滝
「なんて美しい滝と桜」
吹上御庭の
滝見茶屋の開け放した窓辺で
御台所熙子はうっとりと呟いた。
茶屋が浮かぶように建つ池の少し向こうに
糸のように流れる滝と
それを囲むように
満開の桜の花が咲いていて絵画のようである。
熙子の肩を抱き寄り添う家宣は
腕の中の熙子を甘い目で見つめていた。
江戸に桜が咲き始めた。
吹上御庭の滝の周りの
日当たりの良い桜の木々が一足先に見頃。
滝の絶景を臨む滝見茶屋で
家宣と熙子は二人だけの花見をしている。
といっても
側近や奥女中達が大勢控えているが。
庭や花木を愛してやまない熙子のために
家宣は滝を臨むこの場所に茶屋を建てた。
気軽に物見遊山の叶わない熙子。
京の実家にいた頃は
父母に連れられ
頻繁に物見遊山をしていたという。
春の桜は大覚寺
秋の紅葉は清水寺など
楽しく美しい思い出話を聞かせてくれる。
家宣は熙子のために
庭で物見遊山をさせようと思いついた。
そして何時しか庭造りが趣味になっていた。
熙子は舟の遊覧も好きなので
大奥の船着場から滝見茶屋まで
座敷仕立ての舟を使った。
春先の風の冷たさも気にならない。
熙子の好みの庭は公家好み。
朝廷の勅使饗応にも使えるので
幕府にとっても実利のある趣味である。
大奥の花見には太閤を招いて
曲水の宴をしようと思っている。
夫婦水入らず
茶屋で火鉢にあたりながら
のんびりと絶景を楽しむ。
甲府宰相時代に戻ったような
気楽な一時。
豊原の先導で御菓子と御茶が運ばれてきた。
今日は桜餅。
庭での御茶の御菓子は
家宣自身が選び指図する。
熙子には内緒のお約束。
桜の葉のいい香りが漂う。
甘味好きの熙子は目を輝かせた。
「春の香りがいたしますこと」
「熙子は桜餅が好物ゆえ。
好きなだけ食すがよい」
家宣は熙子の喜ぶ様子に満足している。
熙子は白く細い指で黒文字をとり
桜餅を口に含んだ。
爽やかな春の味が広がる。
美味しそうに桜餅を堪能する熙子を
家宣は微笑みながら見つめている。
大勢の近習達は
いつものことながら
仲睦ましい将軍夫妻を
幸せな幕臣として見守っていた。
先代将軍綱吉の
二十年以上続いた生類憐れみの令という
無謀な政を
家宣は将軍になると即刻廃止した。
側近の妻と娘に手を出したり
大奥を戦場にすることも無い。
幕臣や民も
理不尽な苦しみから解放された。
この将軍夫妻の穏やさは
近習達にとっても
幸せで有り難いものなのだ。
風が窓から
桜の花弁をひらひらと
熙子の御垂髪に舞い降らせた。
薄い桜色の髪飾りが
熙子を美しく彩る。
「これは風流な。まるで桜の天女のようだな」
家宣はそう甘く囁くと
熙子に近づいて
御垂髪に降った花弁を一つ摘まむ。
「上様ったら。悪戯な風ですわね」
熙子は照れて目を逸らす。
耳がほんのり桜色に染まっている。
照れている熙子が愛しい。
もう少し困らせたくなる。
家宣は少し悪戯な笑みを浮かべながら
熙子の髪の花弁を
ゆっくりひとつひとつ懐紙に取り
それを懐に仕舞った。
熙子の耳が赤く染まる。
二人だけならいいのだけれど
大勢の家臣の前では
さすがに人目が恥ずかしい熙子だった。
余り困らせるのも可哀想だな。
もっと困る熙子が見たいのだが
このあたりで我慢することにしよう
家宣から悪戯な笑みが消え
穏やかな微笑みに変わった。
「少し風が冷たくなってきた。
灰色の雲も見えるゆえ
早めに引き上げるとしよう」
家宣はそう言うと立ち上がり
熙子の手を取り
帰りの舟へ向かった。
舟に乗ると風は一段と強くなった。
日暮れには雨が降るかもしれない。
上様の早い判断のおかげで
後片付けに残る者達も
濡れることなくすみそう
夫にますます惚れ直す熙子だった。
大奥に戻り
夫婦で夕餉の頃には
冷たい雨が降っていた。
「桜が咲き始めたというのに…
寒さが戻ってきたようですわね」
熙子が心配そうに家宣に話しかけた。
「うむ、皆体調を崩さねば良いが」
家宣は家臣や民を心配している。
夕餉が終わり
家宣は中奥へ戻る。
二人は御鈴廊下の御錠口へ向かう。
御錠口で
家宣は熙子を振り返り優しく言う。
「今宵は冷えるゆえ
暖かくして休むように」
「はい、仰せの通りに。
上様にも御風邪など召されませぬよう」
呼吸器が丈夫ではない家宣を
熙子は心配する。
このところ側室を夜に召すこともなく
夕餉を熙子と共に済ませると
中奥へ戻って行く。
熙子は三十を超えている。
御褥滑りの大奥の仕来りで
家宣と一緒に休むことができない。
将軍の勤務室であり
住まいである中奥は
大奥とは隔てられている。
御台所といえど
行事でもないのに
御錠口の向こうに行くことはできない。
家宣のために
室内の温度管理や
羽織りもの
飲み物など
思うように指示できない
お世話ができないもどかしさ。
将軍になってから
家宣の顔色が悪い日があることに気付いていた。
中奥から
御側用人間部越前守を
呼び出して聞くと
明け方まで書類に目を通すこともあるという。
熙子は後ろ髪を引かれる思いで
家宣を見送った。
そして
ひとり御台所御殿の部屋に戻る。
熙子を宿直の御年寄りの梅園が出迎えた。
「今宵は寒うごさいますわね。
そうそう、
上様より打掛が届けられておりまする」
微笑みながらそう言うと
熙子を着替えの間に案内した。
衣桁には
淡い桜色の生地に
桜の花と流水が描かれ刺繍された
美しい打掛が掛けられている。
滝見茶屋から二人で眺めた
滝と桜のような打掛。
熙子は打掛にそっと触った。
上様の御側でお世話して差し上げたい
嬉しさと心配が
熙子の心をかき乱す。
冷たい雨の音が部屋に響いている。