朔日
大奥の雛祭りは
朔日から四日まで行われる。
上巳の節句
雛祭り初日の御台所御殿は
賑やかな空気に包まれていた。
家宣の命により届けられた
桜田御殿の桃の枝が
御殿のあちらこちらに飾られている。
奥女中達もうきうきと楽しそう。
若い奥女中達には桃の花の簪を
落ち着いた年齢の奥女中達には
桃花の根付などを
御台所熙子から贈られ身に着けている。
それぞれ思い思いに着飾っているのだが
ちょっとした桃花の飾りが
統一感を醸し出し
御殿中が雛飾りのように華やいでいる。
「御台様、仰せの御祝儀
つつがなく大奥中に
行き渡りまいてございまする」
御年寄花浦が
晴れやかな笑顔で熙子に報告した。
花浦の年は熙子より五つ上
公家の娘でたおやかな中にも
厳しさを持つ美女。
御台所御殿の事務方筆頭を務める
有能な女性管理職。
熙子は優しくおっとりとした口調で労わる。
「大儀、
そなたたちも心ゆくまで楽しんでたもれ」
桃の節句は
厳格で不自由な大奥に勤める女中達にとってお楽しみの一つ。
熙子は日頃身近で心を込めて尽くしてくれる
御目見え以上の奥女中達に
慣例の料理と白酒を振舞う。
熙子はそれに加え
御目見え以下の女中達
御広敷の役人や
使いの者達にも
引千切という
宮中に伝わる餅を配ることにしている。
短い柄杓のような形をしており
窪んだところに丸めた餡が盛られた
雛祭りの縁起物。
薄桃色と薄緑の餅が一組。
一つは餅の部分を
小豆で薄桃色にして白餡を
もう一つは草餅の緑に
小豆で薄桃色にした餡を載せる。
雛祭りらしい可愛いらしい形の餅。
同じ大奥にいながら会うこともない者達にも
せめてもと感謝の気持ちを込めて
祝儀を弾む。
みなの心が少しでも和むよう
祝儀に添える水引を桃花に模るなどして
趣向を凝らした。
自分がこうして
何不自由なく暮らしていられるのは
彼らのおかげ。
そしてこれからも
夫家宣の天下のために
尽くしてもらいたいとの願いを込めて。
「さぁ御台様、
そろそろお昼の御召替えの
お時間でございますよ。
上様が祝いの昼餉を
御一緒にとのことにござりますれば」
上臈御年寄常盤が優しく
次の予定を伝える。
花浦の案内で
着替えの間に移動する。
着替えの間には
真新しい美しい打掛が用意されていた。
家宣が生地や柄を自ら選び
作らせたという打掛。
家宣は祝いの度に
熙子に衣装や装身具を贈るのが習慣。
御中臈が三人がかりで
熙子を打掛に着替えさせてくれる。
夫からの贈り物は幾つになっても嬉しい。
鏡を見ながら似合っているかしら?と
少し心配にも思う。
小袖は淡い若草色
白地に桃の花と鴛鴦を
上品に刺繍した打掛が重なり
熙子の細面の顔を一層と引き立たせた。
季節の桃の花と
夫婦円満の吉祥模様の鴛鴦
家宣の熙子への愛が込められた打掛。
準備が整い長い廊下を家宣の元に向かう。
将軍の居間
御休息之間では家宣が待っていた。
家宣は熙子を一目見るなり
はっと息をのんだ。
「熙子はやはり花の模様が良く似合う」
満足そうに微笑んで迎える。
熙子は家宣の様子にほっとする。
-気に入ってくださったのだわー
思わず笑顔が零れた。
「この度は打掛を賜り
誠に嬉しゅうございます」
奥ゆかしく三つ指をつき
少し小首を傾げる仕草が
なんとも上品で美しい。
そして透き通る声と愛らしい微笑。
家宣の心をとらえて離さない。
家宣と熙子はこの日の昼餉を
御休息之間で取った。
開け放した障子からは風情ある庭が見え
