桃
春も華やぎ
桃の節句が近づいている。
御台所御殿の熙子の居間では
御中臈や御小姓達が
部屋のあちらこちらに雛道具を広げ
磨き整えては飾っていく。
熙子の雛道具は数も多く美しく
後水尾上皇の
中宮徳川和子である東福門院や
その娘の明正上皇
お手ずから賜った大層貴重なもの。
熙子の生母は
後水尾上皇の皇女の品宮常子内親王。
熙子は幼い頃より母に連れられ
東福門院和子の御所や
明正上皇の御所に
頻繁に参内しては可愛がられていた。
徳川家から入内し
後水尾天皇の正妃となった和子は
時の第一人者であり
芸術の保護者であり
天性の社交家で、慈悲深い国母。
夫の側室達が産んだ皇子や皇女達を
我が子として愛し庇護していた。
熙子の母品宮もその一人。
東福門院の御所は贅を凝らしていたが
家族団欒の温かさで
熙子はその薫陶を受けて育った。
祖父後水尾上皇の笑顔、祖母東福門院の優しい声
明正上皇の美しい顔
母品宮の温かい膝の上。
賜った雛道具を手に取る度に
幼い頃の
華やかで懐かしい御所の記憶が甦る。
熙子の部屋には
もう一つの雛道具が飾られる。
可愛い盛りに
雲の上に戻ってしまった家宣との一人娘
豊姫の雛飾り。
熙子は毎年姫を偲んで飾る。
家宣が
まだ甲府宰相豊綱だった若い頃
嫁いでまもなく授かった姫。
京から遠く離れ
江戸の暮らしにも慣れずにいた
十四歳での懐妊。
嬉しいけれど心細くもあったのに
夫は驚くほど喜んで
それはそれは大切にしてくれた。
無事生まれた姫は
夫によく似た美しい姫。
豊綱の一文字を取り
豊姫と名付けたほどの溺愛振り。
雛飾りも目映いばかりに華麗なもの。
生まれてすぐ
わざわざ京の職人に作らせてくれた。
将来の嫁ぎ先でも
恥ずかしくない雛飾りをとの
夫の親心。
豊姫の初めての桃の節句は
家臣一同も祝ってくれた。
夫が豊姫を抱き
親子三人で庭の満開の桃の花を眺めた。
幸せに満たされたあの頃。
帰れるものならあの日に帰りたい。
今にも泣きそうだけれど
大勢の奥女中がいるこの部屋で
立場上顏には出せない。
熙子はいつしか
感情を流す術を身につけてしまっていた。
豊姫の雛をそっと撫でていると
部屋の外から
数人の足音が聞こえてくる。
将軍付き上臈御年寄豊原が
慌てて家宣の御成りを告げるやいなや
家宣が部屋に入ってきた。
いつも
こんな泣きそうな時に
家宣は部屋に現れる。
「雛飾りをしていると聞いてな」
「上様…ごきげんよう」
手をつき迎えるが
微かに声が震えてしまう。
家宣は穏やかに奥女中達に命じる。
「御台を袴に着替えさせよ、
桃が見頃ゆえ馬にて見に参る」
小袖はそのままに
急いで公家の外出着である
道中着と切袴に着付けてもらう。
長く仕えてくれている秀小路達は
ほっとした表情を見せている。
熙子と家宣の心中を
わかってくれているのだ。
庭には馬が用意されていた。
家宣は馬に乗ると
腕の中に熙子を横乗りに抱き
大奥から出る。
大奥と吹上御苑を隔てる
西詰橋門のすぐ外には
家宣から片時も離れず付き従う
御側用人間部越前守
甲府家から幕臣に組み込まれた
旧知の家臣の新見など
数人が騎乗して待っていた。
豊姫の初節句を
共に祝ってくれた家臣達。
「しっかりとつかまるがよい」
家宣は熙子の右手を優しくとると
自分の肩に置いた。
熙子は頷き
家宣の襟元を左手で掴む。
一行は馬を駆る。
まもなく着いた先は
江戸城紅葉山の麓。
東照宮や霊廟があり、普段は人気もなく靜か。
秋になると
その名の如く錦の紅葉に染まるが
一年を通して季節の美しい花が咲く。
今は山肌に沿うように咲く
桃の花が満開の見頃。
霞のように淡く山を覆う桃の花々は
熙子を幽玄の世界にいざなった。
熙子はその桃の花に
甲府宰相時代の屋敷
桜田御殿の桃の花を重ねた。
夫と豊姫と眺めた桃の花。
家宣は
熙子を見つめながら優しく慰める。
「桜田御殿に連れて行ってやりたいが
目立つのでな。
此処には権現家康公や
祖父家光公が祀られておる。
きっとあちらで
豊姫に夢月院、家千代達も
可愛がってもらっておろう。
我らもそのうち向こうへ行く。
あちらで情けない父母よと
笑われぬよう勤めを果たさねば」
熙子は豊姫を産んだ十年後に
若君夢月院を産んだが
その日のうちに儚く雲の上に戻って行った。
家宣熙子夫妻は言わずもがな
甲府家中や実家近衛家の落胆と悲しみは
筆舌に尽くしがたいものだった。
だが家宣にはわかっていた。
自分の子達が薄命であることを。
熙子の両親は丈夫な質だが
家宣の母お保良の方は
ニつ違いの弟を産んですぐ
顏も思い出せぬほど幼い頃に亡くなり
父綱重は御年三十五で隠れた。
家宣自身も丈夫ではない。
だから子はなくとも
熙子さえいてくれればいい。
甲府三十五万石の藩主として
領地も嘗てないほど
栄えており何の不足もない。
二人で静かに暮らして
ゆくゆくは養子を迎えようと思っていた。
しかし
運命とは皮肉なもので
先代将軍に跡継ぎがなく
甥である家宣が世嗣に決まり
次期将軍として国のために
世継ぎを上げなくてはならなくなった。
やむなく三人の側室を
迎え子は授かるのだが
その子達も次々に夭折。
子は鍋松だけになったが
やはり体が弱い。
熙子は側室達の産んだ
なさぬ仲の子さえ我が子として可愛がる。
生来の子供好きの熙子が
幾度も子を失い悲しんできた。
家宣は熙子が不憫でならない。
熙子の夫が自分でなければ
熙子は丈夫な子に恵まれていたかもしれぬ。
だが
熙子が他の男の妻などとは想像したくもない。
じりじりとした嫉妬が身を焼き尽くす。
家宣は腕の中の熙子が愛おしく
思わず抱きしめた。
遠巻きに甲府時代からの家臣達が
家宣と熙子を見守ってくれている。
熙子はその家臣達の温かさが
家宣の腕の中の温かさが
身に染みてありがたかった。
涙がこぼれて視界が滲んでいく。
「まったく、熙子は泣き虫であるな」
家宣はそういいながら熙子の髪を撫でる。
「いつでも泣きたい時に
世の胸で泣けばよい。
一人で泣いてはならぬ」
「上様…」
熙子の涙と感情が溢れ
家宣の胸に顔を埋めた。
自分だけではない
家宣も家臣達も辛いのだ。
いつか雲の上に行ったら、
豊姫を思い切り抱きしめよう。
夢月院達も皆抱きしめよう。
そう思いながら
家宣の腕の中で
江戸城紅葉山の
満開の桃の花々を眺めたのだった。