雪明り
家宣の病状は悪化の一途を辿った。
熙子が見舞う度に
家宣は窶れている。
中奥にいられる時間は限られていたが
それでも
熙子はできるだけの看病をしていた。
食の進まない家宣に
熙子はいつもの金柑と花梨の葛湯を用意させ
手ずから家宣に食べてもらう。
「上様
どうぞ、お召し上がり遊ばせ」
家宣は床に起きて
熙子の手から匙で
甘い葛湯を食べさせて貰うことに
幸せを感じていた。
「御台が中奥にいてくれるとは
病になるのも悪くないかもしれぬ」
家宣は冗談を言って
熙子を安心させようとしている。
熙子もその気持ちが嬉しく
心配を押し隠して明るく我儘を言う。
「上様ったら。
早う良くなられて
わたくしの部屋に御出でくださりませ。
御一緒にお庭を見とうございます」
「ああ、そうしよう」
家宣は食べ終わると
起きているのも辛いのか
再び床に就き
熙子の手を握りながら眠りについた。
「御台様
上様はお休みになられましたゆえ
御台様も奥に戻られお休みくださいませ。
我らがついておりまする」
越前が熙子の体を心配をして
大奥に戻るよう施す。
「御台様
また御見舞に上がりましょう」
なかなか家宣から離れようとしない
熙子を
御台所付御年寄の花浦が見かねて
抱きかかえるようにして
部屋から連れ出す。
熙子はこのままずっと
家宣の枕もとにいたかったのだが
後ろ髪を引かれる思いで大奥へ戻った。
将軍の病状が重くなると
側用人や老中達が
総力を挙げて看病する。
大奥の女達は遠ざけられてしまう。
熙子は部屋に戻ると
母 品宮が
京を離れる時に持たせてくれた
仏像に祈る。
どうか上様が御快癒なされますように
わたくしの命を差し上げますから
どうか…
家宣が心配で
生きた心地のしない
熙子の元に
朱塗りの鎌倉彫の文箱が届けられた。
中には
書状が入っていた。
鍋松を次期将軍に指名した。
熙子は大御台所として大奥に残り
鍋松の後見に当たるように。
家宣と熙子は一心同体だから
熙子の意見は家宣の意見と心得よ、と。
まるで遺書だった。
書状は
家宣の手蹟ではなく
越前の手蹟で書かれていた。
家宣は
字を書くことすら出来ないほど
病状が危うくなっている。
熙子は
家宣の傍を一時も離れたくない。
甲府宰相時代は
夜通し枕もとで看病していた。
そして何度も家宣は回復した。
御台所となったことで
妻として付ききりの看病が許されず
胸が張り裂けそうだった。
眠れずに朝を待ち
翌日、熙子が見舞いに訪れると
家宣は
心配で崩れそうな熙子の心を察して
床についたまま
その細く白い手を
大きな手で優しく包んだ。
もう抱きしめてやることもできない。
「熙子、
そなたとの日々は夢のように幸せである。
そなたが愛しい」
熙子は手にしていた衵扇を放り出し
そのもう一つの手を
家宣の手に重ねた。
「上様、わたくしも。
だから早う良く御成遊ばして
吹上に連れて行ってくださりませ」
思いつめた熙子を安心させようと
家宣はただ微笑んでいた。
もう片方の手中には
熙子の匂い袋がある。
それから間もなく
家宣は身罷った。
熙子を思いながら。
熙子は
暗闇の世界にただひとり
取り残された気がした。
上様がお隠れになられたのに
どうしてわたくしは
生きているの?
