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山梔子

御台所御殿の

夏の気怠い空気に

甘い花の香が充ちる。


家宣から贈られた

白い花を咲かせた山梔子(くちなし)

御殿の彼方此方(あちらこちら)に飾られ

甘い芳香を放つ。


熙子は甘い花の香が好き。


それを知っている家宣は

季節の甘い香りの花を

熙子に贈る。


家宣は吹上御庭で散策をし

熙子が気ままに花を摘む様子を

見たいたいのだが

夏の頃は暑く

御台所御殿で涼やかに

夏を過ごしていた。


熙子の住まう御台所御殿の庭は

築山から滝が流れ

大泉水には大きな橋が架かる

壮大な庭。


家宣は将軍に就任すると

熙子の父 太閤の助言(アドバイス)の元

大奥を七十万両かけて改修。


御台所の地位確立の象徴として

御台所御殿とその庭は

華麗で壮大な造りにした。


家宣の熙子への愛の深さを表している。


日差しが弛み

暑さが和らいだ頃

池には舟が浮かべられ

鼓や笛の音色が流れる。


舟の上で

妙なる音色を奏でるのは

熙子の見目麗しい御中臈達。


家宣は熙子を胸に抱き

のんびりと夏の夕刻を楽しむ。


家宣は柔らかな微笑みを湛えていた。


腕の中の

熙子の体から堅さが溶けている。


家宣が将軍世継に決まってから

熙子の体はどこか硬くなった。


抱き寄せると

以前とは違って

されるがままのようでいて

拒むような硬さがあった。


熙子は表には出さないが

やはり妻として傷ついているのだと。


御台所として

受け入れるしかなくとも

辛いのだと。


不平不満を言わない

熙子の心の内は

腕の中に抱くと伝わってくる。


何時しか家宣は

こうして熙子の気持ちを

確認するようになっていた。


最愛の熙子に

辛い思いをさせていることが

家宣も辛く

熙子が遠のいたようで寂しかった。



長い時を経てようやく

子を儲けることを諦め

側室を遠ざけて

熙子はやっと

家宣を信じて受け入れてくれた。


桜田屋敷の頃の

熙子に戻りつつある。


家宣は熙子を胸に抱きながら

その嬉しさを噛み締めていた。



涼を取るため二人の傍に

水が張られた大きな絵皿が置かれている。


山梔子の花を浮かべた水面は

家宣と熙子の密のような姿を映す。



熙子はほんの少しの心配を

家宣の腕の中で(こぼ)した。


「舟を浮かべたと聞けば

 また白石が上様に

 お小言を申し上げるやもしれませぬ」


家宣は自身を心配してくれる

熙子が愛おしく

髪を撫でながら優しく安心させる。


「気にすることはない。

 偶に奏でさせねば腕が鈍る。

 それに

 白石の助言を入れて

 千代田の城が抱えていた踊り子などは

 みな暇を出したではないか。

 そなたの侍女を使うのなら文句はなかろう」


その言葉に熙子はほっとして

家宣の顔を見上げ微笑む。


「こちらの音色が

 上様のお気に召し

 ひと時のお慰みになりますれば

 嬉しゅうございます」

 

熙子はそう言うと

家宣の胸に頬を寄せた。


家宣も微笑みながら

熙子の髪を撫で

池の舟を眺め音色を楽しむ。



白石は家宣が

能や園池遊びに熱心なのを

度々諫めていた。


能は神君家康公が好み

幕府の祝賀や社交に

舟遊びは朝廷の饗応にと

将軍の嗜みなのだが。


白石は

家宣の学問の師であり

当代一の学識を誇る政策の頭脳(ブレーン)

家宣を理想の君主に育て

相応しい御代するべく情熱を注いでいる。


白石は

先代将軍の頃の

緩んだ世相を憂慮していた。


綱吉の御代は

元禄文化が花開いた時代。


華やかな時代の陰では

いつの世も風紀が乱れる。


規律が乱れ賄賂が横行する。


儒学者である白石は

その乱れた世を正そうと

闘志を燃やしている。


家宣が将軍に就任すると

様々な引き締めを進言した。


そのひとつが

踊り子追放だった。


江戸城や大名家の奥向きでは

踊り子や奏者を雇い

接待に使う習慣があり

白石はこの習慣が軽薄であると嫌っていた。


学問こそ至高

という信念の男である。


また

大名の中には

軽々しく踊り子を妾にする者がおり

家格を落とす振舞いと嫌悪していた。



世継の鍋松の生母 左京も踊り子として

甲府宰相家に雇われたのである。


ここでも白石は家宣を

チクリと諫め警告していたのだ。


白石の炯眼(けいがん)

後におこる大事件(スキャンダル)