鳥のさえずる声が聞こえてくる。
庭の満開の桃の花を愛でながら
夫婦水入らずの祝いの昼餉。
家宣が隣の熙子の顔を見ながら
幸せそうに話しかける。
「この蛤の吸い物は
中々良い味だな」
「はい。
江戸は海が近うて蛤も活きが良くて。
とても美味しゅうごさいますこと」
熙子がはんなりと微笑む。
京の高貴な血筋を鼻にかけることもなく
江戸を楽しんでいる様子が
家宣は好ましくてならない。
雛祭りの祝いの膳を囲む
何気ない会話が楽しく
幸福を感じる二人。
食後の茶菓子は
大奥中に配ったものと同じ
引千切餅が出された。
家宣は餅を手に取り
繁々と眺めながら呟いた。
「いつも思うのだが、
この餅は面白い形をしている」
「ほんに。
餅を丸める時間がのうて
引き千切ったのが
由来とのことにございます」
「禁裏は歴史が長いゆえ
合理的な考え方がある。
江戸の者達は京とは
否応なく付き合わねばならぬのだ。
熙子がいてくれるおかげで
京の仕来りも身近なものになろう」
「わたくしなど…
でも
少しでも上様のお力になれれば
嬉しゅうございます」
少し照れている熙子が家宣は愛しい。
熙子は聡明で
家宣の気持ちを素早やく察してくれる。
聞くところによると
引千切餅を御広敷にも配ったという。
ささやかなれど、江戸の者には珍しいはず。
喜んだことだろう。
控えめにさりげなく支えてくれる熙子。
自慢の妻である。
家宣は引千切餅を味わいながら
熙子に伝える。
「後ほど熙子の部屋へ行き
豊姫の雛を見ることにしよう」
「はい、豊姫も御父上様が
御成りになってくださりますれば
喜びましょう」
江戸城に移ってからも毎年
家宣は熙子の部屋で
幼かった豊姫を偲んで雛祭りを過ごす。
子に先立たれた寂しさも
支え合って乗り越えてきた。
のんびりと茶を飲み終わると
二人揃って大奥大広間
御座之間に向かう。
今日は朔日
世継ぎの鍋松や側室達との
面会の日でもある。
御座之間には
十二段の見事な雛飾りが置かれ
壮麗な広間にいつにない
柔らかな空気が漂う。
この十二段の雛飾りは
実家近衛家から贈られたもので
京風の雅でありながら
御台所に相応しい豪奢な雛飾り。
御座之間上段に将軍夫妻が並んで座る。
下段の間には鍋松が
大人しく守役の侍女に抱かれ
側室たちは伏して待っていた。
家宣には三人の側室がいる。
一のお部屋様と呼ばれる右近の方。
町医者の娘で、大人しい性格。
次男家千代を産んだが夭折した。
二のお部屋様は新典侍。
公家の娘で教養高くしっかりとした人柄。
同じ公家ということで
熙子も信頼を寄せている。
三男大五郎と五男虎吉を産んだが夭折。
三のお部屋様は左京の方。
お喜世。
子供たちの中で
ただ一人生き残った四男鍋松の生母。
大きな目が人目を引く美人。
父は元加賀藩士で浪人した後
浅草唯念寺塔頭となった。
家宣にとって三人とも
将軍家世継ぎを上げるために
仕方なく迎えた側室。
家宣は借り腹の女中達
つまり家臣として接している。
万が一、側室が力を持ち過ぎないよう
世を乱す事がなきよう警戒しているのだ。
前将軍の母桂昌院は
息子である将軍綱吉を後ろ盾に
絶大な権力を誇った。
かの悪名高い生類憐みの令は
本来、弱きものを保護せよとの
慈悲深い法である。
しかし綱吉に跡継ぎをと願うばかりに
将軍実母桂昌院は
僧侶に傾倒し
言われるがままに暴走してしまう。
綱吉が戌年だからと
犬を保護するために
年二十万両の大金を費やすという暴挙。
