父
昨夜の冷たい雨が上がり
暖かい日の差し込む御休息之間で
家宣と熙子は
昼餉の後の御茶を楽しんでいた。
顔色の良い家宣に
熙子は内心ほっとしている。
「太閤殿下には湯治に行かれてから
そなたに便りは届いたか」
一息ついた家宣が
優しく熙子に問いかけた。
「はい上様。
先頃、父より文と御土産が届きました。
足が大層楽になったので
上様にくれぐれも
お礼をとのことでございまする」
控えていた御年寄の花浦が
御土産を載せた三方を
二人の前に置いた。
三方には
葵と牡丹が彫られた
対の朱塗りの鎌倉彫の文箱と
箱根の寄せ木細工の箱が置かれている。
家宣は文箱を手に取ると
微かにやんちゃな光を目に宿した。
「後朝の歌を交わすようにとのお計らいかな。
御父上の御心に添うとしよう。
明日からの目覚め時は
楽しみにしているように」
「上様ったら」
熙子が少し恥ずかしそうに笑う。
家宣が将軍になり
将軍岳父となった
熙子の父 近衛基煕は
太政大臣に任命されたが
早々と隠居してしまった。
それを熙子から聞いた家宣は
幕府体制への助言を受けたいと
再び江戸への招待を希望した。
太閤は有職故実や
宮中の仕来りに詳しい専門家。
熙子は早速文を太閤に送り
太閤も愛娘の顔が見たいがため
直ぐに江戸に下向してくれた。
熙子は家宣に如何なる時も寄り添ってくれる。
愛しくてならない。
江戸と京の垣根さえ
易々(やすやす)と乗り越え絆を結ぶ
家宣にとって熙子は宝物であった。
太閤は家宣の意向を汲み
御台所の地位確立にも尽力した。
権力を握られては困るとの幕府の意向で
長年
御台所は飾り物のように軽んじられてきた。
宮中では正妻は女御のみ。
他は側室であっても女官にすぎない。
家宣は太閤の助言で
宮中にならい
大奥でも側室は女中のままとした。
将軍の子を産んでも
部屋は女中たちの住まう長局に
一室を与えられるだけとなった。
先代までは側室や御年寄りなどの部屋は
御殿向にあったが
家宣の代以降は
御年寄や側室であろうと
下級女中と同じ長局に一纏めになったのである。
御殿向きには
御台所と若君姫君と
将軍生母のみが住まう。
将軍生母は
子が将軍になって
やっと徳川家の家族として認められ
御殿向に部屋を与えられた。
席次は末席である。
御台所は御殿向の大部分を独占する。
家宣によって御台所は
名実ともに大奥の主となった。
熙子は大奥を
穏やかに艶やかに纏めて
君臨している。
話の弾む和やかな空気の中
豊原が厳しい表情で部屋に入ってきた。
「上様御台様に
畏れながら申し上げまする。
鍋松君が
御風邪で臥せっておられるとのことにございまする。
お喉が痛み、お食事が喉を通らぬそうで
奥医師が困っておりまする」
上様が御風邪を召さなくてほっとしていたら
鍋松が風邪を引くなんて
熙子は家宣に似て
体の弱い鍋松が心配でたまらない。
「上様、鍋松を見舞いに参りとうございまする」
「うむ。豊原、すぐに先触れを出せ」
熙子も花浦に命じて見舞いの準備をさせる。
準備が整うと
家宣と熙子は豊原の案内で鍋松の部屋に向かった。
鍋松の部屋には生母の左京が控えて待っていた。
将軍夫妻が現れると、手をついて迎えた。
鍋松は床にぐったりと横になっている。
熱は下がったようだが
小さな布団が痛々しい。
家宣と熙子の顔を見ると
鍋松の顏が少し明るくなる。
「可哀相に。
お喉の痛くないおやつを食べましょうね」
熙子は鍋松の頭をそっとなでながら慰める。
御年寄桜木に部屋から持参させた
近衛家秘伝の
花梨と金柑の水飴漬けの葛湯。
熙子は手ずから鍋松に匙で掬って食べさせる。
「母上の実家から届く高価な葛湯じゃ。
父も風邪の時は母上に作ってもらう。
甘くて美味であろう」
家宣が鍋松に
葛湯がすすむよう優しく声をかけた。
甘さと喉越しの良さで
鍋松は椀を空にした。
糖分と水分が取れたので
みな胸をなでおろす。
熙子は鍋松に
葛湯を食べたご褒美を与えた。
「近衛の御爺様が持ってきてくれた
