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「… …さま… 御台様、

 お目覚めになっても

 およろしゅうございまする」


ぼんやりした視界に

上臈御年寄秀小路じょうろうおとしよりひでこうじ

心配そうな顏が浮かんでいる。


「もう朝…」

熙子は呟いた。


いつもなら

寝室の切形之間きりがたのま

(ふすま)の開く気配で目が覚めるのに。


目覚めた熙子の様子に

秀小路はほっとした表情を見せた。


そして

三つ指をついて目覚めの挨拶を述べる。


「ますますご機嫌麗しゅう、おめでとうございまする」


熙子はまだ夢の中にいるようだった。


吹上の御庭の

けぶるような美しい梅の花々が

鮮明に目の前に浮かぶ。


このままずっと

家宣と一緒にいられたらいいのにと

思わずにいられなかった。

すべて忘れられる夢の中に。


苦笑する家宣に

なだめられ大奥に戻ったけれど

予定より遅れていた。


吹上御庭の梅園は広大で

公家の姫にしては丈夫な質の熙子も

さすがに疲れたよう。


怠そうな熙子を

留守を預かった秀小路が優しく気遣う。


「吹上のお庭の梅林は

 見事だったそうでございますね。

 少々お疲れが残ったのでございましょ。

 午後はごゆるりとなさいませ」


熙子は僅かに小首を傾げて微笑んだ。


「そうね、午後は大人しくしているわ」


何気ない仕草なのだが

同じ女性の秀小路でさえハッとする愛らしさ。


家宣が未だに夢中なのも頷ける。


熙子は夢見るように続ける。

「梅は大層美しかったの。

 次の吹上のお散歩にはそなたも一緒に来てたもれ」


そう言うと秀小路の顔をみてまた微笑んだ。

秀小路は公家の娘で

熙子の輿入の時より付き添っている。


次は自分も一緒にと言ってくれる

熙子の言葉に

秀小路の心はふんわりと温かくなった。


心配させまいと健気に振舞う熙子を

このまま暫くゆっくり休ませたいが

そうもいかない。


御台所の朝は一日で最も華やかで忙しい。


何しろ将軍が中奥から正装の(かみしも)

御先祖の御位牌(ごいはい)に拝礼するため

大奥仏間にやってくるのだから。


御台所も将軍の格に合わせた正装で

迎えなければならない。


準備は大がかりだけれど

流れるような優雅さで行われる。


御台所付きの奥女中達は

見目麗しく賢く

気立ての良い者ばかりが選ばれている。

何事も正確で

ゆっくりしているようで手早い。


秀小路の挨拶を合図に

身の回りの世話をする御中臈が

寝たままの熙子の髪を梳く。


続いて運ばれる洗顔の調度(ちょうど)

漆に将軍家の葵と近衛家の牡丹が

金の蒔絵で描かれ絢爛豪華。


熙子は顔をお湯で温めた手拭(てぬぐ)いで清めてもらうと

御中臈達を引き連れ湯殿(ゆどの)に向かう。


熙子が湯殿に足を踏み入れると

(ほの)かな梅の香りが漂っていた。


丸い湯船には

梅の花が散らされ浮かんでいる。


庭で花を愛でる度に

家宣の指図により

その愛でた花が熙子の湯舟に浮かぶ。


夫の気持ちが嬉しい。

梅の花の湯を手で(すく)い香りを吸い込んだ。


甘い香りと揺らめく花湯が

梅の雲海の記憶へといざなう。


熙子が湯から上がると肩に新しい浴衣が

御中臈の手によってふわりと掛けられる。


そのまま畳敷のお上がりの間の中央に立つと

御中臈たちが新しい浴衣を

熙子の肌がさらりと乾くまで何枚も替える。


そして

新しい肌着や小袖を(まと)

朝御召(あさおめし)の御化粧着を着ると

朝食を取るため

御化粧之間(おしまいどこ)へ移動する。


まるで

独楽鼠こまねずみのようにくるくると

御台所松御殿を熙子と奥女中達が動き回る。


御化粧之間には朝食の膳がすでに整っていた。


熙子がしとねに座るなり

御年寄おとしより)桜木によって

膳の蓋が次々に取られる。


御台所の朝食は朝から二の膳の御馳走。

鱚の焼き物や卵焼きが

美味しそうに置かれている。


熙子のために桜木が柳箸で

焼いた(きす)の身をほぐして食べやすくしたりと

かいがいしく世話をする。


毒見を経るなど時間がたった焼き物は

冷めてはいるものの

鱚はあっさりとしていて美味しい。


魚が喜ぶと書く鱚は縁起が良いとされ

将軍家の食卓に毎日のように並ぶ。


時間の節約のために

御中臈に髪を結わせながらの朝食。


大勢の大奥女中に

(かしづ)かれる御台所の日常。


だが

おっとりと振る舞う熙子の頭の中は

いつも急速回転している。


卵を落としたお味噌汁を味わいながら

昨日の散策の労いの品はちゃんと揃っているかしら?

