蛍
御台所御殿の庭を
家宣と熙子は眺めている。
紫色と藍色の夏の宵の空に
仄かに丸い光が飛び交う。
「蛍とは、なんて儚く美しいのでしょう」
熙子のうっとりとした呟きに
家宣が答える。
「そなたには敵わぬがな」
家宣は悪戯な笑みを浮かべながら
腕の中の熙子に囁いた。
熙子は家宣に
ゆったりと体を預け
包まれている。
こんなに安らかな気持ちで
上様の腕の中にいるのは
いつ以来かしら
熙子は
甲府宰相時代の
桜田屋敷で
いつもこうして
家宣の腕の中で庭を見ていた。
穏やかで幸せで
夢のような日々だった。
しかし
家宣が将軍世継に決まったことで
穏やかな日々は終わりを告げ
家宣との日常は激変した。
熙子との間に嫡男がいないため
側室も迎えなければならない。
熙子は
ついに恐れていた時が来たと思った。
熙子もまた
御台所として
生きていくこととなった。
家宣は熙子を心から愛していた。
側室がいようと
家宣の熙子へ愛情は
変わるはずがなかった。
家宣にとっても最愛の妻熙子に
辛い思いをさせることは
身を裂く思い。
家宣は三人の側室を迎えても
直ぐには寝所に呼ばなかった。
熙子が新しい環境に慣れるまで
家宣は時間をかけた。
側室を呼ぶようになると
家宣は以前にも増して
熙子の傍から離れなくなった。
降るような高価な贈り物や
思い出の詰まった御浜御殿に
頻繁に連れて行ったりと
愛情を示した。
それでも熙子は不安だった。
家宣も男。
いつか家宣が
熙子を置いて
若い側室の元に
去ってしまうのではないか…
心のどこかで怯えていた。
それは結婚が決まってからずっと。
名門の妻となった運命と。
だから
熙子は傷つかないように
愛しすぎてしまわないように
逃げていた。
でも家宣が
御台所御殿の寝室を訪れた夜
伽の左京を置いてまで
来てくれた夜
ようやく
熙子は家宣の永遠を
受け入れることができた。
ただ一人永遠に愛されるのだと。
家宣はそれから
側室を召すことはなかった。
熙子も
もう側室を勧めなかった。
それは
鍋松に万一のことがあっても
家宣の世継を諦めるということ。
鍋松の万一は
徳川宗家の直系が
途絶えるということを意味した。
肩の荷が降りた家宣と熙子は
穏やかに仲睦まじく過ごしている。
夕餉の後
御台所御殿の庭に
家宣は沢山の蛍を放させた。
夜になったばかりの
藍色の宵に
幻想的な光が舞う。
華麗な装飾の御台所御殿の
御簾を巻き上げた柱に
家宣はもたれ
熙子を腕の中に包んで蛍を眺めている。
ふわりとした光が
熙子の肩に止まった。
家宣は
熙子の頬に手をあてると
顔を近づけ
そっと接吻した。
そして優しく囁く。
「熙子を捕まえたゆえ。
そなたは世から
もう逃げることはできぬ。心せよ」
「はい、上様」
熙子は
家宣の胸に顔を埋めた。
家宣の腕の中で
ただひとり
愛されている幸せを感じながら
共に蛍を眺めた。