桃太郎の絵巻物ですよ。
他にも物語がたくさんあるから
早く元気になって
母のお部屋に見にきてたもれ」
鍋松が可愛い目を輝かせ頷いた。
「葛湯を置いていくゆえ
鍋松の様子を見ながら食べさせてあげるように」
熙子が鍋松の守役にそう告げて
家宣と部屋から出ようとすると
鍋松が心細そうな表情をみせた。
熙子は鍋松の枕元に戻り
小さな手を両手で包んだ。
「また後できますからね。
ちゃんと寝ているのですよ」
「ほんと?ははうえまたきてくれるの?」
鍋松の寂しそうな小さな声が
熙子の心に響く。
「ええ、
ちゃんといい子にして眠った後に」
「いいこにする。ははうえおやくそく」
熙子は
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。
将軍夫婦が長居することはできない。
戻る廊下を歩きながら家宣が呟いた。
「熙子は看病も堂に入ったものだ。
奥医師も手を焼いたというのに。
世が寝込んだ時も
熙子の看病は痒い所に手が届いた」
「近衛では幼い弟の看病を
度々(たびたび)しておりましたの。
摂家とはいえ公家は余裕などなく
家中総出でございました」
熙子は謙虚に微笑む。
家宣は熙子が中奥にいないのが寂しい。
言わずとも
寒ければ羽織をやさしく肩にかけてくれる。
愛らしい仕草で
温かい葛湯を手渡してくれる。
男所帯の中奥では
いまひとつ痒い所に手が届かない。
不満に思いつつも諦めながら
家宣は中奥に戻って行った。
御広敷に近い来客の間に
左京の父 勝田玄哲が
孫の鍋松を心配して訪れていた。
玄哲は
美貌の左京の父だけあって
五十を過ぎた今も
色気を残す美丈夫だった。
「鍋松君は
また風邪で臥せっておられるそうじゃが」
「はい」
左京は神妙な面持ちで座っている。
苛つく気持ちを滲ませる玄哲が続けた。
「将軍家のためにも勝田家のためにも
そなたがもう一人若君を授かればいいのだが。
近頃左京さまには
上様のお召しもないと聞く。
少々御召し物が地味ではないのか。
まだ若いのだから華やかに装い
上様のお気を引いてみたらどうじゃ」
左京はそれを聞くと気が沈んだ。
会うたびに華やかにと言われて
務めて派手な着物を着るが
家宣には響かないどころか
遠ざけられている気がする。
元哲は日頃のやるせなさを
つらつらと左京に零す。
鍋松が生まれて
勝田家は旗本に取り立てられたが
お役目もないまま。
こんなはずではなかったと
元哲は悔しさを隠さない。
「そなたの肩に
勝田家の命運がかかっておる。
若く美しいのに上様の御心を奪えぬとは
歯がゆいものじゃ。
先代の御側室の瑞春院さまは御寵愛深く
御殿向にお部屋を賜ったというのに。
そなたはまだ長局にいるというではないか」
そう厳しく父にいわれては
左京は身の置き場がなかった。
元哲は美丈夫で
槍の名手で手腕もあったのに
大名家で出世できずに
失望して出奔し浪人となったあと
浅草の寺に身を寄せ僧侶になった。
元哲は自身を不遇と思い込んでおり
その劣等感を
娘の左京で晴らそうとしている。
左京は浅草小町と謳われるほどの美人だった。
美しい左京に降るように来る縁談を断り
左京の美貌に賭けて
大名家を転々と奉公に出した。
だが父 元哲譲りの性格が災いして
いずれの大名家も長続きはしなかった。
それでも諦めず方々の伝手を頼り
やっとのことで家宣に寵愛されたが
美しさより健康を見初められてのことだった。
左京は父の意向に従っているのに
厳しく咎められ
鍋松が寝込み大奥でも肩身が狭かった。
上様の御心が御台様にある事は
痛いほどわかっている。
私だって夫である上様に愛されたいのに
左京の心は
嫉妬と焦りの入り混じる黒い渦に苛まれながら
夕刻の鍋松の部屋に戻った。
ほどなく
鍋松を心配した熙子が再び見舞に訪れた。
熙子がいると
鍋松がなんとなく安心しているのを
左京は気づいていた。
熙子が鍋松の枕もとで優しく話しかける。
「鍋松、ちゃんと寝ていて良い子ですね。
