絶対誰とも結婚したくない令嬢 vs. 絶対誰とも結婚したくない令嬢と結婚したい令息
アクセスいただきありがとうございます。
初投稿、ほのぼのラブコメです。
設定も世界観もゆるっとふわっと、です。
ざまぁもありません。
デビュタント、社交界にお披露目されるということは、下品な言い方であれば女として市場に出るということ。言葉を磨いて品を磨いて笑顔を磨いて、高品質の淑女を高値で買い取らせる。彼女はその予備段階にあった。
デビュタントを来年に控えた十五歳の誕生日の夜。
両親に連れられて、誕生日のお祝いに来てくれた少年タイタス・ウォルロンドとの出会いが、少女エリンの未来を変える。
パーティの主役エリン・ブラッドシャウェはつつがなく客との自己紹介を済ませ、流れ作業のごとくプレゼントの受け渡しを行い次に移る予定だった。
やっとティーンネイジャーの階段に足をひっかけたばかりの少年が、まだ丸みの残る頬を薔薇色に染めて、何やら決意を固めた。トン、と床に膝をついて雲行きが怪しくなる。
「レディ・エリン。僕と結婚してください」
誕生日プレゼントであったはずの花束を差し出した。
タイタスの申し込みに当人たちよりも、周囲にいた双方の親たちが焦る。
ひとつ、出会ったばかりの女性に結婚を申し込むのは無分別である。
ひとつ、好ましいと思う女性には内々に結婚を申し込むのが望ましい。
ひとつ、用意も信頼も自信もなしに女性に結婚を申し込んではならない。
少年はこれら紳士の信条を知らぬとはいえないがしろにした。
ところが。
あら、と漏らした様子は困るよりも微笑ましく見守る響きがあった。
「わたしはずいぶん年上ですよ?」
「僕が早く大人になります。まずは結婚前提の交際をお願いします」
「とはいえ貴方が婚約を決めるのも早すぎるかと」
お若いうちの心変わりは世の常。結婚はもちろん婚約でさえ慎重を重ねるものだ。
後ろに控えた彼の両親は冷や汗をかいている。エリンのきっぱりした答えを待っているようだった。娘の父親が裁量権を持つものの、求婚された娘に先に了承されなければ、父親まで辿り着くことはない。
エリンとて、せっかくのお祝いの空気を壊したくはない。
それに、と考えを巡らせる。
(いまのうち、体面として婚約が決まっていれば断然他からの申し込みを断りやすくなるわ。ほんとうに結婚を考えるわけではないけれど。)
「だから、今のところは口約束だけに留めておきましょう。気が変わったらいつでも取りやめることができます」
「ノーとおっしゃらないのなら、いまはそれで構いません」
先々を見据えた、自分が幼いことも自覚している台詞だった。
「……三年後に、先ほどの言葉を再びおきかせ願いたく思います」
「毎年でも求婚します」
三年後なら、彼はまだ十四歳。成人もまだで、一度婚約がだめになってもじゅうぶん取り返しのきく年齢。そのときエリンは十八になる。求婚をのらりくらりと逃れきった頃には目ぼしい結婚相手はそう残っていない。ひと月経つごとに夫に求める条件は緩めなければ見つからないだろう。そこで好きになれる人がいない、と頑固に首を振ってさらに逃げ、おひとりさま人生を送るのだ。伴侶のご機嫌取りをして庇護という名の束縛を受けるくらいなら、変人と呼ばれてのんびり俗世から離れた生活を選ぶ。
理由は彼が好きとか嫌いとかではなく。
結婚を、したくない。
父のほうが幾分歳上で、母はなんでも従順だった。父は仕事に真面目ではあったが家庭を顧みることを知らず、母と苦労を共有しようとしなかった。
「あの人と同じ家にいるだけで苦しいの」
体調を崩しがちになった母はそう言って、子どもたちの前でさめざめと泣いた。エリンが成人する直前に母は領地の別荘に移り、以降別居状態となる。
「幸せなときもあったのよ」
子ども好きな母はそう言うが、エリンは辛かった。子どもを三人持つことがあっても、幸せな結婚とは縁遠いものなのだ。両親がお互い愛情表現をする姿を見たことがない。言葉をかけることも、手を取り合うこともなく距離も遠い。
幸せな夫婦生活の正しい形を知らないエリン。
『結婚』によって、自分が幸せになる姿を思い描けなかった。
さいわいエリンは長男長女の下にいる第三子の次女。家を継ぐ兄もよそへ嫁いだ姉もおり、エリンにかかる期待はよい意味でごく薄い。
****
翌日タイタスから手紙が届いた。
突然の求婚で驚かせたことへの詫びと、決して軽い気持ちで申し出をしたわけではないので、これからよろしくお願いしますーーと。