などと考えている。


庭の散策とはいえ江戸城は広大であり

将軍と御台所の供の一行となれば

なかなかの娯楽行事レジャー

褒美(ほうび)を遣わし労う。


食事が済むと少女の御小姓(おこしょう)の椿が

可愛い手でお茶を運んで来た。

紅い振袖に薄い黄緑色の帯が良く似合っていて

御台所御殿の空気がその愛らしさに和む。


お茶にはお決まりの金平糖と

昆布の茶菓子プチフールが添えられる。


星の形の金平糖が熙子のお気に入り。

熙子はその細く白い指で

金平糖を一粒摘まみ口に含んだ。

口の中に甘い至福の一瞬が広がる。


食事と甘味のおかげで

体が少し軽くなったのを感じて

熙子はほっとした。


そして次の作業に取り掛かる。

もう一度顔を(すす)

白粉(おしろい)を塗り

(べに)をさし

一日で一番豪華な打掛(うちかけ)に着替え

やっと裃の将軍を迎える支度が整う。


愛する夫に会うために

目覚めてからの支度は三時間。


御台所の出勤である。


熙子と付従う御年寄達は

将軍を迎えるため

大奥の将軍の居間である

御休息之間ごきゅうそくのまへ向かう。


着飾った御台所と御年寄(おとしより)達の

並び行く様子はなんとも煌びやか。


御休息之間は中奥と大奥を繋ぐ

御鈴廊下(おすずろうか)の奥くにあり

御台所松御殿(みだいどころまつごてん)からは

ほど近い。


熙子の側近くにいたいという

家宣の気持ちが表れている。


御休息之間では

将軍付きの上臈御年寄豊原(じょうろうおとしよりとよはら)が待っていて

熙子達を迎え入れた。


熙子はざっと部屋を見渡し

(しつら)えに不備はないかと確認する。


綺麗に整えられているので

豊原に良いと優しく目配(アイコンタクトせ。


御休息之間を装飾(コーディネート)するのは

妻の御台所の役目。


熙子の指示で

床の間には季節の梅の枝を飾らせている。


御休息之間の確認が済むと

豊原達も熙子の一行(いっこう)に加わり

総振(そうぶ)れの行われる

御鈴廊下(おすずろうか)

御錠口(おじょうぐち)へ向かった。


錠の掛かっている杉戸や天井や襖には

豪華な花鳥風月が描かれ

壁伝いに這うように掛けられた長く赤い紐には

金色に輝く鈴がいくつも付けられている。


御鈴廊下にはすでに

着飾った御目見え以上の奥女中達が

並んで控えていた。


張りつめた緊張感と

徳川の繁栄を象徴する絢爛(けんらん)


熙子が現れると

奥女中達は寄せる波のように平伏ひれふす。


その奥女中たちの前を

熙子は軽やかに

錠の掛けられた杉戸に向かって歩く。


杉戸の手前まで来ると静かに座り

家宣の御成(おな)りを待つ。


やがて鈴が恭しく鳴り

衣擦(きぬず)れと足音が近づいて来た。


「上様のお()ーりー」


御錠口係によって錠が解かれ

杉戸が空けられると

裃姿の凛々しい家宣が立っていた。


熙子は居住いを正し微笑み

手をついて迎える。


「上様、ごきげんよう」


目が合い家宣が優しく微笑む。

「うむ、では参ろう」


将軍になる前の甲府宰相こうふさいしょう時代

家宣十七歳

熙子十三歳で結婚以来

仲睦まじく寝起きを共にしていたが

家宣が将軍になったことで

夫婦の生活は激変した。


将軍の日常を過ごす部屋は

御錠口の向こう側の

執務室(オフィス)でもある中奥(なかおく)にある。


寝所も別で

共に過ごす時間は少なくなり

互いに寂しい思いをしている。


ゆえに朝

再び会えるこの時が

二人にとっての幸せな瞬間。


晴れやかな微笑みをたたえた熙子は立ち上がり

家宣の後に続く。


奥女中達が再び波のように平伏す中を

将軍夫妻と御年寄達が

御仏間に向かって歩いていく。


大奥の総振れである。


御仏間の仏壇には

歴代将軍の御位牌が置いてあり

その御位牌に向かい

将軍と御台所揃って拝礼をするのが

将軍家の朝の(なら)わし。


毎日繰り広げられる

大奥の朝の儀式。


御仏間の拝礼が終わると

やっと夫婦水入らずのひと時になる。

御休息之間の上段の間に並んで寛ぐ。


「熙子疲れてはおらぬか、昨夜はよく休めたか」と

家宣が甘い視線で少し心配そうに尋ねた。


「はい、とても良く眠れましてございます

 昨日の梅はまことに美しくて。

 上様と御一緒のお庭は夢のよう。

 今朝の御湯の梅も良い香りで

 まだ夢の中にいるようですわ」


熙子は

吹上の記憶にうっとりとしている。


家宣は熙子の喜ぶ様子に安心した。

「そうか、ではまた近々参ろう」


家宣は

熙子が喜ぶ顔を見るのが何よりも嬉しい。

この顔が見たくて

家宣は熙子を庭に連れ出す。


若い頃より連れ添った熙子は

家宣にとって

生きがいであり幸せそのもの。


熙子がいるからこそ長い不遇の時代も

それほど辛くはなかったし

そして

今の将軍の重責にも堪えられている。


二人で昨日の梅や鶯の話していると

将軍付き御中臈たちが

お茶と

白い小さな大福が盛られた高坏たかつき

持ってきた。


散策の途中の休憩で

出された御菓子である。


白餡の中に

蜜に漬け細かく刻んだ梅が

ほんのりと(かお)

