10
震える声を出す西谷部長の背中に、斉木さんが声をかける。
「何がだよ。たかが一試合、練習試合で負けたぐらいじゃないか。そりゃ、他の生徒もたくさん見てたけど……でも、なあ、西谷。こんなところにいて、どうするんだよ。みんな心配してるって」
「たかが一試合、って……相手は一年生なのよ! しかも、もうテニスをやめたっていう、まともに体も動かしていない、一年生」
「そうは言っても、全中優勝選手だろ。――それに、見ただろ、あのパワー。つい最近まで中学生とはとても信じられない。彼女、本当にウワサ通りの天才だよ。N中のゴリラ、藤井ヒビキ」
斉木さんの口から出るその言葉を、わたしは息をひそめて聞く。
斉木さんですら、改めてそう思ったのだ。
他の多くの生徒はどうだろう。
きっとわたしのウワサを聞きつける。
すなわちわたしは、せっかく環境を変えたのに、またゴリラになってしまう。
「もし俺が試合をしても、たぶん負けていた。そのぐらいにあの子は強いんだよ。……いや、本当に種族が違うとすら思えたね。あの子は誰もが言うように、まさにゴリラだ。だから気にするなよ、西谷。上には上がいる」
「……そうしてあなたは、私より上のあの子を選ぶの? あなたは、テニスがうまい女が好きなんでしょ? 私と付き合いはじめたときもそう言ってた。それなのに、あの子にあんな負け方をした私なんか、もう……」
その問いかけがなされたとき、わたしはその場を去ろうか、と思った。
いや、ここまででも十分、二人だけのプライベートな話を聞きすぎたぐらいだった。
だが、斉木さんの反応は、予想以上に早かった。
彼は腰を落としたままの西谷部長の背中に近づくとしゃがみ、腕を回すようにして、うつむく彼女の肩を抱く。
「なに言ってるんだよ、バカだな」
わたしはつい、目をそらす。
見てはいけないものを見てしまった。
そんな罪悪感があった。
「お前、そんなのまだ覚えてたの? あのさ、付き合いたての頃に言った、テニスがうまい云々は、はっきりいってお前に対する照れ隠しだ――だって、ずっと一緒にテニスをしてたから、自分の気持ちを伝えるのが恥ずかしくて、さ。別にテニス云々は関係なく、俺はお前が好きなんだよ」
耳だけでそんな言葉を聞きしながら、わたしはため息をつく。
そりゃ、まあ、そうだ。
テニスのうまい女がどうこうなんて、西谷部長の考えすぎか、あるいは彼女なりにケガのことを思い詰めた結果に違いない。
「お前とあの子を試合させたのは、どっちに転んでもいい結果になるかな、って思ったからだよ。お前が久しぶりの試合に勝ってあの頃の自信を取り戻すか、あるいは、女子テニス部にホンモノの天才が加入するか――だけどまさかあんな一方的な展開になるとは、俺だって考えもしていなかった。……だから、もしも今日の結果がお前を傷つけたのなら、それは俺のミスだ。すまない」
「……うん」
「でも、だからって女子テニス部を放り出していいって理由にはならないぞ。……ほら立てよ。練習に行くぞ。お前がいなけりゃ、女子テニス部ははじまらないんだから」
「……私、あんな負け方したけど、みんなまだ、ついて来てくれるかな?」
「当たり前だろ。あんなゴリラみたいな女に負けたところで仕方がない、って思ってるよ」
そこでつい、わたしは笑ってしまう。
わたしはやっぱり、ゴリラか。
まあ、まあ、盗み聞きしていたこっちが悪いからな、と思いつつ、わたしは木陰から姿を現す。
「誰がゴリラです? わたしはまだ、高校一年生の女の子なのに」
そう呼びかけたときの二人の反応は素早かった。
二人はほぼ同時に立ち上がり、パッと体を離す。
……別に今さら隠さなくてもいいのに。
そうして、わたしに対して取り繕うような笑顔を浮かべる。
「……あ、ああ、聞いてたのか。いや、その、今のは別に、慰めの言葉、とでもいうか……」
「本当に偶然、通りかかったんです。でも別に構いませんよ。みんなが言うからには、実際のところ、わたしはゴリラみたいなものなんでしょうから。で、西谷部長」
「なに? ……恥ずかしいところ、見られちゃったわね」
「見させてもらいましたよ。……それで、わたし、テニス部に入ります。これからよろしくお願いします」
わたしの言葉を西谷部長は、どうやら意外に感じたらしい。
まだ涙の残る、赤く充血した目を見開く彼女の反応を見ながら、結局なんだか色々と遠回りしてしまったな、とわたしは考える。
まあでも、仕方がない。
テニスに関していえば、わたしは天才だ。
