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家宣は眠れずに

中奥の(きざはし)に出て月を見ていた。


白い月に熙子の白い美しい顔が重なる。


夫婦だというのに寝所も別。

将軍とは、もどかしいもの。


甲府宰相時代は

熙子と共に月を眺めていた。


熙子の産んだ亡くなった子供たち

豊姫と夢月院を偲んで。


月は夫婦の寝所が離れた今も

家宣と熙子を繋いでいる。


夜毎熙子を一晩中腕に抱いて眠っていた

あの頃が懐かしい。



有明の 月に重ねる我が妹の

(かんばせ)(うつ)す 紫陽花の玉露(つゆ)



家宣は熙子が恋しいと

和歌にして届けさせた。



我が君の 面影思い出 重ねつつ

見上げる夜半の 月のさやけさ



熙子から返ってきた和歌は

家宣にとって身を裂くような歌だった。


熙子は思い出があるから

心配しないでほしいと

家宣を気遣ったのだが。


熙子が家宣を思って身を引くほど

愛おしくてならない。


熙子を傷つけたくない。

熙子を守りたい。



のらりくらりと

大奥泊(おおおくどまり)(かわ)していた家宣だったが

また鍋松が夏風邪にかかり寝込んでしまった。


鍋松がこれほどに体が弱くては

世継の心配が幕臣から出るのは仕方なかった。


とうとう家宣は

幕臣からの男児を儲けろとの要請を

拒めなくなった。


世継を上げるのは将軍の務め。


家宣は諦めて

左京を寝所に召すことにした。


左京を召す夜

家宣は熙子と御休息之間で夕餉を摂った。


熙子は務めて優しく振舞っているが

家宣は気が重い。


「御台、

 そなたの匂い袋の香りが薄くなった。

 取り換えてくれ」


家宣の声は沈んでいた。


家宣は中奥でも

熙子を傍に感じていたいと

熙子の匂い袋を部屋に置いていた。


熙子は筥迫(はこせこ)から

優雅な香りの匂い袋を取り出すと

両手で愛らしい仕草で家宣に差し出した。


「上様、どうぞ」


家宣は匂い袋を受け取ると

香りを確かめる。


 あぁ、熙子の香りだ。

 なんと落ち着くのだろう


家宣は熙子の手を引き寄せると抱きしめた。

そして窓から月を二人で眺めた。


熙子は家宣の胸の中で

家宣の温かさだけを感じるようにしていた。

左京のことは脳裏から消し去った。

考えても辛いだけでどうにもならない。


熙子は愛する将軍家宣の子を残したい。


夜が深まり

熙子が御台所御殿に下がると

家宣は白綸子の寝巻に着替えた。


左京が寝所の御休息之間に来るまで

(きざはし)に出て白い月を見る。

熙子の匂い袋を持ったまま。


家宣も男だから

若い女を抱けなくはない。


しかし終わった後の寂寥(せきりょう)感が虚しかった。

熙子以外は、どの側室とも虚しさだけが残る。


熙子とは満たされた幸せがあった。

手を重ねるだけでも溶けあう。


三十を過ぎお褥滑(しとねすべ)りをした熙子を

将軍となった家宣が寝所に召すことはできない。


せめて熙子を

抱きしめていたい。


熙子に思いを馳せながら

家宣は白い月を見る。




召された左京は下げ髪にして

白綸子の寝間着に身を包んで

御休息之間に来た。


大奥の御休息之間の上段の間には

将軍と側室用の布団が並べて敷かれている。


二つの布団の両脇には

添寝役の布団が敷いてあった。


将軍側の布団には別の側室が

側室側には御伽坊主(おとぎぼうず)

背を向けて添寝する。


そして

御簾と衝立を挟んだ下段の間には

御年寄と御中臈が寝ずに見守る。


将軍と側室の会話や営みのすべてを

四人もの女性が

直接は見ないが監視する。


側室のおねだりや暗殺を

防止するためなのだという。


これでは会話もままならない。


奇妙で残酷で堅苦しい仕組(システム)


この仕組を大奥に導入したのは

家宣である。


御台所を、名実共に女主人にし

大奥を整備した将軍、家宣。


世継を上げるのは仕事だと

割り切っていたのだろう。


将軍と御台所が共寝するときは

両隣の添寝はなく部屋には夫婦のみ。


万一に備え下段の間に

御年寄と御中臈が宿直(とのい)する。


将軍夫妻の共寝の夜は

休むまで談笑して寛いだという。



やっと召された左京は

晴れやかな気持ちだった。


これで後ろ盾の瑞春院や矢島家に

肩身の狭い思いをしなくてもいい。

美しい左京は

父 元哲に似て自信家で野心家だった。


左京は布団の脇に控え

家宣を長い時間待っていた。

しかし、家宣が現れる気配がない。


左京は階に居るという

家宣の様子を見に行った。


階の欄干に寄り掛かり月を見ている。


左京はこの機会を逃すわけにはいかなかった。


 上様が振り向いてくれるかもしれない。

 いいえ

 御台様から奪わなければ!