ただ蚊を殺しただけで
投獄になるという狂気の時代。
寺社の建立などにも散財し
幕府の金蔵は空になってしまった。
熙子の思慮深さを知る家宣にとって
桂昌院の狂気は理解しがたいものだった。
帝と摂関家の重さと誇りを生きる熙子には
狂気は微塵も見えてこない。
しかし市井から咲いた左京の中に
桂昌院と同じ狂気の片鱗を
家宣は見ていた。
名門の重さのない
市井の女の空恐ろしさ。
この先誰が将軍になっても
その狂気を防ぐ体制を築かねばならない。
よって側室たちに勘違いをさせないよう
塩対応をしている。
ことに左京には。
今日の左京は濃い桃色に派手な桃柄の
打掛を着ていた。
美しい顔立ちに似合っているのだが
浅草育ちで江戸風にこだわるあまり
公家出身の多いこの部屋の中で
一人浮いている。
熙子や御年寄達は公家らしく
華やかではあるが品のある衣装。
左京には私が鍋松の母であるという
気負いが見え隠れする。
家宣は自ら前へ出る女は好みではない。
「面をあげよ。
皆変わりなさそうで何よりである。
鍋松はこれへ」
家宣が声をかけた。
三歳の鍋松が守役に抱かれて
家宣の傍に上がる。
「よう参った。良い子にしていたか?
さぁ、母上の膝に」
鍋松を熙子に抱かせるよう施す。
熙子は鍋松を膝に乗せる。
「誠に良い子。
母は鍋松が良い子で嬉しいのですよ。
また少し大きくなりましたね」
鍋松の背中を優しく撫でながら微笑む。
鍋松は家宣によく似た賢く美しい子で
大人しく嫡母熙子の膝に
抱かれている。
側室の中でも身分の高い新典侍が
代表して挨拶を奏上する。
「上様御台所様には御機嫌麗しゅう。
上巳の節句
おめでとうござりまする。
この度は私共に桃の花桶を賜り
誠に恐悦至極に存じまする。
私共の局が明るくなりましてございます」
家宣が側室達に贈ったのは
習慣に則った品と、切り花の桶。
甲府宰相時代から贈答に
盆栽や切り花を贈るのが習慣だった。
花が好きな熙子を喜ばすために始めた
庭造りや花の栽培だったが
あまりに熙子が喜ぶので
他家への贈答に
芍薬の切り花を贈ったところ
大層評判が良かった。
これに着想を得て
甲府家中で花や盆栽の栽培を興し
贈答品とした。
暫くの歓談中
大人しく熙子に抱かれていた鍋松だが
流石にじっとしていられなくなったのか
雛飾りに走り寄った。
可愛らしい表情で不思議そうに
じっと見上げている。
熙子の十二段の雛飾りの一番上には
金の蒔絵の描かれた御殿の建物の中に
お内裏様とお雛様が並んでいる。
子供心にも豪華な珍しい雛飾りと
わかるのだろう。
家宣が笑いながら近寄り鍋松を抱き上げた。
「母上の雛飾りじゃ。見事であろう。
母上の御殿にも雛飾りがあるぞ。
見たいか?」
「はい!」鍋松は目を輝かせている。
家宣は熙子の方を向いた。
「御台、良いな?」
熙子ははんなりと微笑んで
「御意に」と答えると
傍に控える豊原と常盤に目配せし
立ち上がった。
「それでは参ろう。
鍋松の供には守役のみ付いて来るように。
皆これにて下がって良い」
家宣が命じた。
生母の左京が当然のように
ついて来ようとしたが
家宣にさらりと阻まれた。
家宣と熙子達を伏して見送る左京は
僅かに唇を噛んで堪える。
家宣に抱かれた鍋松は
熙子の御殿まで続く長い廊下の
彼是が珍しいらしく
「ちちうえ、あれはなぁに?」などと聞く。
その姿が実に子供らしく可愛らしい。
そんな鍋松を囲む一行はいつにない賑やかさ。