爽やかで柔らかな

一口ほどの大福。


家宣の着想アイデアで作らせた

独自オリジナルの新作。


梅は

去年吹上で取れたものを使っている。


飢饉や有事に備え

江戸城で栽培しているもののひとつ。


御菓子(スイーツ)好きの熙子が

一目見るなり瞳を輝かせた。


「まあ、嬉しい。

 昨日もとても爽やかなお味で

 美味しゅうございました。

 またいただきたいと思っておりましたの」


熙子の嬉しそうな顔を見た家宣は

満足そうに鷹揚な笑みを浮かべる。


「気に入ったか。上方の口にも合うのだな。

 朝廷への饗応にも使えようか?」


「はい、きっと御意(ぎょい)に叶いますかと」


「菓子の名はなんとしよう?」


「そうですわね…。

 雲のようにふわふわと柔らかいので

梅雲うめくも』はいがかでございましょう?」


「それはよいな

 そういたそう。誰ぞ紙と筆を持て」


御中臈が筆机(ふづくえ)を近くに寄せると

家宣は筆を手に取りさらさらと記す。


書き終わると

家宣が大福に手を伸ばした。


家宣が中々良い味だと

視線を投げると

それを受けた熙子が

微笑み少し首を(かし)

畏まりましたと続く。


その微笑みながら

首を少し傾げる仕草に

家宣の心はときめいた。


熙子が

白い指で黒文字(くろもじ)を使い

小さな大福を口に運ぶ。


ほのかな爽やかな梅の香りと

和三盆(わさんぼん)の甘さが

口の中に広がった。

熙子は目を閉じうっとりする。


その熙子を家宣は甘く見つめる。


二人の幸せなひと時は瞬く間に過ぎていく。


お茶が済むと

将軍は着替えや講義を受けるために

中奥に戻らなければならない。


中奥と大奥を繋ぐ

御鈴廊下の御錠口まで一緒に向かった。


御錠口の手前で家宣は振り返り

熙子に優しく本日の予定を伝える。


「昨日出掛けたゆえ、今日は執務が多い。

 夕餉には戻る。

 それまでゆっくりするがよい」


熙子は家宣を見上げて微笑む。


「はい、心待ちに。では、上様ごきげんよう」


出勤する夫を見送った。


御錠口が閉じられ

カチンと錠が掛けられた。


熙子は立ち上がり御錠口を後にする。


長い廊下を

家宣のいない寂しさを抱えながら

御台所御殿に戻る。


御殿に帰り着いた熙子は

なんとなくいつもと違うことに気づいた。

部屋がいつもより明るい。


―これから昼御召(ひるおめし)に着替えるから

 障子も閉め御簾(みす)も降ろしている筈なのに―


この時間にしては珍しく御簾が上げられていて

その向こうに何かが置かれている。


控えていた御中臈のお菊が

明るい声で熙子に話しかけた。


「御台様、先程上様より贈り物がございました。

 どうぞきざはしまで

 お進みになりご覧くださりませ」


「まぁ、上様が?何かしら?」


―つい今しがた中奥へ見送ったばかりなのに―


熙子はお菊の勧めるままに足を運ぶ。


上げられた御簾の向こうには

人ほどの大きさの

一対の白梅紅梅の盆栽が置いてあった。


まるで二人の天女が

佇んでいるかのような艶やかさ。

熙子は思わず階に降り梅に近寄った。


すると開けた視界の先に

広い芝生の上に

幾つもの大きくつややかな鉢に植えられた

満開の花を咲かせた梅が置かれている。


御台所御殿の庭は

さながら吹上の梅園のようになっていた。


参拝と総触れの僅かな間に

家宣によって庭に魔法がかけられたのだ。


この広い御台所御殿に

家宣の部屋はなく

訪れてくれても

わずかな時間しか一緒にはいられない。


将軍と御台所という立場の重さは

常に一緒だった夫婦の形を変えてしまった。


気持ちがすれ違うことを

家宣は恐れている。


家宣は熙子に愛を形にして伝えたい。


共に過ごす時間の少なさを埋めようと

熙子を微塵も不安にさせたくはないと。


熙子の目の前の梅の花の雲は

家宣の愛に包まれていると感じさせた。


庭は極楽のように美しい。


熙子は家宣によって

夢の中に戻されたのだった。










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