嘉祥
嘉祥元年六月十六日に十六の数に
ちなんだ菓子を神前に供えたことから
菓子を食べ厄除けと招福を願う
「嘉祥の祝い」
戦勝を祈願した家康が
「十六」と鋳付けられた嘉定通宝を
拾って縁起をかつぎ
家臣が手製の菓子を献上した
東照大権現神君家康公の故事にちなんだ
嘉祥の祝いの
盛大な行事が江戸城で行われた。
江戸城の五百畳ある大広間に
二万個もの羊羹などの和菓子が
並べられたという。
江戸城大広間にて
嘉祥の祝いを終えた家宣が
大名たちに振舞った御菓子を
豊原に持たせて
熙子の部屋に現れた。
熙子の膝に抱かれた鍋松は
家宣の持ってくる羊羹を楽しみに
首を長くして待っていた。
家宣は下戸だからか
甘いものが好きで
息子の鍋松も似たらしい。
「待たせたな鍋松、縁起物ゆえ食すが良い」
「はぁい」
鍋松は
熙子が手ずから食べさせてくれるのを待っている。
熙子を母として
心から信頼して甘えていた。
「さぁ、鍋松、お口を開けて。
よう噛んで食べるのですよ」
熙子が黒文字で
羊羹を小さく切って
鍋松の小さな口に運ぶ。
家宣は
熙子が母親として
幸せそうに鍋松の世話をしているのを
嬉しそうに見守っている。
「誠に鍋松君はお可愛くあらせられる。
鍋松君がこちらの御殿に御出でになると
花が咲いたように華やぎまする」
御年寄りや御中臈達が褒めそやす。
鍋松は大奥の癒しの天使。
お腹がいっぱいになった鍋松は
若い女中たちと、庭に出て遊び始めた。
家宣と熙子は
毬遊びに興じる鍋松を見守る。
美しい若君の鍋松と
美しく着飾った若い女中たちが
艶やかな絹糸で彩られた毬で遊ぶさまは
絵物語のように華やか。
機嫌の良さそうな家宣に
熙子はやんわりと
次の子を儲けるように水を向けた。
「鍋松の可愛いこと。
それに上様に似て賢うございますわね。
左京が産んでくれたお陰でございます。
上様と左京は
前世からの深い縁がございますのでしょう」
家宣は不意を突かれた気がした。
すっかり元の仲睦まじい夫婦に
戻ったと思ったのに。
油断大敵である。
思わず熙子を引き寄せ、抱きしめた。
「なにを馬鹿なことを…
そのような事は露ほども思ってはならぬ。
世は熙子だけが
前世からの深い縁で結ばれていると
固く信じている」
家宣は熙子をふわりと抱き上げる。
華奢な熙子は、天女のように軽い。
家宣は熙子を見上げながら言う。
「世はそなたしか
愛しく恋しいと思ってはおらぬ。
そなただけが未来永劫
我が妻ゆえ」
「上様…」
熙子は
こんなにも家宣に愛されて嬉しかった。
若い側室たちに
嫉妬しないといえば噓になる。
でも、嫉妬してもどうにもならない。
醜い自分の心を見せつけられるのも辛い。
それに側室達は
もう熙子が望んでも産むことが叶わない
家宣の子を産んでくれるのだ。
家宣は仁厚く徳の高い将軍。
その子鍋松も温和で賢い。
熙子は
徳川や民のためにも
愛する家宣の子を残したい。
そして
家宣を愛しているから
苦しみから逃げたい。
家宣は
熙子をいつも見つめているから
熙子の心が手に取るようにわかる。
長年連れ添った夫婦。
逃げそうな熙子を
家宣は腕の中に抱いて逃がさない。
熙子は家宣のすべてなのだから。