御台所御殿は夕暮れに備え
暖ためられており
茶菓子や玩具の用意も万全だった。
熙子の居間に着くなり
鍋松は二つの雛飾りに走り寄った。
家宣が笑いながら説明する。
「こちらが母上、
あちらが
そなたの亡き姉上の雛飾りじゃ」
鍋松は暫く動きながら眺めていたが
男の子らしく人形より道具に興味を示した。
熙子の子供の頃の人形遊びの道具を
持ってこさせると
早速遊び始めた。
本物と同じように
精巧に作られた小さな琴や琵琶は
爪弾くと音が鳴り
小さな長持の中には小さな着物が
入っていたりと
一つ一つが珍しいようだ。
若い女中達が鍋松の遊び相手になり
御台所御殿はまるで花が咲いたよう。
家宣と熙子はその様子が嬉しくてならない。
ひとしきり遊ぶと
鍋松はお腹が空いたらしく
熙子に駆け寄り
「ははうえ、おやつぅ」とねだった。
そのあまりの可愛らしさに
またしても周囲が和む。
家宣は知っている。
熙子は鍋松がいつ部屋に来てもいいように
準備して待っているのを。
今日のおやつは
小さな平たい白玉が浮かんだお汁粉。
御台所の熙子が手づから鍋松に食べさせる。
「鍋松、ゆっくり良う噛んで
食べるのですよ」
熙子は優しく言い聞かせる。
鍋松は熙子の目を見て頷いた後
白玉の掬われた杓子を口に含む。
ちいさな頬を膨らませて
ゆっくりと一生懸命食べている。
その可愛らしい事といったら。
鍋松は家宣に似て体が弱く食も細い。
その鍋松が美味しそうに
お汁粉を食べている。
家宣も試しに食べてみると
白玉がふわふわと柔らかく
甘さもほど良く
漉し餡も滑らかで食べやすい。
「御台、この白玉はとても柔らかいが」
「はい、白玉粉を豆腐で練ると
このように柔らかくなりまする。
幼い鍋松にも食べやすく
喉に詰まる心配も少ないかと」
熙子は鍋松が白玉を喉に詰まらせないよう
一口食べるごとに白湯を飲ませる。
時には柔らかい布で
口の周りをそっと拭ってあげる。
滋養のある豆腐や小豆を使い
食べやすさにも
心を砕いたおやつを用意して待つ。
その熙子の知識の広さ愛情深さが
家宣にとって愛しい。
お椀のお汁粉を綺麗に平らげた鍋松。
「ははうえ おいしかった。
なべまつ ぜんぶたべたよ」
ちょっと自慢気である。
その鍋松の様子を
家宣と熙子は目を合わせて喜ぶ。
親子団欒のひと時。
「鍋松、よう食べた。
たんと食べて丈夫に育つのだぞ。
それでは姉上や兄上達に挨拶をいたそう」
家宣は鍋松にそう言うと
鍋松を抱き上げ
熙子の部屋の仏壇に向かった。
御台所御殿のお清の間は仏間である。
お清の間の仏壇には
熙子の母 品宮と
幼くして亡くなった
家宣の子供たちの位牌が並んでいる。
家宣は仏壇の前来ると
鍋松を熙子の膝に預けた。
三人で手を合わせる。
熙子は膝に乗せた鍋松の
そのちいさな両手を自らの手で包み
一緒に拝む。
鍋松は幼いながらも
何かを感じ取ったようで
目を閉じ拝んでいる。
ふとその小さな手が
温かくなったのに気づいた。
熙子の腕の中で鍋松は眠っていた。
「上様、
鍋松の寝顔のなんと可愛らしいこと」
「遊び疲れたのであろう」
家宣は愛おしそうに熙子と鍋松を見つめる。
家宣は懐から
桃色珊瑚と高蒔絵の
見事な細工の櫛を取り出すと
熙子の髪に飾った。
思わぬ贈り物に熙子の顔が嬉しさに輝く。
家宣は寝ている鍋松を起こさないよう
熙子の口元の言葉を指で止めた。
そして熙子の肩を抱き寄せ
家族の幸せに包まれたのだった。