紫陽花
家宣は気づいていた。
熙子が家宣に
鍋松と左京との散策を勧めた
あの夕餉の時から
熙子の様子が変わったことに。
見えない壁が
熙子と家宣を隔てた。
その壁は
家宣の前に幾度か現れた壁。
家宣は熙子が心配になり
自分がいない時間の
熙子の生活を調べさせた。
夜が深まった
中奥の御休息之間。
越前守が豊原からの報告を
家宣に奏上した。
「なんだと?
御台はこのところずっと上臈達と、
和歌を詠んで過ごしていると言うのか」
越前からそう報告を受けた家宣は
衝撃を受けた。
家宣の体から力が抜け
よろよろと脇息に倒れ込む。
「上様っ、大丈夫でございますかっっ」
冷静沈着なはずの越前が
慌てて駆け寄る。
どう見ても大丈夫じゃないだろ…
日頃泰然としている
家宣と越前が取り乱すなど
小姓の田中と佐々木は
一度も見たことがなかった。
目の前の光景が信じられず
二人は呆然と顔を見合わせた。
家宣は顔面蒼白で、肩で息をしている。
まただ。
また熙子が几帳の奥に籠もってしまった
婚礼後
熙子が家宣に心を開くまでの暫くの間
熙子は京から付き従った侍女達と
和歌に明け暮れていた。
初めて会った瞬間から
家宣は熙子に恋していたというのに。
まだ少女の花嫁の熙子は
高貴で美しく、儚く壊れそうで
生涯守らなければと咄嗟に誓った。
熙子の信頼を勝ち取るまで
どれほど苦心したことか。
将軍の世継ぎに決まり
熙子との間に嫡男がいなかったため
やむなく側室達を迎えた時も
熙子は侍女達と和歌に耽った。
熙子は家宣に表面上は
変わらず接していたが
何処か遠慮がちに
よそよそしくなっていた。
家宣は
このまま熙子の気持ちが
戻らなかったらと不安に苛まれた。
焦燥感に駆られ
生きた心地がしなかった。
熙子を繋ぎとめるために
家宣は全ての力を
熙子につぎ込んだ。
熙子には
家宣の思いが伝わったと思っていた…
のに。
早乙女の相模守の発言で
聡明な熙子は
御台所の立場ゆえに
女として身を引こうとしているのだろう。
家宣にとって
愛する妻は熙子ただ一人なのに。
熙子の気持ちが
僅かでも離れるなど耐えられない。
なにか、なにか早急に対策を打たなければ!!!
「越前、熙子の様子を見て参れ!早う!」
「はっ」
見て参れと言われても
男の越前は大奥に入れない。
越前は素早く書状を書くと
中奥と大奥の連絡係の
御伽坊主を呼び
大奥を取り仕切る
将軍付き上臈御年寄豊原に届けさせた。
そして豊原の直接の報告を待つべく
御錠口に向かった。
だから嫌なのだ。
御台様を御寵愛眩しい上様に
側室を召せなどと。
折角の早乙女の神事の
御台様同席の前で
いきなり若君の催促とは…
上様が動揺するのを知らぬとはいえ
相模守さまにも困ったものだ
越前も苦労が絶えない。
ほどなく熙子の部屋に
越前の要請を受けた豊原が
訪れようとしていた。
家宣からは熙子の様子を見てくるよう
そして老中達の要望である
若君の催促についても
それとなく奏上しなくてはならない。
側室の差配は
御台所がする決まりである。
豊原としても
熙子に側室の催促など気が進まないが
大奥は世継を育て
徳川を盤石のものとするために
あるのだから仕方ない。
熙子は就寝前の静かな時間を
紫陽花の絵を描いて過ごしていた。
筆先の花弁の
淡い桃色や薄紫色が美しいが
灯りに照らされた熙子も
臈長けて美しい。
「御台様、
夜分遅くに恐れ入りましてございまする」
豊原が三つ指をついて挨拶をした。
「紫陽花でございまするか。
美しゅうございますね」
熙子は豊原を一瞥もせず、だが優しい声で
「そなたも夜更けに大義」
と労った。
そして言葉を続けた。
「老中達の心配も尤も。
そなたも存じているように
只今、上様のお召しに叶う体調の側室は
左京だけゆえ
よしなに取り計らうように」
右近の産んだ家千代は
二か月で早世したので
また夭折しては忍びなく子作りを諦めた。
新典侍の産んだ大五郎は三歳で夭折。
その後産んだ五男虎吉を生後二ヶ月亡くして以来
まだ心身共に万全ではなかった。
「御台様…」
豊原は心が痛んだ。
寵愛眩しい夫君に
側室を勧めねばならず
部下が言いにくいことも
先に言ってくれ
秒で仕事を終わらせる。
側室達の状況把握も完璧。
これ程までに
御台所の職務に徹しておられるとは。
妻として女として
心中複雑な筈なのに