どうすればいいかを知っている。
だけどその他の事に関してはどうかといえば、別に誰ともそう変わらない、平凡な一人の女子にしか過ぎない。
わたしはテニスの天才ではあれど、人生の天才ではないのだ。
だから、選択に迷うこともあるし、自分にとって何が大事で、何が本当に好きなのかを理解できていなかったりもする。
……要するに、久しぶりに本気でプレーをしてみて、わたしはやっぱりテニスが好きだと感じたわけで。
「……そう、入ってくれるのね」
「ええ。西谷部長には、感謝しています。いい試合も出来ましたし」
わたしのその言葉に、西谷部長は不思議そうな顔をする。
あるいは皮肉に思われたかもしれない。
だけど、わたしは本心からその言葉を口にしていた。
「よかったな、西谷」
笑顔を浮かべてそういう斉木さんは、相変わらずイケメンだった。
だけど別に彼の顔がどうこうなんて、もはや関係ない。
「あ、あと、斉木さん」
「なんだい」
「西谷部長のこと、支えてあげてくださいね。その足のケガ、きっと次のインターハイまでには治りますから」
別にそれは、根拠のない言葉だった。
ただ、今の不安定な西谷部長の心には、精神的な支えが必要だと思えた。
だからわたしの言葉で少しでも、その不安が消えれてくれれば、それでいい。
それからわたしは彼らに背を向け、校門に向けて歩き出す。
わたしの気持ちはどこか、すっきりしていた。
そうして改めて考えたのは、やっぱり、あの呪われたニックネームのこと。
どうやら、わたしはどうしてもゴリラになってしまうらしい。
わたしのテニスをはじめて見た斉木さんも、そう言っていた。
他の多くの生徒だってそう感じただろう。
でも、もうそれは構わない。
久しぶりにテニスラケットを握り、全力でプレーすることで、そう思えた。
誰になんと呼ばれようと、アレがわたしなんだ。
向かった校門のところで、川崎ミナミが待っていた。
わたしを見つけた彼女は、大きく右手を振っている。
「お待たせ」
わたしがそう言うと、ミナミが微笑む。
「ううん、全然。ていうか、今日、まっすぐ帰ってよかったの?」
「いいんだよ。今日はただ、試合をするというだけで、他に何の約束もなかったし」
そう答え、ミナミと並んで歩きだしつつ、わたしは彼女に告げる。
「でもわたし、テニス部に入ることにした。これからは一緒に帰れなくなる」
「あ、そうなの? それは、残念。……だけど、どうして? テニス部に入るの、嫌がってたのに」
どう説明しようかな、とわたしは少しの間、考える。
その答えはシンプルなくせに、きっと、他の人に理解してもらうのは難しい。
ゴリラと呼ばれるのは今でも嫌だ。
だけど、その、嫌だけど、そんなのどうでもよくなった、とでもいうか。
それ以上に大きなものが見つけられた、というか。
でもそんな説明をする前に、ミナミが先に口を開く。
「だけど、それでいいんだと思う。ていうか、絶対、その方がいい」
「え?」
「だって、あんなことが出来るのに、やらないなんて」
ミナミをじっと見つめると、彼女は何やら難しそうな顔をして、指先をぐるぐる回しながら、言葉を続ける。
「さっきも言ったけど、私、テニスなんかほとんど見たことないの。でも、はじめて見たヒビキのテニス、あれは、なんていうか……その……」
ミナミが興奮しつつも、言いあぐねるその言葉を、先にわたしは言い当ててみせる。
「ゴリラみたいだった?」
だが、彼女は大きく首を横に振る。
「ううん、そんなもんじゃない。もっとすごくて、きわめて美しい何かだった」
彼女のその言葉はミナミと知り合ってから、彼女がはじめて口にした、キャラに合わない意外なセリフだった。
だけどその言い回しが、わたしは気に入る。
「美しい、か」
うん、とミナミは素直にうなずいてから、ニヤリと笑って続ける。
「確かに、普段のヒビキらしからぬ野性味は感じたけどさ。あれがゴリラと呼ばれるのも、うん、わからなくもないかな」
からかうようなその言葉は、ミナミの言葉のせいか、あまり気にならない。
「結局のところ、そこに行きつくのか」
「でもさ、ゴリラだって、見ようによっては美しいしね。……テニス、がんばってよ。応援する」
そうか、ゴリラだって美しいのか。
何となく納得して微笑んでみせると、ミナミはなんだかいたずらっぽく笑った。
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