絵巻物
雛祭りが終わり
落ち着いた日々の大奥。
大奥御殿向の
御対面所からは
和やかな声が聞こえてくる。
家宣より江戸に招かれ長期滞在中の
熙子の父
太閤近衛基煕が滞在中の神田御殿に
荷物が届けられた。
上方の絵師達に描かせた
絵巻物や御伽草子が出来上がったのだ。
それは絵が好きな熙子が
かねてより太閤に頼んでいたもの。
太閤は愛娘の喜ぶ顏見たさに
たくさんの絵巻物や御伽草子を入った
近衛牡丹の紋の入った長持を担ぐ行列を引き連れ
江戸城大奥の正門に降り立った。
太閤は大奥事務方の幕臣達が詰める
御広敷玄関にて
老中や御側用人 間部越前守らの
丁重な出迎えを受た後
御台所の応接の間でもある
御対面所に恭しく案内された。
熙子は御台所御殿に
仕える奥女中達を連れてきている。
公家の姫ばかりである。
公家の姫ということで
側室の新典侍も呼んでいる。
太閤の持参した絵巻物は
姫たちに懐かしい京を思い出させた。
一流の絵師達に描かせた
美しい絵巻物と御伽草子が
部屋中に広げられ
美しい御年寄や御中臈達が
其々(それぞれ)の手に取り
楽しそうに語り合う様子も
さながら絵巻物の物語のように雅やか。
気心の知れた公家ばかりなので
御簾は上げて家庭的な雰囲気。
熙子の手にあるのは桃太郎の絵巻物。
隣の脇息にもたれゆったりと座る太閤に
楽しそうに語りかける。
「おもうさん、ご覧遊ばせ。
この鬼さんの
不動明王のように雄々しいこと。
それに桃太郎は
少し鍋松に似ているような」
「そうやなぁ、随分勇壮に描いたもんや。
それに御台さんは鍋松が可愛いとみゆる
ほほほ」
太閤は軽く笑う口元を扇で隠す。
太閤の年は五十
白いうりざね顔に高い鼻が
如何にも高貴な公家らしい。
公家のおっとりとした雰囲気とは裏腹に
その目は時に鋭く物事を見透す。
熙子の顏は良く見ると太閤によく似ている。
熙子は基煕が若い頃の第一子とあって
兄妹に見えることもある。
太閤が持っているのは浦島太郎の絵巻物。
ちょうど珊瑚や魚たちに囲まれている
竜宮城の場面が手元に開かれていた。
太閤はそれを膝に置き
熙子や奥女中がさんざめく部屋を見渡した。
江戸に来てから
何度も訪れている御対面所。
天上や襖には女性の御殿とあって
花や天女が描かれている。
惜しげもなく使われている金箔や紅い漆
見事な調度品。
竜宮城もかくやとばかり。
その華麗さにいつも感心する太閤だった。
絵巻物を優雅に眺める熙子の衣装も
御台所らしく贅沢で格式がある。
夫の将軍から
丁重に扱われているのが窺える。
何より熙子の容貌が
福々しく幸せそうなのだ。
人に言えぬ苦労もあろうが
目の前にいる娘は間違いなく幸せそうで
心の中でそっと胸をなでおろす太閤だった。
熙子が京から遠く離れた江戸に嫁いだ日。
今生の別れと覚悟して送り出した。
まさかこのように熙子が幸せになろうとは。
そして気軽に愛娘に会える日がこようとは。
自らも幕府から将軍岳父として
丁重にもてなされる日々。
太閤にとっても夢のような日々である。
部屋の外から上臈御年寄豊原の凛とした声が
突然の家宣の御成りを告げる。
熙子とは長年連れ添った夫婦。
遠慮など微塵もない。
襖が開くと
ふらりと家宣が部屋に入ってきた。
「ほう、
これはいにしえの源氏物語に
迷い込んだようでござりまするな」
「公方さん、ごきげんよう」
太閤も
すっかり身内として打ち解けて
家宣に接する。
家宣に上座を譲り
隣に座った熙子が
幾分弾んだ声で挨拶をした。
「上様、ごきげんよう」
「おお、
御台も父上が来られたゆえ機嫌がよいな」
「はい。
頼んでいた絵巻物を
おもうさんが届けてくださいましたの」
「それはそれは、
太閤御自ら
お届けいただいたとは痛み入りまする」
仲睦まじい娘夫婦の様子に