今すぐにでも
家宣のもとに行きたい。
命など惜しくない。
しかし
大奥では将軍が隠れたことで
動揺が広がっている。
母として
鍋松を守り
御台所として
大奥を束なくてはならない。
慌ただしく
葬儀や一連の儀式が行われる。
熙子は
ただなすがままに
時の中を流されていた。
幾日か経ち
家宣を弔う儀式が
落ち着いた夜。
熙子は
寝支度を整えて
白綸子の寝間着のまま
御台所御殿の
庭に面した障子を開けさせた。
そして思い出の
御簾の下の柱にもたれる。
夏の宵
家宣の腕の中で
もたれていた柱。
あの時は
家宣が薄宵の庭に蛍を放たせ
仄かな光が飛び交う
その儚い美しさを
愛する家宣と眺める幸せは
夢のようだった。
昨日のことのような
夏の夜の夢。
今、目の前の庭には
雪が積もり
淡く月の光に照らされている。
家宣に嫁いだ婚礼の日も
雪が降っていた。
懐かしい遠いあの日。
家宣との幾つもの思い出が
浮かんでくる。
「御台様、今宵は寒うございます。
その様なところに長くおられましては
お風邪を召されてしまいます」
熙子を心配した秀小路が声をかけ
寝室に連れて行く。
「それでは、御台様おやすみなさりませ」
秀小路は寝室の
花鳥風月を描いた華麗な襖を
静かに閉めた。
一人寂しく残された
御台所御殿の寝室。
家宣が夜更けに訪ねてくれた部屋。
家宣を偲びながら
豪奢だけれど寂しい夜具に
熙子は体を横たえた。
家宣のいない夜具に…
その夜
熙子は夢を見た。
白い光の中に
家宣がいる
上様…
熙子は思わず手を伸ばし
家宣を呼ぶ
桃の花弁が
ひらひらと舞い降りてきた
気がつけば
熙子は桃色の柔らかな吹雪の中にいた
白い光の中から
可愛らしい女の子と男の子が
軽やかに近づいてくる
熙子の産んだ
でも直ぐに空に登って行った
豊姫と夢月院
十歳くらいに成長した豊姫と
七歳くらいの夢月院が
熙子の周りを
くるくると回り
通り過ぎて行った
熙子には何故か
女の子と男の子が
成長した豊姫と夢月院だと
わかった
二人は
桃の花の中を
家宣の傍に駆けて行く
桃の花と白い光に包まれた家宣を
豊姫 夢月院 家千代たちが囲んでいた
待って
みな何処に行くの?
わたくしも一緒に連れて行って
わたくしを一人置いていかないで
お願い…
上様…
熙子の頬を涙が伝う。
熙子は目を覚まし
夜具の上に起き上がった。
夢だったの?
あのまま
わたくしも
上様達と一緒に行きたかった…
熙子は泣いていた。
家宣が亡くなってから
初めて
やっと泣くことができた。
豊姫と夢月院が亡くなった時は
家宣の胸に包まれて泣いたのに。
でも今は一人。
どれほど大きな存在をなくしたのだろう。
どれほど家宣を愛し
家宣に愛されて守られていたのだろう。
ふいに
泣いている熙子は
抱きしめられた気がした。
懐かしい
家宣の腕の中にいる気がした。
桃の花がひらひらとが降ってきて
熙子を包む。
熙子は不思議な感覚に包まれていた。
「待たせたな。熙子」
耳元で懐かしい声が聞こえる。
ゆっくりと
見上げると家宣の顔があった。
熙子は
確かに家宣に抱きしめられている。
「上様?本当に上様なの?」
熙子は
微笑む家宣の頬を両手で包む。
「うむ。世である」
家宣は熙子の顎に手を添え
そっと接吻をした。
熙子の良く知っている
家宣の唇。
でも
良く見ると家宣の体は透けている。
「あの世で仕事を済ませてきた。
これでも、そなたの為に急いだのだぞ」
家宣がにやりと笑う。
「上様…」
熙子は家宣の胸に顔を埋めた。
嬉しかった。
嬉しくて涙が止まらない。
「誠に熙子は泣き虫であるな。
そなたが心配で
あちらでそなたの来るのを
待つだけなど、できぬではないか」
家宣は優しく
熙子の髪を撫でる。
「これより
世は熙子と共にいることとする。
よいな、熙子」
「はい、上様」
熙子は再び
家宣の胸に顔を埋める。
もう誰も
将軍と御台所の立場も
二人を分かつことはない。
家宣は
未来永劫
熙子から離れることはない。
家宣と熙子は
二人でひとつなのだから。
狂おしいほどの
桃の花の吹雪に
二人は包まれていた。
完
御高覧
ありがとうございます
将軍 家宣が亡くなった後の事件
家宣の息子である幼い将軍家継の治世
大奥最大のスキャンダルを綴る
『江島生島 大御台所は亡き将軍に溺愛される』に続きます
宜しくお願いします