御台所としての運命を
淡々と受け入れている。
世俗の女とは
どこか違う次元で生きているのだろう。
皇后を出す摂家の姫の実力を
まざまざと見せつけられた気がした。
切りの良いところまで
描き終わった熙子が
豊原のほうを向いて優しく気遣う。
「遅くに疲れているであろう。
早う下がって休むがよい。
わたくしも休むゆえ」
深夜残業にまで
理解のある女主人に
豊原は心を打たれた。
「お心遣い痛み入りまする。
それでは御台様お休みなさりませ」
寝室に向かう熙子は
透明感が漂い
かぐや姫が月に帰るような風情だった。
豊原は内心驚きながら
熙子を見送ると
越前の待つ御錠口に急ぐ。
泰然とした家宣が
熙子のこととなると
正気を失うと聞いてはいたが
ただの噂だと思っていた。
しかし寝室に向かう熙子の透明感を
目の当たりにして
その理由がわかった。
家宣は何度も
あの熙子を見てきたのだろう。
家宣の心が騒いでも不思議ではない。
豊原が御錠口に着くと
かつて見たこともない
焦りを滲ませた越前が待っていた。
いつもの冷静沈着で美しい越前ではなかった。
珍しく髪が一筋乱れている。
その切羽詰まった姿が艶めかしい。
豊原に、僅かに膝でにじり寄る越前。
「豊原殿、上様の御下命とはいえ
このような夜分に相すまぬことにござる。
して、御台様の御様子は如何か?」
豊原は越前の焦りように
家宣の錯乱が容易に想像できた。
「御台様には
お変わりなくお過ごしの御様子で
先程、御寝遊ばされました。
また、
新たな若君様の件につきましても
御台様から
只今は左京さまだけが
お召になれる体調であるとの
お達しにございました」
「さ、左様でござるか。
和歌は?
御台様は和歌は詠んでおられたか?」
「いえ、紫陽花の絵を描いておられました。
御台様は
絵も大層お上手でいらっしゃいますのね。
お休みになる前の御様子は
まるでかぐや姫のように
臈長けておられました」
「なんと、かぐや姫のようにと」
越前の顏の血の気が引く。
天に帰りそうな御様子などとは、
口が裂けても家宣には言えない。
しばし天井を見上げた後、
豊原に告げた。
「相わかり申した。
豊原殿、
何か御台様に変わった御様子があれば
すぐに文にて知らせてもらいたい。
頼みましたぞ」
「承知つかまつりましてございまする。
それではこれにて」
豊原は越前を気の毒に思いながら
御錠口を後にした。
中奥は
これから暫く荒れるだろうと
察した豊原だった。
「おお、越前、待ちかねたぞ。
御台は如何であった」
家宣は
上げ畳の上に
幾重も重ねた
豪華な布団の上で胡坐をかき
越前の戻りを悶々と待っていた。
「御台様にはお変わりなく
既に御寝との由にございまする。
豊原殿がお部屋に参上した際には
御台様は紫陽花の絵を
描かれておられたそうにございまする」
「花の絵を?
余計に拙いではないか!」
家宣は語気を荒げ立ち上がった。
家宣と側室を見ないように
熙子は違う世界で生きようとしている。
どんなに傷ついているだろう。
酷いと詰り
胸で泣いてくれた方がどれほど気が楽か。
だが、それをしない
思いもよらないであろう熙子が
愛おしく不憫だった。
「熙子が苦しんでいる。離れてしまう。
どうしたらよいのだ」
家宣は白綸子の寝巻のまま
布団の周りをイライラと歩き回った。
ふと立ち止まり頷くと
身じろぎもせず見守り見上げている
越前に言い放つ。
「越前、世は決めたぞ。
紫陽花柄の打掛を誂えさせよ。
豪勢な刺繍をたっぷりと使うのだ。
熙子によく似合うようにな。
明日早く呉服之間頭を呼び命じよ。
螺鈿と蒔絵の櫛も作らせよ。
それから御膳奉行に
熙子好みの季節の菓子を毎日作らせ
届けるように伝えよ。
熙子の心を取り戻すまで
世は午後は御台の部屋で過ごす。
夫が妻の部屋に行って何が悪いというのだ!」
「御意」
越前は少しほっとした。
手配や執務の調整を
しなくてはならないが
主君の精神の安定のためならば
何と言うことはない。
中奥も落ち着くだろう。
次の朝、熙子の寝覚めの枕元に
家宣から後朝の文が届いていた。
三十を過ぎた熙子は
お褥滑りをしており
家宣と共寝をしたわけではないが
太閤の土産以来の毎朝の習慣である。
熙子は
御中臈に髪を梳かしてもらった後
起き上がり文箱を開けた。
麗らかな 午後の日の元
我妻の 膝枕の夢心ゆくまで
「まぁ、
