薪能
紫陽花の打掛の熙子が
透き通るように美しく儚かったため
家宣の庇護欲を掻き立て
更に寵愛眩しくなった。
相変わらず
家宣は御台所御殿で過ごしている。
熙子の部屋に書類を持ち込んで
熙子の膝枕で仕事をしていた。
困ったのは熙子である。
病弱な鍋松だけでは心もとないと
幕臣から心配の声が上がっているのは
熙子の耳にも入っていた。
鍋松に万一あらば
徳川宗家の直系の血筋が危うくなる。
御台所として
家宣の子供を上げる責務があった。
愛する夫の子供を残したい。
大奥は
幕府年間予算の五分の一という
莫大な額で運営されている。
家宣は
熙子の膝で知らぬそぶり。
将軍世継に決まってから
三人も側室を迎え
四人も男子を上げた。
家宣は疲れていた。
若く美しいだけの側室たち。
熙子ほどの教養や深みは望むべくもなく
会話すら続かない。
新典侍は公家の姫で
熙子が後ろ盾ということで寵愛したが
結局、大五郎と虎吉は夭折してしまった。
家宣は、熙子と鍋松と
このまま静かに暮らしたかった。
その頃左京は
長局の自室で
身の置きどころなく過ごしていた。
家宣は
御台所御殿に行ってしまうので
大奥の将軍の部屋である御小座敷は
空のような状態。
将軍付御中臈の左京は
御子座敷での仕事が殆どない。
後ろ盾の先代側室 瑞春院や同じく甲府家に上がる際に
斡旋してくれた旗本 矢島家が
筆頭老中 相模守を動かしてくれたというのに。
父 元哲にも何と詰られることか。
相模守の催促で
左京は早々に家宣に召されるはずが
何故か熙子の寵愛が
以前にも増して眩しい。
左京は
自分の美しさ賢さに自信があった。
生家のある浅草では
浅草小町と謳われ
男達はみな振り返った。
それなのに
家宣は左京に興味を示さない。
十歳以上も年上の御台所に
歯が立たない悔しさ。
鍋松は御台所のお養い。
左京は母親としても扱われず
奥女中の一人にすぎない。
こんなはずでは…
なぜ美しい私が
こんな目に合わなければならないの?
中奥でも越前が頭を抱えていた。
再三の老中達からの
若君催促と嫌味攻撃。
相模守が廊下ですれ違いざま
柔やかに扇で口元を隠し
越前の耳元で囁いた。
「これは越前殿。
上様の大奥泊はまだでござるかのぅ。
御側室は美女揃いでございまするなぁ。
いやはや、上様が羨ましい。ハッハッハ」
越前も
世継問題は
徳川の存亡に関わる事と
重々承知しているが
今、家宣を刺激すれば
錯乱するのは火を見るより明らか。
越前は
遠ざかる相模守の背中を見送り
溜息をついた。
そして空を見上げる。
越前はどうしたものかと悩みながら
私室に戻った。
すると、白石が来ており
いつにも増して噴火していた。
家宣が雅楽を催し
舟を浮かべたと聞いたのだ。
「上様は、どういうおつもりか!
御台様も御台様じゃ。
上様を御諫め申し上げてくれなくては困る!!!」
熙子にまで、とばっちりである。
越前は
甲府時代から長く仕えているので
熙子の人となりを充分理解していた。
美しいあの優美な微笑みで
白石を宥める。
「いえ、白石殿。
御台様はそれとなく
御側室をお勧めなさっているようなのだ。
それで上様は荒ぶっておられる。
しばし、しばし待たれよ」
苦労が絶えない越前だった。
それでも、心酔する主君のためである。
耐える越前。
白石まで口うるさくなったと
耳にした家宣はうんざりした。
仕返しするかの如く
夕刻に薪能をすると言いだした。
久しぶりに
御台所と共に眺めたいと言う。
能舞台は中奥にあった。
急な所望で
江戸城お抱えの能役者さえ
呼ぶ調整が間に合わず
越前が舞うことになった。
越前は
甲府藩士の息子だが
見目麗しく舞が上手かったので
猿楽師に弟子入りさせられた経歴の持ち主。
そして、若き甲府宰相時代の
家宣の御前で舞を舞って
目に留まったのだった。
「あの若い役者はどことなく典雅で
殿に雰囲気が似ておりますわね」
家宣と共に観ていた
熙子の何気ない一言が
切欠だったという。
能好きの家宣の
能の練習相手も兼ねて
越前は小姓に取り立てられ
一度は武士の世界から
打ち捨てられた身を
家宣と熙子によって救われた。
ここに
家宣と越前の
最強の主従関係が誕生した。
越前は幕臣の頂点である
御側用人に引き上げられ
高崎五万石の大名にまで登りつめた。
越前は
家宣と熙子の恩に報いる為
そして鍋松の為に
その身を捧げる覚悟であった。
夕刻
家宣が熙子と鍋松を伴って
中奥の
能舞台を臨む座敷に現れた。
建前は
嫡男 鍋松に薪能を見せ
教養を積ませるため。
鍋松は幼いので
嫡母 熙子が付添う。
誰も反対できない口実である。
かがり火の中
美しい越前が能を舞う。
その舞は
神秘ささえ漂う優美さだった。
熙子と
熙子の膝に抱かれた幼い鍋松も
越前の舞に引き込まれていた。
家宣は隣の熙子を見た。
熙子もまた
かがり火に照らされ
天女のように美しい。
妖しいまでに美しい熙子。
越前に引き込まれたままの熙子に
家宣は僅かな嫉妬の炎を
胸に覚えた。
家宣は立ち上がる。
「世も、一指し舞うぞ」
熙子は家宣を見上げた。
「上様の舞を拝見は久しぶり。
嬉しゅうございます」
家宣は、熙子と鍋松に微笑むと
能舞台に上がった。
二人の舞は
流石に息が合っていて見事。
鍋松は熙子の膝ではしゃぐ。
「ねぇ、ははうえ。ちちうえ おじょうず。
ととぽむ ととぽむ」
鼓の音を口ずさむ鍋松。
傍に控えていた相模守は
その様子に驚愕した。
先代までは
側室の子の養育に
御台所は関わらなかった。
しかし家宣は
側室の子も御台所のお養いと定めた。
世話好きで子供好きな熙子は
我が子として
側室の産んだ子を可愛がり育てている。
あまりにも臈長けた熙子が
鍋松を膝に抱いて
鍋松は熙子を母として甘えている。
しかも、鍋松は幼いながら
大人しく鼓の音を口ずさみ
鑑賞しているのだ。
相模守は
美しく仲睦まじい
熙子と鍋松の姿に心を打たれた。
以降、相模守は
側室のことを
口にしなくなったのだった。




