08
テニスラケットは家の押し入れの隅に眠らせていた。
中学校の部活を引退した後、わたしは『納骨』と称してラケットをカバーに収め、ガムテープでぐるぐる巻きに封印して、押し入れの中で永遠の眠りにつかせたつもりだった。
そのラケットを現世によみがえらせたわたしは、庭の隅でラケットを振ってみた。
ガットはそんなに緩んでもいなかった。
何度かそうして素振りを行った後、ともに『納骨』していたテニスボールを取り出し、軽く庭の壁に打ってみる。
感覚的には、なまっているとは感じない。
ボールをとらえる感覚も、以前のように鮮やかに感じられる。
まるでラケットにわたし自身の神経が通っているかのよう。
打球音も、庭の壁に当たる音も、そう変わらない。
「テニス、やめたんじゃなかったの?」
気づくと、リビングのベランダが開いており、母が顔をのぞかせている。
わたしは首をかしげてみせる。
「今もそのつもりだけど」
「何それ。なのにラケットを振ってるの?」
確かに。
母のその質問は無視して、庭にもう一度、ボールを打つ。
庭の壁には、中学生時代を通じてわたしが繰り返した壁打ちの跡が残っている。
打ったボールは、吸い込まれるようにその跡へと飛ぶ。
ポーン、と澄んだ音がして、母が小さく拍手をする。
「やっぱ、ヒビキはテニスしているのが似合うわ。身長も、また少し大きくなったんじゃない?」
確かにわたしの身長はまだ伸び続けている。
以前は小柄なぐらいだったのに、成長の止まった同級生たちをしり目に、わたしの体は平均身長にやっと届いた。
そして、おそらくは、まだまだ伸び続けようとしている。
「あんまり大きくなっても、可愛くないと思うけど」
「でも、テニスには有利よ。N中の、ゴリラ藤井のプレーが、高校でも見られるとすれば、母さんはうれしいな」
「そのゴリラってのはやめて、って言ってるでしょ」
母さんはなぜかわたしのニックネームを気に入っていた。
ゴジラ松井みたいなものじゃない、と言っていたけれど、すでに引退したプロ野球選手のニックネームを引き合いに出されても困る。
しかも向こうは男性だ。
「でも、またヒビキの試合を見に行きたいのは、事実よ。あなたのプレー、我が娘ながら、すっごいんだから。自分じゃわかんないんでしょうけど」
その発言にどう答えていいかわからなかったので、わたしはまたボールを手に取って、壁へ向かって打った。
ボールは吸い込まれるように同じコースへと飛んでいく。
そうしてわたしは、久しぶりにボールを打って、思った。
この感触は悪くない。
それもまた、事実だった。
※※※
それから一週間後の放課後――まさに部活がはじまろうとしているぐらい時間に、わたしは赤い学校ジャージ姿で、高校のテニスコートの上に立っていた。
テニスコートの周囲には緑色のネットがはりめぐらされており、そのネットの中にいるのは、わたしと西谷部長、そして審判を引き受けたらしい斉木さんの三人しかいなかった。
そのとき他のテニス部員が何をしていたのかというと、ネットの外でわたしたちの試合がはじまるのを待ちわびていた。
いや、周囲にいたのはテニス部員だけではなかった。
どこから噂を聞きつけたのか、制服姿の生徒たちもそこかしこに混ざっている。
つまりテニス部でも何でもない、おそらく部活に所属しているわけでもない生徒たちだ。
どこからかテニス勝負を聞きつけた彼らは、少なくない数のギャラリーを形成していた。
「試合は一セットマッチ、六ゲーム先取でいいね」
ネットのポストのそばに立つ斉木さんがわたしたちにそう声をかける。
その穏やかな表情からは、とてもテニスの巧拙で恋愛相手を決めるような人には思えない。
あのあと、ミナミに頼んで、斉木さんの人となりを調べてもらった。
西谷部長が口にしていたような、人としてどうかというようなウワサは出てこなかった。
だからあの西谷部長の話が本当かどうかはよくわからない。
対戦相手である西谷部長とわたしは、コートの中央付近で、ネットを挟んで対峙していた。
サーブ権を決めるラケットトスを行う前に、西谷部長が、小声でわたしにたずねてくる。
「結局、返事はもらえなかったわね、ヒビキさん」
わたしは平然とうなずいてみせる。
「ええ。その意味はお分かりですか?」
「……そんなに私を困らせたいの?」
その口調には冷たさが混じっていたけれど、彼女の目は自信なさげに揺れていた。
「まともに勝負をしましょうと、ただそれだけのことですよ。別に西谷部長に対して、どうこうということはない」
わたしはそう、西谷部長に言葉を返す。
その言葉は、つい一週間前のわたしからすれば、完全にウソだった。
わたしはこの西谷部長を叩き潰して、斉木さんの好意を得ようと考えていた。
だけど、家の庭でひっそりとラケットを振り、それなりに調整をして迎えた今は、実際のところよくわからない。
今のわたしが考えていることは、ただ一つだけ。
ただ、いいプレーがしたい。
周囲を人に囲まれて、テニスコートに立つこの感覚は、久しぶりで、しかも悪くはない。
もし、わたしが西谷部長の八百長を受けていて、これからみんなの前で無様なプレーを見せることになっているとしたら、きっとわたしは後悔しただろう。
今までわたしは本気のプレーしかしたことがない。
わざと下手なプレーを見せるなんて、とても耐えられそうにない。
「なら、ここでまた、お願いしても、ムリなのね」
「ええ」
「……ひどい人」
そう言うと、西谷部長は、自らラケットを回しはじめる。
ラケットトスの結果、サーブ権を得たのはわたしの方だった。
これまでわたしは、先にサーブ権を得て、負けたことはない。
負けた二戦は、どちらも相手のサーブからはじまった。
斉木さんに手を軽く上げると、彼が黄色のテニスボールをいくつか放ってよこす。
その中の一つを選び、他をポケットに突っ込むと、わたしはコートのベースラインへと歩き出す。
わたしのコートの側、ネットの向こうには川崎ミナミが立っていた。
わたしと目が合った彼女は小さく手をあげると、わたしに笑顔を向ける。
「ヒビキ、応援に来たよ。テニスのこと、よくわかんないけど」
「それは、よかった。ミナミ、わたしのプレー、よく見てて」
わたしの言葉が少し意外だったのか、ミナミは目を丸くしてみせる。
「どこにどれほどゴリラ要素があるのか、ぜひ、テニスを知らない人から教えてもらいたい」
そう言うと、ミナミはやがて、微笑みを浮かべた。
「ヒビキ、それ、冗談のつもり?」
「いや、完全に本気。わたし、これから、全力でテニスするから」
そう言って西谷部長の方を振り返り、いつものルーティーンでテニスボールをコートに弾ませはじめたわたしには、もうミナミの声は聞こえない。
試合開始を告げる斉木さんの声が、どこか遠くで響く。
わたしの意識にはもはや、ちらりと目を向けたテニスコートの向こうにいる、西谷部長の姿しかない。
さすがにいい構えをしている、とわたしは思った。
これまで対戦した選手の中でもトップクラスだ。
だけどサーブ権を握っている、わたしのやることは変わらない。
最高のサーブを打つだけ。
正確にコースを突く、よくスピンのかかったスピードボールを放つのだ。
空中を進む一本のラインが見えるほどに、明確なイメージを作り上げてから、わたしはテニスボールを宙へとトスした。
しならせた腕の先にあるラケットが、ボールを強く叩く。
事前にイメージをしていた通りの軌道で、テニスボールが飛んでいく。
ポーン、と軽やかな音を立てて。
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