江島生島事件を

見通していた。


左京と江島が

甲府宰相家に採用された年に

先代将軍綱吉の

一人娘 鶴姫が亡くなった。


ついに綱吉が諦めて

家宣が将軍世継として

迎えられる年である。


鶴姫が亡くなったことで

生類憐みの令を発してまでも祈願した

綱吉の血筋を将軍にする

希望は断たれた。


綱吉の生母 桂昌院は無念だった。


将軍家光の寵愛を争った

(ライバル)の孫である

家宣の将軍就任を阻止できない悔しさ。


諦めきれない桂昌院は

策に打って出る。


配下の側室に世継を産ませ

家宣を支配しようと。


桂昌院は支配下にあった

綱吉の愛妾 瑞春院と動いた。


綱吉の側室であり

亡くなった鶴姫の生母 瑞春院。


左京を

瑞春院と懇意の

旗本矢島家の養女として

体裁を整え

江島と共に甲府宰相家に送り込んだ。


左京、(のち)の月光院付の

御年寄となる江島は

鶴姫付きの侍女だったが

鶴姫が亡くなったあと

老女として甲府宰相家に就職させた。


同時に左京も甲府宰相家に

江島付の 踊り子 兼 部屋子 として就職。


甲府宰相家側も

将軍綱吉の斡旋となれば

江島と左京の就職を

断ることなどできなかった。


浅草小町と謳われた

若く美しい左京は

早々と家宣の目にとまり

側室となり世継を産み

家宣の寵愛を独占するよう期待された。


そうなれば

家宣が将軍に成っても

幕府は思いのまま

桂昌院と瑞春院の権勢は揺るがない

はずだった。


桂昌院と瑞春院の対抗勢力の

公家方も抑えることができる。


だが

左京陣営の願いは脆くも崩れ去る。


家宣が左京を寝所に呼んだのは

仕えてから数年後。


左京がようやく鍋松を産んでも

家宣の熙子への寵愛は

眩しくなるばかり。


左京側が動けば動くほど

家宣はそれを察して

熙子を守ろうと動く。


家宣側としては

家中(かちゅう)間者(スパイ)を入れたも同然の状態で

瑞春院側の動きが筒抜けな形となった。


家宣が(かたく)なに

左京や側室たちを

熙子の御殿に近づかせないのもそれが理由。


間者(スパイ)

最愛の妻の部屋に入れることなど

軍事機密防衛のためにも

できるはずもない。


家宣のもう一人の側室

新典侍(しんすけ)もまた

綱吉と桂昌院配下の

柳沢吉保の斡旋だった。


複雑に絡み合う糸。



さて、話を御台所御殿に戻そう。



妙なる舟の演奏が終わる頃

熙子のお楽しみの

御菓子が運ばれてきた。


和菓子も

家宣の熙子への贈り物。

御膳奉行に家宣自ら

指図して作らせた。


大きな夏蜜柑を

一粒ずつ房から取り出し

水飴に漬けて

透明な寒天に閉じ込めた

目にも涼やかな御菓子。


家宣は果物好きの熙子のために

吹上御庭にも果樹園を造った。


「吹上の果樹園で採れたものだ。

 今年も良い出来であったな」


熙子は

目を綺羅綺羅させ

家宣に連れられて

果樹園を散策しながら

夏蜜柑を収穫した時を思い出していた。


「はい、沢山実っておりましたわね。

 蜜柑の色の瑞々しいこと。

 涼やかで

 夏に相応しゅうございます」


早速、熙子は

白くしなやかな手で柳箸を持ち

一口大(ひとくちサイズ)の寒天を

口に運んだ。


寒天のほんのりとした冷たさと

甘さと爽やかな香りと酸味が

染みわたる。


熙子が和菓子(スイーツ)に溺れる顔を

隣で見ていた家宣は

子供に戻ったような熙子が

愛しくて仕方なかった。


つい口元がにやけてしまう家宣。


「誠に、そなたは食いしん坊であるな。

 たんと食べよと言いたいところだが

 じきに夕餉。

 夕餉の膳にもその甘味を載せるゆえ

 今はほどほどにするように」


家宣は

いつものように

ゆったりと脇息に肘をつき

甘い視線を熙子に投げかけ

子供をあやすような優しい口振りで熙子を諭す。


熙子や奥女中達の微笑み合う

柔らかなさざ波が御殿に広がる。


穏やかで綺麗な

二人の遊び。


主たちの綺麗な遊び方は

仕える奥女中達にとっても幸運なこと。


理不尽さに耐えることも

闇に巻き込まれることもない。


奥女中達も

穏やかな御台所の元

実力を発揮し

歴史を織りなしていくこととなる。


家宣と熙子の

将軍夫妻の雅。



山梔子の甘い香りと

美しい時間が

御台所御殿を包んでいた。




























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