6、王女は思い出す
マーガレットが王宮に帰ると、案の定一大事になっていたが、彼女が事情を説明すると、事態は思いがけなく簡単に収束した。
一人で王宮を抜け出したが、途中で体調が悪くなったのである宿屋で休んでから戻ってきたと説明したのだが、それで特に追求されることもなく、帰ってきてよかったということになった。男のことは話さなかった。
マーガレットがこの件で怒られることはなかった。
一度くらいは出かけてみたかった、と言ったら大目に見てもらえたのだ。
今なら何だって大目に見てもらえそうだ。
第五王女はもう先が長くないので、最期の日々くらい、なんでも好きにさせてあげたい。多少のわがままはむしろ叶えてあげたい、と彼女の周囲の人間は思っているのだ。
まさか彼女の病気が治りつつあるとは誰も思っていない。
侍女にだけは、フレッドの名前は出さないにしろ、ある男と出会って「月の塔」に二人で上ったことを話したのだった。
「アンナの言った通り、綺麗な景色だったわ。あの時、聞いた鐘の音がまだ私の中で響いているような気がする」
「まあ、よかったです。月の塔の鐘が聞けたとは羨ましいですね。私が行った時には聞けませんでしたので」
「アンナも今度行けばいいんじゃない?」
「そうですね。でもそのためには、まずいいお相手を見つけませんとね」
そう言ってアンナは笑った。
「お相手?」
「その鐘についてちょっとした言い伝えがあるのですよ。その鐘の音を聞いた二人は必ず幸せになるというんです」
アンナはそれを話してから、しまったというような顔をした。先の長くない王女様に、幸せな未来という話をしたら嫌な思いをさせるものではと心配したのだ。
しかし、マーガレットは気にすることなく、楽しそうな表情で、
「それは素敵なお話ね」
と言ったのでアンナは安心したのだった。
次の日から、マーガレットは運動をはじめた。といっても庭を軽く散歩するだけだったが、必ず二時間以上歩いた。
マーガレットはアンナに頼んで食事に薬草を入れるようにした。アンナには出かけたときに見つけたお気に入りの調味料と説明した。
マーガレットがそのようなことをしても気にする人はいなかった。自室で寝たきりだったマーガレットは王宮の人に存在しないも同然だったのだ。
アンナは、この前お出かけして気持ちが前向きになったのだろうと喜んだ。
最近のマーガレットは、この前のお出かけ以来、表情も明るいし、毎日楽しそうだ。明日からは庭仕事を始めると言い出している。マーガレットが長い時間、体を動かすのは心配だったが、充実した顔で部屋に戻ってくる彼女に、散歩をやめるように言う気にはなれなかった。
それにしても元気そうに見える。まるで病気がよくなっているようだ。でも、そんなことありえるのかしら?
そうアンナが思うほどに、マーガレットは日ごとに状態が良くなっているのだった。
「いい出会いがあったのでしょうか」
「アンナ、いきなり何?」
「なんだかお出かけ以来、魔法でもかけられたように見違えましたので。月の塔に一緒に上ったという男の方がすてきなお方だったのかなと」
「確かに、私はその方に助けられた恩人よ。とても感謝している」
「それだけでしょうか」
「ええ。それだけよ」
「そうですか。恋は万病に効くと申しますので、もしかしたらと思いましたが」
「恋で病気が治る? アンナって乙女なんだね」
マーガレットは面白そうに笑った。
「失礼しました」
アンナは恥ずかしそうに顔を赤くした。
マーガレットは照れくさくて、アンナに対しては正直に言わなかったが、実のところはフレッドのことを単なる恩人だとは思っていなかった。
マーガレットは、出会った日以来、フレッドのことが頭から離れなかったのである。
忘れろと言われたが、忘れるどころか、ますます気になってしまう。
思い出す価値のあるものが見当たらない自分の暗い過去のなかに、一ヶ所だけ明るい、鮮やかな部分がある。そこには月の塔から見える景色があり、そして、その中心には夕空を背にこちらを向いたフレッドの姿があるのだ。
目をつむると、一層鮮やかに浮かんでくる。
二人で聞いた鐘の音も聞こえてくる。
また会えないかな。
いえ、どうにかして、もう一度会わなければいけない。会うだけじゃなくて、話したりしたい。マーガレットはそんなふうに思うのだった。