上様は午後はこちらで
お過ごしになりたいそうよ。
今日は和歌はできないわね」
熙子はそう言うと
奥女中達に家宣を迎える準備をさせた。
午後
家宣が来るまでの間
熙子は紫陽花の絵の続きを描いていた。
ひょこり現れた家宣が
熙子の背後から絵を覗き込む。
「なかなかによい出来だな。
掛け軸にして
中奥の世の部屋に飾りたい」
「あら、上様。
お早い御成りでございますこと」
熙子は少し驚いたが
鈴を鳴らすような声で迎えた。
「拙い絵で
恥ずかしゅうございますが
早急に装丁させ献上いたしまする」
熙子は立ち上がると
家宣を席に案内した。
いつもはそのまま談笑するのだが。
家宣は片眉を僅かに上げて
戦闘態勢に入る。
御台所御殿の優美な庭を臨む部屋に
家宣の席が設けてあった。
熙子は隣に座っているが
いつもより距離がある。
上臈御年寄の常盤や御年寄の花浦達が
家宣を持成なし
熙子の口数は少ない。
やはり熙子は
よそよそしくなっている。
家宣は素知らぬ顔で
「世は近頃疲れておるのだ。
熙子膝をかせ」
言うが早いか
熙子の膝枕で横になった。
ほどなく
将軍付き上臈御年寄の豊浦が
大量の執務の書類を届けにきた。
家宣は熙子の膝枕で寛ぎながら
書類に目を通す。
熙子は驚いたが
将軍であり夫の意向なので
なす術がない。
されるがままである。
秀小路や花浦たちは
目を合わせて微笑み合っている。
来る日も来る日も
家宣は熙子の部屋で午後を過ごし
程近い御対面所で
熙子と共に夕餉を楽しみ
中奥へ帰って行った。
絶対に熙子を几帳の奥に籠らせないと
家宣の気迫が溢れていた。
数日後の中奥。
越前が家宣に
衣桁に掛けた
真新しい打掛を披露した。
家宣は涼やかな紫陽花の打掛を見て
満足そうに頷く。
「うむ、見事である。
では予定通り明日吹上に参る。
頼むぞ」
翌日
大奥の秘密の船着き場から
家宣と熙子は船に乗り
江戸城の御濠から見える
木々や花の景色を遊覧しながら
曇りがちな空の吹上御庭に着いた。
家宣に支えられ
熙子は吹上の芝生の上に降り立つ。
羽衣のような薄い白地に
桃色や青や紫の紫陽花が
贅沢に刺繍された
涼やかで豪華な打掛は
色白の熙子を際立たせ
儚く臈長けて
今にも天に昇って行きそうな美しさ。
家宣は咄嗟に熙子を抱きしめた。
「上様…息が…苦しゅうございます」
熙子の言葉に
はっと我に返った家宣だった。
腕の力を緩め、腕の中の熙子を見下ろす。
「そなたがあまりに美しいゆえ。
消えてしまってはかなわぬ」
「上様にはお戯れを」
熙子は頬をほんのりと上気させている。
その様子が家宣の目に
一層愛らしく映った。
家宣は
熙子の手を取って歩き出す。
近習達の目が気になる熙子だが
家宣には人目を気にする余裕などない。
二人が歩く先の
咲き誇る様々な色の紫陽花が
吹上御庭の斜面を覆い尽くしていた。
池の錦鯉を眺めつつ
紫陽花を愛でながら
家宣は熙子と手を繋いだまま
ゆっくりと歩く。
見事な紫陽花の花々や
優雅に泳ぐ鯉や
芝生を歩く孔雀達に
熙子の心は癒されたのか
うっとりとした表情を浮かべている。
家宣も
その熙子の様子に安堵しつつ
愛しい妻に見惚れていた。
熙子は
いつ見ても美しく愛らしいことよ
傍にいるだけで
世はこんなにも満たされている
二人は庭の散策を楽しんだあと
池の近くの御茶屋で休んだ。
御茶屋の前には
舞台が設けてあり
舞台の向こう側の池には
龍頭舟が浮かび
雅楽の調べが奏でられていた。
舞は青海波。
青海波の衣装には
遥かに続く波模様と
千鳥の柄があしらわれ
未来永劫の穏やかな暮らしへの
願いが込められている。
熙子と末永く共に幸せでありたいと
家宣の願いを込めて。
舞手のゆったりとした袖が優美に揺れ
雅な音色が広がる。
家宣が
熙子のためだけに
催した宴であった。
熙子は
京の懐かしい光景を思い出して
はんなりと呟く。
「光る君と頭中将も
かくやとばかりに美しゅうございます」
「熙子が気に入ったようで何より」
家宣は隣に座る熙子の手を取ると
そっと唇をつけた。
大勢の家臣の前なので
熙子は少し恥ずかしそうな
表情を浮かべたが
家宣は構わなかった。
「そなたは世だけ見ていれば良い。
世もそなたしか見ておらぬ。
共に見る景色は同じと心得よ」
そう言うと
熙子の手を引き寄せ
肩を抱き
共に雅楽に魅入ったのだった。