丁寧にしたためたであろう、中心線を定規で引いたようにまっすぐ大ぶりで力強い文字は彼の器の広さやしっかりした意志を表していた。
懐いてくるかわいい弟ができた。その程度の気持ち。
お手紙ありがとうございます。お互いよき友人になれますようにーーそんな無難な返事を送った。
かくして、タイタスはエリンとの結婚前提の交際を世に知らしめ、エリンはデビュタントに絡むもろもろの求婚を無事に回避できた。
社交シーズンで都にいれば遊びに誘われ、従者を連れて出かけることもあった。ことあるごとにエスコートをしようとする姿勢がかわいらしい。
次の誕生日にはプレゼントをもらった。だからタイタスの誕生日にもプレゼントを贈らなければ不義理な気がした。
領地に帰れば手紙は最低でもひと月に一往復し、それぞれの日々を彩った。
****
約束の三年後。タイタスが上級学校に入る前にエリンに会いに来てくれた。在学中は頻繁に会うことは難しいから、と。卒業するときにはタイタスは十八歳になる。
「お久しぶりです、レディ・エリン。お会いしたかった」
一言目を聞いて、瞳がこぼれんばかりに開かれた。タイタスはそれを受け止めなければと手のひらを差し出しそうにすらなった。エリンの震える手が口元まで上がってきて、気遣うような表情に変わる。
「お声が……」
「はい。やっと声変わりが始まりました」
思春期の変化と目覚ましい成長ぶりを誇らしげに報告する。
「お喉を痛めたわけではないのですね?」
「大丈夫です。少し、声を出しづらいだけです」
「そうですか。ではお大事に、と言うのも違いますね」
「お気遣い、嬉しいです」
「あら……、背もだいぶ伸びましたね」
普段使いの低めのヒールを履いた彼女よりほんの少し目線が下方にあるくらい。タイタスの父も背は高いほうだし、まだ伸びる目算はあった。
「はい。俺はレディ・エリンにすぐ追いつきます」
「お、お、『俺』ですって……?!」
姿勢を保てずさらに動揺して、ふらりとよろけた。手どころか肩までふるふるとしだした。
「俺だってもう子どもでもないので」
みるみるうちにエリンの瞳が涙で歪む。
エリンの中ではタイタスは幼く、僕は、僕は、と話しかけてくれて……その愛らしさの喪失が胸に痛かった。
「わたし、貴方が『僕』と言っているのが好きでしたのに……」
「僕はこれから一生一人称を変えません! 気の迷いでした!」
(一人称の変更ごときで大人になった気になる自分の愚かさが憎い!)
胸のうちでエリンを悲しませた己の失態を詰りつつ、彼女の好きな一人称を使い続けると誓う。ひとつ、彼女がタイタスのことで好きな部分を知ることができて喜びが溢れた。
エリンはほぅ、とこわばらせた体の力を抜く。やっと見せてくれた今日はじめての笑顔。
少年は周囲の一人称が変わっていく中でなんとなく合わせていただけで、あらゆることで彼女の好みに合わせることは他のなによりも最優先。
「あの、いいえ。どうぞタイタスさまがなさりたいように。……人柄まで変わっておしまいなのかと驚いてしまって取り乱しました。きっと変化は成長したということなのですよね。喜ぶべきことですのに、ごめんなさい」
「まさか。僕はずっと貴女のことを好きなままですよ」
「あら、まだそのようなことを言うのですか? 学校に通われれば同じお年頃で、魅力的な女性はたくさん見つかるでしょう。わたしのことは気に負わずに、どうぞ学校生活を楽しんでください」
「僕は勉強をしに学校へ行くのです。そして卒業後は貴女と結婚します。他の女性に心を砕くことはありません」
逸らされた目は、照れているわけではない。エリンの心はまだ、タイタスにはない。残酷なほど無邪気にタイタスの気持ちを否定しはねつける。
「僕たちは婚約していて、僕は貴女しか見ていないのに、そんな浮気を薦めるようなこと……、僕は傷つきました」
「……ごめんなさい、失礼でしたね。どうしたらお詫びができるかしら」
埋め合わせをしなければ、と焦ったのは少年の成長ぶりに混乱していたから。泣く子どもを慰めるようなことはせず、身体と同じように、精神も対等な扱いをしなければ。
「ではどうか僕にレディ・エリンのお名前を特別に呼ぶ許可を」
「特別に、とは? いまでも名前を呼んでますよね」
「いえ。ですから……」
ためらいつつも期待を込めて、タイタスは笑みをやめられない。
「エリン、と。それだけで」
心臓がずいぶん時間をかけて一拍を打った。
「お許しくださいますか?」
「ええ、どうぞ」
さらりと言葉が滑り出ていた。友人に名前を呼ばれるくらい、大したことはない。すぐ慣れる。