太閤も嬉しさを隠さない。
「なんの。娘の顔がみたくてのぅ。
そや、公方さんも御覧あれ」
太閤の膝元にあった
絵巻物の一つを家宣に渡した。
「かたじけない」
家宣は勧められるまま紐解いた。
それはかぐや姫の絵巻物だった。
一流の絵師によって描かれただけあり
大層美しい。
絵巻物をさらさらと見る。
月に登っていったような一人娘の豊姫と
長男夢月院が思い出された。
きっと
太閤も孫たちを
そう思っているのだろうと察せられた。
そして太閤にとっては熙子も
かぐや姫かもしれないと。
紫の褥に長く座っていた太閤が
大儀そうに足を延ばした。
「年寄りゆえ少々足が痛とうてな。
許してたもれ」
太閤が心配させまいと微笑んだ。
心根が優しい家宣が気遣う。
「太閤殿下には年というほどではござらぬと
お察し申し上げまするが
心配でございまする。
奥医師はなんと申しておるのですか」
将軍という位にあるのに
誠に情に厚い御仁よの
太閤は心打たれた。
「公方さんにはいい奥医師を
つけてもろうてありがとう。
高い薬が効いて大分ええのやが
恐らくこのままやそうや」
それを聞いた家宣はほんの少し考えた。
「左様でございまするか。
それでは
春になり暖かくなり申したゆえ
ゆっくり湯治にいかれては
いかがでござろうか。
幕府への御助言と
こちらの絵巻物の御礼に
是非ともおいでくださりませ」と勧めた。
父へのその言葉に熙子の胸は高鳴った。
なんてお優しくてお気がつかれるのかしら
我が君は
わたくしだけでなく
おもうさんにも
こんなにも大切にしてくださるなんて
熙子は夫に惚れ直した。
いつも
日に幾度も惚れ直しているのだが。
「上様、かたじけのうございます」
家宣は熙子の礼の言葉と喜ぶ顔を見て
穏やかに微笑み頷いた。
熙子は太閤に向き言葉を続ける。
「おもうさん、
上様の有難いお気持ちでございますゆえ
是非ともゆっくりお湯を召して
御御足をお労りくださりませ」
「嬉しいことや。
それでは公方さんの御言葉に甘えて
参ることにしよか」
「それでは早速手配するよう
越前に申しつけまする。
太閤殿下にはごゆるりとなされますよう」
家宣はそう告げると
熙子と目を見合わせて微笑みあった。
その様子を見た太閤は目を丸くした。
「なんや御二方はお熱いのう。
当てられてしもうた、ほっほっほ」
扇で口元を隠して笑っている。
家宣の横に控えていた
公家出身の豊原が
涼やかな声で場を和ませる。
「上様と御台様は
いつもお熱うあらしゃいますゆえ
私共もあてられてばかりにございます」
部屋中の奥女中達が
ふふと微笑み頷き合う。
「まぁ、豊原ったら」
熙子が微笑み
乳白色の顔を
ほのかに赤くして照れている。
「折角ここにいるのだから
そなたたちも一緒に
好みの物語を楽しんでたもれ」
豊原たちを気遣うことも忘れない。
熙子の言葉を聞いた
熙子付きの上臈御年寄秀小路が
幾つかの絵巻物や御伽草子を
豊原たちの前に置く。
「御台様の御言葉ですゆえ。
どうぞ皆様お好きなものを
ご覧くださりませ」
「かたじけのうございます。
有難く拝見つかまつりまする」
豊原は柔らかな笑みを浮かべて受ける。
ほんに御台様は将軍付き奥女中の我らにも
お優しいお心配りをくださる。
このような見事な催しを
さりげなくなさる御器量。
堅苦しい大奥が
御台様にかかれば極楽のよう。
上様は若い側室達にはそっけないまま。
御台様に夢中なのも頷けるというもの
そう豊原は心の内で思っていた。
豊原たちは其々に物語を手にして
秀小路達と一緒に
語らいながら眺め始めた。
家宣は頬を桃色に染めた熙子が愛しく
絵巻物を眺める熙子をずっと見つめている。
太閤も奥女中達も
将軍夫婦を微笑ましく見守りつつ
物語を楽しむ。
和やかな時間が
御対面所に流れていくのだった。