軍家宣から御台所熙子への
スケールの大きな愛情表現ですね