出会ったときからこの少年は、いともたやすくエリンの懐に入ってくる。どこかで、断ち切らなければいけないのに。
「ではエリン。僕らの婚約を形にしてもよいですか?」
すぅ、と彼女の表情が冷えた。
「それは……」
「僕のこと、大人とは思えなくても嫌いではないでしょう?」
(弟のようだと言ったら、ご機嫌を損ねるかしら……。)
「嫌いだなんてとんでもないわ。タイタス様はいつでも良くしてくれますから」
「けど好きでもない、か……」
顎に手を当てて呟いた評価は、エリンの気持ちを正確に見抜いており、ドキリとした。
「時期尚早だったようです。それでは僕が学校を卒業するときに、お返事をいただけますか」
エリンは心底ほっとした。
「ええ、またそのときにお話しましょう」
今回は引き伸ばせた。けれど次回はそうもいかないだろう。エリンは二十歳を超え、タイタスも大人になるのだから。
いまだお祝いも伝えていなかった薄情な自分を残念に思いながら、心を込めて微笑んだ。
「ご入学おめでとうございます。学徳ともに優れたタイタスさまのこと、ご多幸をお祈りしております」
「ありがとうございます、エリン。励んできます」
貴女のために。
好意はなくとも、エリンの祝辞がもらえただけで、彼女に会えなくなる寂しさも吹き飛びそうだった。
****
入学一年目にして飛 び 級制度の基準を満たし、二年目には個別の特別授業をとって卒業資格を得た。卒業までの残りの一年は社会勉強に充てた。
エリンの感心を得たい一心で。とっくに大人になってしまった彼女に追いついて、彼女の中に巣食うあらゆる結婚についての不安を拭い去りたかった。彼女はまだ、結婚に前向きではない。それはたぶん、タイタスがいまだ未熟なせい。
だから会うのを二年、我慢して学業に専念した。
彼女が置く距離を詰めてしまいたい。彼女が笑顔でこの腕の中へ飛び込んでくれるくらいにたくましく、よろめいてしまわないように足元を固めておくのだ。
授業の時間割に縛られることなく、自由に使える時間を父の仕事について回ったり、エリンの兄が治めるブラッドシャウェの領地も見学させてもらうこともした。彼はタイタスの能力を評価し歓迎してくれて、エリンのために義弟の背中を押してくれると言った。
十七歳になってすぐ、エリンに会いに行った。別荘に彼女の母と住んでいるからとエリンの兄に案内してもらえた。
エリンに飛び級して残り一年は好きに過ごせることは伝えていない。努力をひけらかすようなことはしたくない。エリンに相応しい自分であるがために。
「エリン! 会えるのを楽しみにしてました」
「タイタスさま、ようこそこんな果ての地までいらっしゃいました」
「素晴らしい領地です。学ぶことがたくさんあります」
エリンと会うこと自体はおろか、のんびりお茶をするなんていつぶりだったか。勉強を詰め込んで、駆け抜けた二年間。おかげでエリンに送る手紙は季節ごとになってしまったが、彼女の文面からは寂しがっている様子は読み取れず、タイタスの中に焦りと恋しさだけが募った。
当たり障りのない挨拶を挟んで、タイタスはエリンと同時にお茶を含み、ティーカップを置いた。
「エリンが恋しかったです」
切ない顔は、すっかり男性らしくなった。エリンの知らないタイタスだった。最後に会った十四のときから声がさらに低くなり、背はうんと高い。なのに話す内容は感情に素直な少年タイタスのままで。
「……、わたしには過ぎるお言葉です」
「僕が学校にいる間、他の男に攫われないか常に心配でした」
「それは、わたしのことが、でしょうか?」
「はい。貴女は押しに弱いから。僕のように強く出られたら、断れないのではないかと」
エリンよりも背は高いのに、わざと姿勢を低くして見上げてくる。
上目遣いが、こんなに似合う男もいないだろう。はたまた少年と青年の間の曖昧な区間が特別だからか。彼の頼りなげに下げられた眉毛、色づいた目尻から、不満げに歪められた唇からにじみでる他人を魅了させるなにか。エリンはそれをどう表現するのか適切な名詞だか形容詞を知らない。
胸の奥がうずくような、へその奥が締め上がるような感覚を伴う。
「わたしのような女に声をかける物好きはおりません」
「いいえ。油断はしないでください」
「タイタスさまがそうおっしゃるのなら、気をつけます」
「他のどんな男に、いかなる場所や物事に誘われても、
“No.”、 “Nope.”、 “Absolutely No.”、 “Hell No.”