左京は家宣のそばに座り

そっと家宣の背中に寄り添った。


家宣の体から

(ほの)かに熙子の香りが漂う。


左京は大きな目を見開く。

熙子に嫉妬した。


家宣に自分だけを見て欲しいのに。

妻として愛して欲しいのに。


左京は屈辱を飲み込み家宣の気を引くために

甘い声で語りかけた。


「今宵の御召し、光栄にございまする。

 上様とわたくしの間には

 鍋松君も授かりました。

 わたくし達は前世からの(えにしが深いのでしょう」



家宣の体がぴくりと動いた。


振り返って左京を見る家宣の目は

怒りに燃えていた。


「…そなただったのだな」


即座に立ち上がった家宣は

白い炎を纏い足早に去った。


「上様、お待ちを!」


左京は思わず叫ぶ。

何が起こったのかわからず

茫然と崩れ落ちた。


 何がいけなかったの?

 どうして上様は行ってしまわれたの?

 いつも…どうして…



家宣は布団の敷いてある

御休息之間を横切りながら告げる。


「そなたたちは、朝までこのままで居よ。

 今宵のことは他言無用」


そのまま御休息之間の外に出る。


「上様、如何なさいました⁉どちらへ⁉」


外に控えていた豊原が急いで家宣の後を追う。


家宣が向かったのは

熙子のいる御台所御殿。


「熙子!熙子は何処にいるのだ!!!」


広い御殿を探す家宣の声が聞こえる。


熙子は眠れずに物思いに耽っていたが

驚いて布団の上に起き上がった。


寝室の襖が開くと、家宣が立っていた。


「上様、どうなさいましたの?左京は?」


家宣は熙子を認めると

勢いよく熙子を抱きしめた。


「愚かな…

 そなたはなんと愚かなのか」


華奢な熙子は

家宣にきつく抱きしめられ藻掻(もが)いた。


「上様…息が…苦しゅうございます」


「世がこれほどまでに

 愛しいと思っているのに何故わからぬ」


家宣の絞り出すような声…

微かに泣きそうな声だった


熙子は戸惑った。

夜更けに突然この御台所御殿の寝室に

家宣が訪ねてくるなど初めてだった。


「このような夜更けに

 こちらに居られましては

 良からぬ誤解を生みましょう」


家宣に抱きしめられたままでも

熙子は御台所として振舞う。


家宣は熙子を腕に抱くと

熙子の顔を見つめ髪を優しく撫でた。

そして甘く諭すように(ささや)く。


「夫が妻の元にいて何が悪いというのだ。

 世はそなたが恋しくてならぬ」


家宣はそのまま熙子の体を横たえた。

熙子も、もう何も言わなかった。


夜明けまで家宣は

熙子の寝室で過ごした。

「ひとりのみ 月見るものと ならひ来て

 さきはれぬ身を うらにだにせず」


熙子が江戸滞在中の

父の太閤近衛基煕に送った歌です。

ある解説には、大奥では夫と疎遠になったとあり

仲の良い夫とも側室が三人もいたら

ほぼ会えなくなって寂しい日々なのも仕方ない

と思っていました。


しかし瀬川 淑子氏の著書

「皇女品宮の日常生活:

 无上法院殿御日記を読む」には

熙子は毎日のように

家宣と吹上御庭を散歩し

太閤は丸二年の江戸滞在中

毎日のように熙子に会いに

大奥を訪問していたそうです。

そして家宣は太閤に話を聞きに

太閤が江戸城に到着すると直ぐに

家宣は熙子の部屋を訪ねていたそうです。


え?毎日会ってたって事?

毎日のように吹上を散歩?

毎日デートして部屋を訪問って

熙子はとても愛されてるじゃない、と。


それに月は熙子と家宣にとって

特別なものだったようです。


出産してすぐ夭折した

長男の名前は夢月院。

側室右近の産んだ家千代の戒名にも

月が入っています。


側室月光院の号は

誰が付けたのかわかりませんが

月ってわざわざつけたんだなぁと思います。


家継が夭折した後

その後を継いだ吉宗は

月光院の住まいを吹上御庭に建てます。

綱吉の側室の御殿があった北の丸に住んでもよさそうなものですが。


月に吹上…

月光院ってすごく押しが強い人だなと思い

このイメージで書いています。

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