春
長い冬が終わりを告げ
春のうららかな光に包まれた
江戸城吹上御庭。
六代将軍 家宣に連れられた
御台所熙子と
その供の華やかな一行が
やっと訪れた春を愛でながら歩いている。
春先の若葉の色は瑞々しく
芝生の上の孔雀の羽を広げたあでやかさ
池を優美に泳ぐ鯉たちとまるで絵のよう。
家宣は齢三十八
目元涼やかに鼻筋の通った端正な顔立ち。
学問が好きなこともあってか
物静かで泰然としているが
熙子を見つめる視線は甘い。
熙子は家宣より四つ年下の三十四歳。
透き通るような白い肌に
生き生きと輝く瞳
秀でた額に細く高い鼻
優美な線を描く小さな唇。
五摂家筆頭近衛家の姫の
高貴な華やかさの中に
可憐さと穏やかさが相まっている。
身分高い生まれであるのに
周囲を気遣う優しさはみなを魅了しているが
最も魅了されているのは
誰よりも近しく傍にいる夫家宣。
やがて一行は池に架けられた
新しく朱に塗られた太鼓橋にさしかかった。
この日の散策の為に家宣が架けさせた。
家宣は熙子を振り返り
「御台、足元に気をつけよ、手を」と
自らの手を優しく差し出す。
熙子はいつものようにはんなりと微笑み
「はい」と答え
家宣の手の上に自分の手をそっと置く。
心配性の家宣は
万が一熙子が橋から落ちることが無いよう
熙子を引き寄せると
肩を抱き支えながら
太鼓橋をゆるりと渡っていった。
一足進むごとに少しづつ風景が開ける。
そして太鼓橋の小高い中腹で足を止めた。
二人の目の前には
見渡す限り一面に梅の花が咲き誇っていた。
「ま…ぁ!」
熙子の上品な口元から感歎の声が漏れる。
「気に入ったか、そなたに見せたくてな」
家宣は熙子の様子に殊の外満足そうである。
熙子は目を輝かせた。
「上様、嬉しゅうございます。なんて美しいこと」
呟いたまま立ち尽くしている。
何処までも続く梅花の雲海に
熙子は囚われた。
いつまでもここにいて
眺めていたいと思う熙子だった。
家宣はそんな熙子を愛しいと思いつつも
微かな苦笑いを浮かべ
「あちらも大層美しいゆえ」
幼子に言い含めるように施した。
そして橋を渡りきり
梅園の中に足を踏み入れた。
梅の花々が頭上に
まるで雲のように広がっている。
熙子は
梅花の夢の中にいるような
心持ちになった。
見上げれば清らかな白に淡い桃色
艶めかしい紅の梅の花の間から
柔らかな日が差し込んでいる。
甘く爽やかな香りが立ち込め
息も詰まりそうなほど。
足元を見れば
無数の梅の花が
絨毯のごとく地を埋め尽くしている。
太鼓橋の上から見る光景とは
また違う楽園。
家宣に手を引かれ
熙子は楽園をそぞろ歩く。
日ノ本中から献上された梅だという。
「こちらは紀州から、そちらは大宰府から」
家宣に教えられながら進んでいく。
静寂のなかに爽やかな鶯の鳴き声が聞こえた。
ふと目をやるとつがいだろうか
二羽の鶯が枝に止まっている。
鶯を驚かせないように
家宣と熙子は目を合わせて微笑んだ。
煙るような梅の花の中
淡い緑色のつがいの鶯が戯れる様は
誠に愛らしい。
鳴くのは雄だという。
雄が雌に愛を語りかけるのは人も同じ。
やがて鶯は二羽一緒に飛び立って行った。
家宣は傍らの熙子を見つめる。
「比翼の鳥、連理の枝。
世は熙子、そなたと余をそう思っている。
未来永劫、世の妻はそなただけゆえ」
家宣と熙子は
家宣将軍在位の僅か三年の間
数え切れない程
江戸城吹上の庭を散策したのだった。