で答えてくださいね」
強い訴えの勢いに負けてしまう。
「わ、わかりました」
「では僕の後に続けてください。練習です」
「練習しなくてはいけないでしょうか……?」
「はい、やりますよ。エリンの口に馴染むまで。”No.” は言えますね」
「ノ、ノーぐらい言えます」
「”Nope.”」
「ノープっ」
「”Absolutely No.”」
「アブソルッリー、ノー」
「”Hell No.”」
「へ、ヘル……、は、口が悪すぎません?」
タイタスはむずがゆい、というように体を揺らした。エリンへの愛しさに耐えるように下唇を噛む。
この程度の悪い言葉を口にすることをためらうなど、エリンが箱入りの証拠にしかならない。素直で、従順で、疑うことを知らない。他の女が同じ返しをしたとてみじんも心は動かないだろうに、彼女だけがタイタスの特別なのだと実感する。太ももの上に乗せた拳を握り込んで耐える。
「エリンが、エリンがかわいすぎる……!」
「えっ?」
「世の中もっと汚い罵り言葉もあるけど、エリンには聞かせられないです」
学校で何を学んできたのやら、タイタスは良くない方向に成長しつつある。エリンは家庭教師を家に呼ぶ自宅学習で済ませたため、学校生活というものを知らない。領地で兄から学んだ狭い世間と、お茶会で繋がる友人たちもあって人脈にも困ってはいないけれど。
「まさか学校ではそのようなことも学ぶのでしょうか……?」
「授業ではなく、友人と過ごすうちに自然と、ですね。さぁ、もう一度最初から」
羞恥なく堂々と台詞を言えるまで、指導は続けられた。
「エリンが『はい』と言う相手は僕だけでじゅうぶんですからね」
エリンは試されているのかと思い、習いたての答えを口にした。
「”Nope.” 」
「上手です。でも、僕に対しては『はい』でお願いします」
「”No.”」
「エリン?」
気を引くための呼びかけに、返事は不要。まだ彼は言い終わっていない。
「僕以外の男に気を許してはいけない。わかりますね?」
「はっ……はい……」
「上出来です」
歳上の威厳は、いったいどこに消えてしまったのだろう。すっかり精神を成熟させてしまった少年に翻弄されて、これが紳士が身につけるという頼りがいというものか。
「それにしても」
「なにかございましたか?」
「どうしてずっとかたい敬語しか使ってくれないんですか? 以前は少し砕けて話していたように思うのですが」
「それは、タイタスさまが大人の男性におなりだからでございます」
「え」
「こんなに大きくご立派になられては、歳下だからといって子ども扱いは、もうできませんでしょう?」
タイタスの頬が上気した。初めてプロポーズしたときの顔とそっくり。それから満面の笑みを浮かべた。
そんなに喜ばれると罪悪感が湧く。大人として敬意を表するのもそうだが、距離をとるためにも敬語を貫いている。名前だって、エリンからは呼び捨てにしていない。
「嬉しいです。エリン、ありがとうございます。貴女はほんとうに公平だ。でもたまには崩した言葉も聞きたいです」
「……それはまた、機会がありましたら」
おおかたそんな機会は訪れない、とエリンは視線を落とした。
「僕が学校にいる間は手紙しか送っていないから、物足りなくないですか? その手紙も多くは送れませんでしたし」
「誕生日にも過分なプレゼントをいただいてます」
「なんでもない時にする贈り物も楽しいと思います。僕はエリンからの贈り物が欲しいです。何か身につけられるものがいいな。僕からもお返しにプレゼントを選びます」
「身につけられる……なにをご所望でしょう?」
「それもエリンに考えてほしいです」
彼女がタイタスのことを考えて、時間を割いてプレゼントを選び用意するのだと思うと口元がゆるんで仕方ない。
「期限はございますか?」
「一ヶ月後にまたこちらに来ます。そのときに」
「かしこまりました」
****
「それ、婚約の贈り物でしょ? おめでとう」
お茶会が始まってすぐ、友人は指摘した。エリンの胸元の、華奢なネックレス。輝きは上品で、服の邪魔をしないからどんなドレスにも合わせられる。
エリンの本心と事情を知る彼女が、婚約おめでとう、なんて皮肉にしかならないとわかっているのに。
「いいえ。タイタスさまからのなんでもないプレゼントよ。楽しそうだからお互い贈り物をしてみよう、と提案されて」
「正式に婚約したって聞いたわ。しるしにウォルロンドさまからはネックレスを、エリンからはネクタイピンを贈りあったって」
確かに『エリンが考えたプレゼント』をねだられて手ずからイニシャルを刺したネクタイと小粒の宝石を埋め込んだネクタイピンを贈ったけれども。釣り合わない気がして、これまた刺繍をほどこしたハンカチを渡したら大層喜ばれた。
「だからって婚約はしていないわ。それになぜ贈り物の内容まで知っているの?」