お腹はすきましたか?」
「はい、ははうえおなかすいたー」
鍋松は熙子に遠慮なく甘えるのだ。
「母が御粥を持ってきましたから
食べましょうね」
喉の痛みに効く葱をたっぷりと入れて
とろとろになるまで煮て甘みをだして
滋養のある豆腐と溶き卵を加えて
ゆるく仕立てた幼子にも食べやすい御粥。
「御父上さまも御風邪のときに
召し上がるのですよ。
きっと鍋松も好きでしょう」
「はい!」
また熙子が手ずから食べさせる。
熙子は弟達の面倒を見てきたので
子供の扱いが上手なのだ。
熙子と家宣が帰った後
左京は絵巻物を見て
その美しさに愕然とした。
父 元哲が見舞いに持ってきたのは
町で売っているありきたりな独楽。
どうしようもないこととはいえ
父親の地位の違いと
自分の境遇に唇を噛んだ。
左京は生まれつき丈夫で
風邪ひとつひいたことがなく
鍋松が寝込んでも
看病の方法がわからない。
奥医師が用意した
白粥と梅干しを食べさせようとしたが
鍋松は嫌がって食べなかった。
左京は
将軍付御中臈として仕えていたが
家宣は大奥の将軍居室の御休息之間には
わずかの時間しかいないし
熙子の部屋に行ってしまうから
家宣のことも良く知らなかった。
劣等感が左京を蝕む。
左京の様子に
異変を感じた熙子が声をかけた。
「左京も心配したことであろう。
鍋松は食欲も戻ったゆえ
安心するが良い。
上様も
御小さい頃はお体が弱かったそうだから
そなたは気に病まぬように」
意外な言葉が左京の口から洩れた。
「御台様には
お優しい御言葉を賜り有難く存じまする。
鍋松君は
上様に似ているとのことでございますね。
それでは上様とわたくしには
前世からの深い御縁が
あるのでございましょう」
熙子ははっとした。
確かに熙子の産んだ二人の子は
儚く空に帰って行った。
他の側室の産んだ子たちも。
鍋松だけが
病弱ながらも生き長らえている。
上様も
左京に深い御縁を感じているのでは?
わたくしに遠慮して
若く美しい左京を御召しにならないのかも…
鍋松のためにも民のためにも
上様と左京の時間を
作ってあげるべきではないかしら?
そう考えながら
熙子は
家宣との夕餉を取る御休息之間へ向かった。
座敷の丸い窓に月が浮いている。
ぼんやり眺めながら
家宣の御成りを待つ。
熙子との夕餉を楽しみに
浮き浮きしている家宣が
部屋に入ってきた。
家宣は部屋に入るなり一目で
熙子が心なしか沈んでいるのに気づいた。
愛する熙子の変化に敏感な家宣。
「御台、どうかしたのか⁈」
家宣は動揺して
熙子の傍に駆け寄り両肩を掴んだ。
「いえ、なんでもございませぬ…」
家宣の慌てぶりに
熙子の方が
目を丸くして見つめ返している。
そして一息おいて目を伏せた後
静かに口を開いた。
「上様、お願いがござりまする」
何事かと驚く家宣だったが
将軍なので務めて落ち着いて
穏やかに熙子の話を聞く。
だが家宣は動揺を隠しきれない。
「うむ。なんなりと申してみよ」
熙子は遠慮がちに伝える。
「鍋松が元服して
民を治めるようになった時
父母との思い出は
とても役に立つかと存じまする。
どうか左京と三人で
お庭など御成りになられてはいかがでしょう」
家宣は
熙子の御台所としての心構えに感心するが
奇妙な違和感を覚えた。
「そなたの気持ちはわからぬでもないが。
世の妻はそなただけで
それは鍋松も同じこと。
そなたが母なのだ。
左京を気にせずともよい」
「上様…。
上様の御意は嬉しゅうございます。
されど一度だけでも
鍋松に思い出を作ってあげてくださりませ」
家宣は
熙子の思いつめた視線に負けた。
将軍家のため鍋松の将来のためと言われれば
叶えてやるしかない。
仕方がないので
幼子に言い含めるように熙子を諭す。
「ふむ。御台がそれ程に申すのなら。
だが一度だけぞ」
「上様、嬉しい。
有難う存じまする」
少し気持ちが晴れたらしく
美味しそうに夕餉を食べる熙子の様子に
安堵したものの
やはり何かあったのだと
察した家宣だった。