「ウォルロンドさまの人気と、社交界の情報量を舐めないことね。そして貴女は男が宝石を贈る理由を疑いなさい」
悠然と菓子を頬張り、エリンを嗜める。
「わたしが浅はかでした……。でも婚約はしてないのよ」
「世間ではしたことになってるのよ。親に確かめたほうがいいわ」
背筋に寒気を感じて、その日は早めに退去した。
父が書斎の引き出しから取り出したのは、婚約を交わした証拠書類だった。情のかけらもない箇条書きの目立つ契約書。父の同意さえあればエリンのサインは不要だった。
男女交際に書類は要らないと信じていたエリンの心を打ち砕く。
契約書なんて、あとに残ってしまうもの。口約束だけであれば、ひとこと『さようなら』だけで済んだものを。
「口約束だけでほんとうに婚約が成立するものか」
父は呆れて、気は済んだか、とエリンを追い出した。
いままでもらった手紙、プレゼントをすべてまとめて箱につめた。いつでも返せるように。
箱はエリンひとりでは持ちきれなかった。後悔に飲まれた。これだけの期間、これだけのプレゼントの数、タイタスを無為に付き合わせてしまった。
怒りよりもやるせなさや悲しみの方が深いのは、どういうわけか。
タイタスはエリンに黙って婚約を結婚を強引に進めていたというのに。肌に馴染んでしまったネックレスは、憎らしくもやはり美しかった。それも外して、箱に詰める。
****
エリンはタイタスからも逃げ出した。とはいっても実家の領地内だ。情けないけれども世間知らずのお嬢様に大それたことはできもしない。母に兄に義姉に引き止められれば、彼らの顔に泥を塗ることはできなかった。
領地の隅っこの分譲住宅のひとつでも借りて、兄の事業の手伝いでもして食うに困らない程度細々と生活できればいい。
エリンが独り立ちを目指したのは十六のとき。父は娘に興味がなかったし、先進的な考えの兄も止めなかった。
兄の手伝いをして領地関連を、義姉に付き添って夫人関連の仕事を覚えたのは、ふたりがもし長期の旅行にでも行きたいと言ったら快く送り出してあげたかったから。兄が風邪をひいたりしても代理になれるし、もし姉がまた妊娠したら少しなり負担を軽くできる。そういう家の万が一に備えたかった。
兄名義の小さな事業を任されるまで辛抱強く努力した。エリンが二十一歳になってやっと信頼を勝ち得て、営業権を許される。町に住み、町で働き、町で休日を過ごし、必要なときは実家に戻る束の間の安息の日々。
そうして一年隠れ住み、タイタスも卒業間近というときに、やはり彼は探しにきてしまった。
「……エリン?」
タイタスに見つかることは折り込み済みだ。逃げるほど嫌だったのか、と知れば婚約結婚も諦めてくれると算段を踏んでいたから。
だから彼がエリンを探して町を訪ねても驚かず、時が来たかと思っただけ。教えたのは兄だろう。
「わたしのような平民にはお貴族さまの知り合いなどいません」
一般人のふりをしてその場を去ろうとした。
「エリン、僕を誤魔化せると思わないでください。ネックレスをしてなくても、僕はエリンがわかります」
彼からの贈り物を身につけていないことを若干責めるような口振りだった。それでエリンもカッとなった。
「……わたしを騙すようなお方がよく言えますね」
「騙す? 僕はエリンに嘘をついたりしません」
「わたしは、婚約が交わされたなんて知りませんでした。わたしのいないところで」
「結婚の口約束ならもう七年も前に」
「口約束じゃなくて、現物の書類でした。わたしにネックレスをくださったのは、婚約指輪の代わりだったのですね」
「一体どこにそんな書類が?」
「わたしの父の書斎に。きっと貴方のお父様のお部屋にも複製がございますよ」
「僕はエリンの意志を無視して事を進めたりしません。父に確認させてください」
タイタスの反応は、彼がやったにしてはおかしかった。エリンとて、彼がエリンの尊厳を損なうなど疑わしかったけれど。
ぷいと背けていた体ごと、姿勢を正す。
「……ほんとうにご存じないの……?」
タイタスは頭を左右に振った。
「いろいろなことは横に置いておいて。僕はエリンと目を合わせて話がしたいです」
「では、わたしの家にご案内いたします」
警戒のなさは、考えなしかタイタスを紳士として信頼していることの表れか。エリンが鍵を回せば開いたので、ここに住んでいるのは間違いない。エリンの私的な空間にタイタスが入ることはためらわれて、二の足を踏む。
「お茶ぐらい淹れて差し上げます。お入りください」
「……お邪魔、します」
噛み締めるように言って足を踏み入れた。
ティーカップが並ぶように二人分置かれたテーブルは小さくて、実家にいるよりも物理的距離が近い。
「領主夫人の肩書きは、わたしには荷が勝ち過ぎます」
タイタスも想定したエリンの悩み。貴族として生きたくないのか。仕事をしたいから、平民になりたいのか。
「僕が領主にならなければ、エリンは結婚を受け入れてくれますか?」
「いいえ。貴方は人望も器もお持ちですし、領主になられるべきです。お相手が貴族であろうと平民であろうと、わたしは誰とも結婚できません」
「僕はエリンに相応しくなれませんでしたか?」
「違います」
たまらずエリンは顔を両手で覆った。
「ぜんぶ違うの。わたしは貴方に対してずっと誠実ではありませんでした。わたしは、貴方が努力してまで手に入れるほどの価値がない女です」
長すぎる沈黙に、タイタスがこの場を去ったとすら思えた。
「レディ・エリンは」
タイタスは彼女が顔を上げるまで次の句を告げなかった。泣きそうな顔に、やわらかく笑う。
「十一のガキの求婚を笑いもせず、三年待つといいました。馬鹿にして断るのでもなく、おふざけのごっこ遊びとして受け入れるのでもなく、子どもが大人になるまで待つと。考える時間をくれました。レディ・エリンは翌年には結婚していてもおかしくなかったのに、他には目もくれず僕だけを待ってくれた」
「わたしは、他からの申し出を避けるためにわざと曖昧な返事をしました。正式ではなくとも約束をした相手がいるという言い訳を使いたかったのです。
……誰とも結婚したくなかったから」
罪の告白だった。なのにタイタスは明るい表情を返す。
「子どもが送った手紙に毎回律儀に返事を書いてくれました。誕生日に贈り物をすれば、僕の誕生日には貴女が自分で考えて選んでくれたであろう贈り物をくれました。都合がいいから、利用してやろうという相手に……レディ・エリンは真面目に情をかけすぎた」
彼を利用しているのだから、せめてそのくらいはしなければ時間を無駄にさせる罪滅ぼしにならないと思ったからそうしたまで。過不足なく公平に、を心掛けた。
冷たい態度をとって早々に婚約の話が潰えてしまっては他からの申し込みを断りづらくなる。
「そっけなく手紙を止められたり、会うことを拒否されれば僕だってすぐに諦めました。けれどレディ・エリンはデートに誘うとかわいくおしゃれをして来てくれました」
「デート……でしたか?」
十四と十一の子どもの、侍従(保護者)つき街歩きは。
タイタスの笑顔に力が入った。
「デートです。誰がなんと言おうとデートでした」
「は、はい……」
「始まりは他愛無い一目惚れです。けれど僕はもう、七年かけてエリンを愛してしまった。こうなっては逃してあげられません」
タイタスの外見は好まれるらしくよく賛辞を受けた。努力せずになんでも手に入るんだろうといつも決めつけられた。エリンのために四六時中必死だったというのに。学校では女生徒の視線が鬱陶しい。話したこともないのにのぼせ上がって近づく女が後先を絶たない。タイタスの話している内容に関心などなく、全て肯定するだけのつまらない存在がなんと多いことか。
エリンならタイタスの中身を色眼鏡なしで見て接してくれる。子どもの頃からずっとそう。成長するに従って、彼女がなにものにも代え難い存在だと知った。
学校では人の裏をかくことも学んだが、彼女の存在がなければタイタスも他人を尊ぶということを学校生活で忘れていただろう。
「そうおっしゃられても……」
「お気づきですか? エリンが逃げて時間を伸ばせば伸ばすほど、僕に有利だったんですよ。僕はゆっくり大人になって力をつけることができた」
「わたしは、貴方との結婚からも逃れたくて……。わたしには『結婚の幸せの作り方』がわからないのです」
タイタスの眼差しは、幼い子を見守るようにあたたかい。
「僕と過ごす時間はつまらないですか? 話すことは苦痛でしょうか」
「いいえ。……楽しいと思います」
「僕と手を繋ぐのは嫌ですか? 近くにいて不愉快ですか」
「いいえ、そんなことはまったく」
「ではすでに、答えはでています。……考えてみてください。例えば、です」
タイタスがそっと手をとる。
「朝、起きたエリンに僕がおはようと言います。寝室で僕がお茶を淹れるので、ふたりで飲みましょう」
「寝室にまで入ってこられるのは……」
「気持ち悪いですか?」
「いえ、身支度もしてない姿をみられるのは困るな、と思いました」
「……大丈夫です、僕もそのときはボサボサ頭ですから。
朝はなかなか目が開かないので、きっと半目です」
「それはちょっと見てみたいですね」
ふふ、と笑うとタイタスが少し照れた。
「そのうちお見せします。それから服を着替えて、テーブルを囲んで朝ご飯を食べます。仕事があるなら僕はおそらく一日外に出るかもしれません」
「はい」
彼のしようとしていることは、一日のシミュレーションなのだ、と目を閉じて想像する。
仕事で家を出るタイタスを見送るためにホールに連れ立つ。彼の襟やネクタイは整えるまでもなく完璧だろう。エリンができることと言えば、いってらっしゃいと声をかけて、肩に手を置き、つま先立ちしてその頬にーー。
ぱちりと目を開ける。
(わたしはなにを考えて……?!)
「日中はエリンも仕事をするかもしれないし、家にいて好きなことをしていてもいいです。エリンの自由です。ただ僕が帰ってきたら、エリンからお疲れさまと労ってほしいです。僕も家を守ってくれてありがとうとエリンを労います」
「はい」
「夕食をゆっくり食べて、寝る前には少しおしゃべりをしたいです。お互いその日の楽しかったこと、困ったこと、なんでもないことまですべて」
「はい」
ソファに並んで座って、今日はお茶会に呼ばれて、友人の子がかわいかったとはしゃぎながら報告する。タイタスは目元をなごませ『きっと僕らの子もかわいいですよ』なんて言ってエリンの膨らんだお腹を撫でーー。
(だからわたしはなぜ。ひどい妄想だわ)
「ベッドに入る前にはおやすみのキスをさせてください」
「えっと……はい」
「そういった毎日は送れないと思いますか? 少しでも嫌だと思ったら教えてください」
それらはふたりにとって、とても自然なことに思えた。
「できる、と思います」
「よかった。なら僕らは大丈夫です」
エリンの手を持ち上げて、すっかり涼やかになった目が七年前と同じ真剣味を帯びる。
「エリン、どうか怖がらないで。結婚したからといって僕は豹変しないし、無理に貴族や妻としての義務も押し付けないと約束します。
周囲の見る目は多少変化すると思いますが、僕が全力を以て貴女を守ります。貴女が平民になることを望むのなら僕も平民になります。それでも生活に困らせるつもりはありません」
彼からの愛の威圧は彼の成長に合わせて膨らみ、エリンを圧迫して追い詰める。困る。困るけれども、タイタスの熱意はやわらかく包み込むような優しさが根本にあって、嫌ではない。だから、彼が心に近づくことを許してしまっていた。
エリンはもうほとんどタイタスを受け入れている。
あと一押しだ、とタイタスは確信した。
「貴方は家を継がなければなりません。もしわたしと結婚できたとしても、こ、子どもとか……後継はどうしますか?」
「さきほど義務は押し付けない、と言いました。今の時代なんとでもなります。僕には親戚の子もいますし伝手もあります」
「そう……そうです、か。わたしが産まなくても……」
少し気落ちした音をタイタスは聴き逃さなかった。他所で子を成してくるのではと不安にさせただろうか。
「僕は絶対浮気はしません。エリンがそばにいてくれるならそれで幸せです。他の女なんて要らない」
「いえ、浮気の心配はしておりません」
断言されたことにタイタスの気分は浮上する。エリンは信じてくれている。
「子育ても乳母を雇えばいいことですし、エリンが抵抗あるのなら関わらなくてもいいです」
エリンは見下ろした自分の片腕に収まる、タイタスの瞳をして、エリンの髪を持つ赤子を想像した。幻は瞬く間に消え去る。
「えっあっ……はい。あの、でも…タイタスさまが、お望みなら……その……わたし、は……タイタスさまのお子なら、……」
はっきりしないエリンにタイタスは眉を寄せて、彼女の心の流れを推理する。気がかりはタイタスの心変わりでも浮気でもないようだ。血の繋がらない子をエリンに押し付けるという無体はしたくないから養育の面倒だって人を雇って排除できる。
そして思いついたことがある。かすかな希望にすがってもいいのかもしれない。見当外れならそれは違うと正してくれる女性だから。
「……もしかして、もしかしてだけど。エリンは僕の子を産んでもいいと思ってくれている?」
自分の妄想はそういう意味だったし、自分の発言はどうとってもそういう意味だ、とエリンは頬に手をあてる。
それ以外に答えが見つからない。
「そう、なります……よね?」
「ああ、エリン……! 好きです。愛してます」
気づいたらタイタスの腕の中にいた。結婚はわからないけれど、この腕の中にいることはいいことだと思えた。七年間もエリンと向き合ってくれた。これからもそうだろう。もう降参しようと素直に感極まっているタイタスを見上げる。
「いままで逃げてごめんなさい。わたしもタイタスさまが好きです。わたしを貴方の妻にと望んでくださいますか?」
「はい!! 僕といっしょに、『結婚の幸せの作り方』を探しましょう。とことん付き合います。僕は絶対諦めません」
「よろしくお願いします」
抵抗してもう七年、一途に想ってくれた彼をじゅうぶんすぎるほど待たせた。婚約の書類があるとかないとか、もはやどうでもいいことだった。
タイタスの腕が少し緩んで、エリンの頬を指で撫でる。
「一度だけ、キスさせてください。エリンが僕のものになったのだという実感が欲しいです」
「……一度だけ、ですよ?」
応えようと思ったのは、エリンも確証が欲しかったからかもしれない。作法はわからないけれど、目を閉じるだけで良かったはず。タイタスの指が顎にかけられて、ふわりと息がかかった。
唇が触れている時間が永遠のようだ、と思う。あと、どのくらいこうしているのか。キスしているときって話しかけて良いのかしら、と彼の名前を呼ぼうと唇を開いた瞬間。
ぬるり、と今までの人生で感じたことのない感触が入ってきた。口の中に、口が。舌が。息さえ彼に吸いとられる。エリンが身体を震わせたのはわかったはずなのに、タイタスはそれを異常事態だと捉えてくれない。顎にあった手は後頭部にまわされて、ぎゅうぎゅうと抱きしめるばかり。
怯えきった目を見てようやく、理性が働き出した。
「すみません。思わず夢中に」
真っ赤になって慌てて謝罪を並べ立てるタイタスを睨みつける。エリンは声を出すために空気を肺に吸い込んだ。
「う、うそつき……! あんなのはキスじゃないわ」
不仲な両親は子どもの前でも親密にしたことはなく、ちゃんとしたキスといえばごく軽く唇を一瞬重ねるだけのものしかエリンは知らない。
「キスです、キスですから。ご両親のキスを見たことありませんか? ほら、その、小さい頃にうっかりでも」
「わたしの両親がキスなんて。唇にも頬にもキスしたところを見たことないわ。手も繋がないのに」
「ええと、それは。失礼しました……? でも僕のあれはキスです」
「わたしの口は飴玉でも半生菓子でもないんだから。あんな、噛みついたり、舐めたり……ひどいわ」
親愛のキスしか知らないのなら、情交のキスは過激だっただろう。
タイタスなりに反省しているらしく、項垂れている。ごめんなさいすみません僕が悪かったです、と繰り返してもまだエリンは怒っていた。
「怖かったのよ」
「……しばらくキスは控えめにします」
「まだあれをキスだって言い張るの?」
「キスです。疑うなら義兄さまか義姉さまに、聞いてみてください。
ああ、エリンのその話し言葉すごくいい。好きです。親密になれたようで嬉しいです」
無意識だったエリンはハッとして、罰が悪そうに肩をすくめる。
「……ほんとに聞きますからね?」
「ええ、どうぞ。ぜひいろいろと聞くといいですよ」
今度はにやりと自信たっぷりなのが気に食わないが、真実を確かめようじゃないかと後日姉に連絡をとろうと思った。
エリンが叫び声を上げて盛大に恥をかくのは、少し先のこと。
披露宴は後で豪華なものを執り行うから、式だけは、式だけは先にと懇願されてタイタスが学校を卒業した翌日には公証人と両親(見届け人)だけの式を挙げた。いつから届出書類を用意していたのか、促されるままサインをしつつ迅速すぎる手腕に首を傾げた。
サイズぴったりの指輪は違和感なく薬指に収まっている。 これを男の甲斐性、で片付けて良いものか。
タイタスの笑顔がエリンの心をとろけさせるので、思考はとっくの昔に放棄している。
「愛してます、エリン」
迷いのない瞳に、いまなら晴れやかに返すことができる。
「わたしもタイタスを愛しているわ」
もうどんなキスも、怖くない。
お付き合いいただきありがとうございました。
キャラ補足
*タイタス*
エリンに一目惚れした。いわく「魂が震えた(Soulmate☆)」
いけいけごーごー押せ押せどんどん、な少年→青年に成長。
たまに言葉を繰り返すくせがある。
エリンが世界の中心。
タイタスが公開プロポーズしたときの両親の心境
→(やっちまったなぁ……)息子が人生早まったのと誕生日を台無しにしかけたエリンへの申し訳なさと。
七年後の両親の心境
→(やっちまったなぁ……)エリンへの執着ぶりを見て育て方間違えたか? という不安とそれを受け止めるエリンへの申し訳なさと。
婚約の手続きは両家良かれと思ってした。
*エリン*
タイタスを突き放そうとして失敗しかしてない詰めの甘い女の子。
タイタスの手管によって無理矢理恋に突き落とされた。
所詮は世間知らずなので社会を学んだタイタスの手のひらでコロコロです。
Feb 7th, 2023
読みやすいように改行と誤字脱字訂正しました。
Feb 21st, 2023
誤字指摘ありがとうございます!
参考サイト様
紳士について
http://www.literary-liaisons.com/article027.html
Fantasy name generator
https://www.fantasynamegenerators.com/
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